第66話 僕の答え
《断章XⅣ:絆》
名は絆ではない。
血もまた、赦しではない。
ただ、痛みを知る者だけが、沈黙の奥に触れることができる。
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黒髪の少年が、人垣をかき分けるように飛び込み、崩れ落ちたノアのもとへ膝をつく。
その動きはまるで、誰よりもそこにたどり着くことが当然だったかのように自然で、速かった。
「アサドに触んな!!!」
群衆は一瞬たじろぎ、ノアに伸ばされていた手が潮のように引いていく。
人が離れ、残ったのはカイと、ノアをまっすぐに抱き起こすウサマだけ。
ウサマの声には、信仰の熱も歓喜もなく、ただ切実な怒りがにじんでいた。
「兄さん!! ……俺がいる。大丈夫だから!」
その声に反応したかのように、ノアの目がわずかに開いた。
焦点はまだ定まらない。けれどその名を呼ばれることで、意識が現実に引き戻される。
「……ウ……サマ……?」
その名を呼んだ瞬間、もうひとつの影が人をかき分けて駆け寄る。
金の髪が光の中でやわらかく揺れ、蒼とも翠ともつかない瞳がノアを見つめていた。
「……ウサマのお兄さん、見つけた」
それは、息を整えながら立ち尽くすエルセラだった。
彼女はウサマの肩越しにノアを見つめ、ようやく小さく息を吐く。
カイもその二人を見て、眉をわずかに寄せる。
「……君たちが、氷派に逃げたって噂になってる連中か」
「は? 逃げてねぇし!」
ウサマが睨み返す。エルセラは服の袖を軽くつまんで彼を制し、視線をカイに向ける。
「……あっ。あなた、モレス港で……」
「君は……」
カイは言いかけて、何も言わずに静かにノアの傍らに膝をついた。
エルセラはそれを見て、言葉を飲み込む。
そして、そっと微笑むように言った。
「……ありがとう。ウサマのお兄さんを、連れてきてくれて」
カイは目を逸らしながらも、ノアの頬に手を当てる。
それは返礼ではなく、今ここにあるものだけを優先するという、黙った意思表示だった。
エルセラも、何も言わず、そっと膝を折る。
群衆は、彼らを見つめながらも、もう手出しはできなかった。
何かが崩れ、何かが収まるように、信仰の熱が静まっていく。
ウサマは、自分のポケットに手を入れる。
そこにあるのは、小さな布で包まれた、薄い香りの粉。
ミルクスロー。
魔女の村で、ママ――ばーちゃんが手渡してくれたもの。
『ミルクスローの粉。痛み止めだけど、よく眠れるわ。……心の声がうるさくなったら、使って』
そう言ったときの魔女の表情が、ふと思い出された。
ウサマは、粉を慎重にノアの口の中に含ませた。
甘い香りが、ふっと鼻をくすぐった。
それは、森の中で焚いた薬草の香りに似ていた。けれどそれより、もっと優しく、もっとあたたかく感じられた。
「兄さん」
ウサマは、そっと名を呼ぶ。
するとノアは、わずかに首を動かし、音に反応した。
「大丈夫だ。……飲めるか?」
唇に革の水袋の口を当てると、ノアはかすかにうなずいた。
ひと口、ふた口と静かに飲み下した。呼吸が少しずつ、深くなる。
ウサマは、それを確認しながら、言葉を落とした。
「……俺もさ、最初は、声がうるさくて怖かったんだ。何が自分の声で、何が他人の声か、わからなくなって」
ノアの指が、わずかに震えながら、ウサマの袖をつかんだ。
それは、『わかる』とも『ありがとう』とも違う、でも確かに通じたことを告げる仕草だった。
ウサマがもう一度、ノアの口元に水袋をあてる。
「少しずつでいい。……無理に、声を聞かなくていいんだ」
ノアは小さく頷いた。呼吸は浅く、肩がかすかに震えていた。
けれど、目はわずかに開き、ウサマの存在を感じ取っているようだった。
傍らにいたカイが、それを黙って見つめていた。
そして、低くつぶやくように言った。
「君は、同じ痛みを知ってるんだな……。ノアは、ずっと……何も言わなかった。こんなになっても。僕には、言えなかったんだな」
声には、驚きも、怒りもなかった。
ただ、静かに混じる悔しさと、ほんの少しの羨望。
ウサマは、答えなかった。
けれど、目を逸らさずに、ノアの瞳を見ていた。
ミルクスローの効果はすぐには出ない。
けれど、ふわりと何かがほどけていくような気配が、ノアの体に戻ってきていた。
礼拝堂の横手、静かな回廊の影。
雪解けの滴が石壁を伝い、遠くの鐘の音が小さく響いていた。
エルセラとウサマのふたりは、ノアが休める宿を探しに宿場へと向かった。
残されたノアは、ようやく身体を起こし、カイに支えられて、石の縁に腰を下ろした。
吐く息は細く、肩に残る震えは、まだ完全には引いていない。
カイはその隣に、黙って腰を下ろす。
焚き火もない、ただの壁の影。それでも、不思議と冷たくはなかった。
しばらくの沈黙のあと、ノアがぽつりと口を開いた。
「……ずっと、黙ってて、ごめん。……聞こえてたんだ。人の……心の声が」
カイは視線を伏せたまま、ただ聞いていた。
ノアの手が、かすかに震えていた。
けれどその声は、どこか清められたように静かだった。
「言葉じゃなくて、心の奥。思っただけのこと、押し込めてること……全部。最初は誰のものかもわからなくて、でも、だんだん、顔と気配と結びついて……」
冷たい風が、ぴゅうっと吹き抜けた。
ノアは目を閉じ、言葉を続けた。
「……君の心の中も、ずっと、聞こえてたよ」
カイがゆっくりと顔を上げ、ノアを見た。
ノアは、それを避けずに受けとめた。
「……王宮の庭で、初めて会った時から。君の、不安も、違和感も、気づきそうで気づかない問いも……全部」
「……じゃあ、なんで――」
カイの声は、低く苦しげに漏れた。
(……いや、言えるわけないか……)
ノアは、まるで謝るように目を伏せた。
「……僕は、君のこと、失いたくなかったんだ。君は、僕を、一緒に歩く相手として見てくれた。なのに、それを僕は勝手に……覗いてた」
「…………」
「君の中の声を、勝手に聞いてた。でも、それを知られたくなかった。誰よりも、君にだけは」
カイはしばらく黙っていた。
言葉にしないが、ノアに対する怒りに近い感情がカイの心を埋めているのが伝わってくる。
ノアは耐えきれず、声を絞り出す。
「だから……怖かった。ばれたら終わるって、ずっと思ってた」
「……僕のこと、……そんな風に、思ってたんだ……」
カイの声には、淡い怒りと悲しみが滲んでいた。
けれど次の瞬間、彼はふっと息を吐き、ノアを見つめた。
「……全部、聞いてたんだろ……? だったら、言わなくてもわかるでしょ?」
その後に続く、カイの心の声が聞こえ、ノアは、泣きそうな顔を上げた。
カイは、少し照れたように、笑っていた。
「それでも隣にいるってことが、僕の答えだよ」
心の声は聞こえていた。それでも――言葉で、答えてくれた。
ノアの目が滲んだ。
けれど、それは痛みではなかった。
名前も、言葉もない赦しが、今度こそ、そこにあった。




