第67話 帰るべき場所へ
夜の冷気がまだ石畳に残る早朝、
セイントグラントの裏門近くで、四人は肩を並べていた。
空は淡く白んでいた。
雪は止み、霧が低く流れている。
街の塔が霞んで見えるなか、馬車の軋む音が遠くに響いていた。
ノアの頬にはまだ微かな疲れの色が残っていたが、昨夜よりは目に力が戻っていた。
カイはその傍に立ち、視線を町の北へ向けていた。
ウサマは黙って、兄の足取りに目を配っている。
そして、エルセラがゆっくりと口を開いた。
「……ここで、あたしは別れるわ」
三人が振り返る。
「モレスへ戻るの。……お母様と、話すために」
静かだった。けれどその言葉には、張りつめた決意の気配があった。
「女王になるってことは、母の娘であることから逃げられないってことだと思うの。このまま進んでも、きっと誰かが私に『母の罪』を背負わせる。だったら……先に、母と向き合っておきたいの」
ウサマが、少し口を開きかけたが、言葉を飲んだ。
代わりに、ノアが一歩前に出た。
「……戻って、危なくはない?」
「わからない。でも、だからこそ行くわ。リナリーの娘ではなく、あたし自身として。あの人に、それをぶつける」
カイが小さく息を吐いて、短く言った。
「……無理はするな。道を選ぶのは、君の自由だ。でも、引き返す自由もある。忘れないで」
エルセラは少しだけ笑って、首を振った。
「ありがとう。でもあたしは、前に進むために戻るの」
霧が流れ、淡い陽の光が差しはじめる。
「……じゃ、また会いましょう」
エルセラはそう言って、マントの留め具を直した。
その姿は、すでに誰かの娘ではなかった。
馬に乗る姿を、三人が見送る。
雪解けの道を踏みしめ、エルセラは南へ、モレスの方角へと姿を消していった。
それぞれの道が、いま確かに分かれた。
だが、交わる日が遠くないことを、四人ともわかっていた。
エルセラの馬が霧の中に消えてから、しばらく誰も口を開かなかった。
残された三人は、その余韻のような空気の中に立っていた。
「……行こう」
最初に声を出したのは、カイだった。
「近い港は北に一日。風は穏やかだ。今なら船は出る。ヴァロニアに戻って、ギリアン王へ報告する。……それが、今の僕たちに出来ることだ」
ノアは静かに頷いた。
魔女の薬のおかげか、顔色は幾分戻ってきている。
けれど、その目の奥には、まだ言葉にしきれない何かが揺れていた。
「……兄さん、大丈夫?」
ウサマが隣で歩調を合わせながら、そっと訊いた。
「うん。もう大丈夫。……今は」
ノアの声は小さく、でも確かだった。
街道沿いには、まだ雪が残っていた。
けれど空には、はっきりと春の匂いが漂い始めていた。
カイは先頭に立ちながら、ふと後ろを振り返る。
誰もいない道の向こう。
そこに、つい先ほどまでいた金髪の少女の背中が、まだ残像のように焼きついていた。
「……真っ直ぐだったな、あの子」
カイのつぶやきに、ウサマは少しだけ頷いた。
「うん。……でも、怖くもあったと思う。母親に会いに行くのは」
「怖くても進むのが、あの子の強さか」
「……置いてかれてられないな」
「ウサマ君、ついて行かなくて良かったの?」
「……うん、元々寄り道だったんだ。この先は、俺は自分の道に戻るよ」
「そっか。僕たちは君を探す旅だったから、これで任務完了だな」
港へ向かう道の途中、石橋を越えたあたりで、朝の霧が晴れはじめた。
陽の光が街道の先を照らしている。
ノアはその光の先をじっと見つめていた。
ウサマも、隣でその視線を追っていた。
「ねえ、カイ、……ヴァロニアに戻ったら、何て言うの?」
「真実を言う。……この国で見たもの、聞いた事、全部。陛下も父上も、それを受け止めるだろう。……だから、僕も覚悟を決める」
ノアは、その横顔を見つめた。
言葉にはしなかったが、心の中にひとつ、答えが降ってきていた。
――自分もまた、いずれ、この国で触れた言葉を『語ること』を選ばなければならない時が来るかもしれない。
彼らの歩みは、やがて海の見える丘にたどり着く。
港には、ヴァロニア行きの小さな船が帆を張って待っていた。
それぞれの心に、まだ解けきらないものはあった。
けれどその船は、確かに帰るべき場所へと続いていた。




