第65話 預言者の再来
《断章XⅢ:民と神殿》
神殿が民を守るのではない。
民の願いが、神殿を造らせたのだ。
------------------------------------------------------------
セイントグラントの礼拝広場には、朝から白い人影が集まっていた。
雪の解け残る石畳を埋めるように、巡礼者、修道士、信徒、そして噂を求める民衆たちが次々と足を運ぶ。
数日前から、若き王女と黒髪の少年が旧王を退けたという噂が広まり、氷派の中枢であるこの神殿都市にも静かに波紋が広がっていた。
何かが変わるのではないか――そんな予感に駆られた人々が、ただの儀式ではない何かを求めて、この礼拝広場に集っていた。
大礼拝堂の尖塔が影を落とし、鐘が三度鳴ると、説教台に白衣の司祭が立った。
ノアは群衆の端にいた。
ノアは深くフードをかぶってはいたが、その存在はすでに目立っていた。傍らに立つ黒髪の少年――カイの姿が、無言の目印になっていた。
――魔女王の庇護の証
――氷のノクシアル
――黒髪の少年と、金髪の
隣でカイが気配を探るように広場を見渡している。
心の声が聞こえるわけではないが、カイも民衆の不安を感じ取っていた。
「……なんだこれ。こんなに人が集まってるなんて……」
カイが独り言のように低く呟いた。
「王政が崩れたって話、本当みたいだよ」
ノアは、カイにだけ聞こえるように小さく告げた。
「一体、どういう事だ。ウサマと連れの子は無事なのかな……」
「いろんな噂が混ざってる。二人が通ったとか、首都で旧王が倒れたとか……シュケム論の名まで出てるらしい」
その噂には、まるで初めから仕組まれていたかのように、『ヴィンセントの再来』という言葉さえ含まれていた。
それは、ノアが数日間に渡ってこの街で行ってきた些細な行いが、思わぬ形で聖者としての像を形作っていたからだ。
修道院の庭で倒れた老婦人に手を貸し、飢えた子どもに自分の食べ物を与えた。
そんなことが、この街では静かに神に仕える者のように映っていたようだ。
ノアの表情は硬い。
余計なことをしなければ良かったんだろうか……。
そんな中、礼拝堂から出てきた司祭が手を掲げ、高らかに声を放った。
「――信徒よ、目を凝らせ。耳を澄ませ。神はいつも、静けさの中から語りかける」
ざわめきがすっと引いた。
まるで、大地ごと呼吸を止めたかのように、広場全体が静まった。
「ウィンブローから不吉な話が聞こえている。しかし、今、我らがこの地、セイントグランドに、語られざる者が通った。名を語らず、使命を掲げず――されど、見る者は見た。彼の沈黙のうちに、光があり、影があったと」
民衆の間に「俺も見た」「私も見た」と、ざわめきが広がる。
『名を語らぬ者』――それは、きっとウサマと炎派の姫の噂だ。
黒髪の少年が、名も出自も告げぬままこの地を訪れたという話。
だが曖昧な言葉の輪郭は、民の想いの中で勝手に形を変え、増幅し始めていた。
ノアの心に流れ込む虚像。黒髪の少年が、ノクシアルとなり、魔女となり、
金髪の姫が、ヴィンセントの残した言葉そのものになっていく。
「……もしかして、あの人が、沈黙の子……?」
「……預言者の再来か……?」
言葉が、視線が、期待の熱を帯びて、ノアを包み始める。
民衆が少しずつざわめく中、司祭は続ける。
「民よ。信じるならば、その姿に跪け。疑うならば、自らの心を問え。名を語らぬ彼の名は、すでに我らの間に語られている」
その言葉が落ちた瞬間、誰かが叫んだ。
「――いたぞ! あの時の少年だ!」
群衆の視線が一斉にノアに向かう。
ノアの耳に、幾重もの声がなだれ込む。
――人々に施していたと言う、あの少年……
――白き神殿に現れた男の再来だ……
誰かが祈りの姿勢を取り、誰かが手を伸ばしてきた。
ノアは、身を引こうとしたが、声が、視線が、記憶と願望とが、ノアを突き刺すようにぶつかってくる。
最初に膝をついたのは、痩せた老婆だった。その後ろに、子を抱えた若い母親が叫ぶ。
「……どうか、この子に、祝福を……!」
「あなたの祝福があれば、願いが叶うと、皆が……!」
皆が。
みんなが。
見た者が言っていた。
(違う! そんなこと、誰も言っていない)
だが、信じている人に向かって、それは言葉にならなかった。
名も語らぬ沈黙、それが証となり、まるで、ノア自身がそこにいないかのように、彼の語られた像が群衆の間を独り歩きし始めた。
「ヴィンセントに似ている」
「白の神殿に再び、光が戻る」
「神の沈黙を運ぶ者だ!」
ノアは思わず数歩、後ずさった。
カイがすぐに腕を伸ばすが、群衆の中から伸びた別の手が、ノアの袖をつかんだ。
「お願いです――!」
「私の罪を……!」
ざわめきではない。祈りでもない。
心の声だった。
ひとりひとりが、ノアに向けて放つ、名もない信仰、希望、恐怖、疑念。
その全てが流れ込んできて、ぐらり、とノアの視界が傾いた。
足元が、ひとつも実体を持たない言葉に埋め尽くされていく。
「ノア、下がれ!」
カイの声が聞こえた。
だがその声すらも、群衆の声なき声の中に溶けて消えて、ノアには届かなかった。
(……やめろ……僕は……誰の代わりでも……ないのに……)
ノアは、もう立っていられなかった。
足元の重力が、言葉の重さで変質しているかのようだった。
膝が折れ、地面に手をつく。
――音が消えた
いや、違う。
音は消えていない。音は増え続けていた。
目の前の広場には声があった。ざわめき、祈り、憧れ、叫び。
けれどノアの耳に届いていたのは、もっと奥にある、誰にも聞かれていないはずの、心の音だった。
まるで津波のように、心の声にのまれていく。
――あの人なら、世界を、何かを変えてくれる
――名前がなくても、あの沈黙は光だ
――信じています。だから救いを
一つ一つの心の声が、剣のようにノアに突き刺さってきた。
どれも切実で、どれも美しい想い。ただ、どれも――他人のもの。
それは祈りであると同時に、期待であり、支配だった。
語らぬ者の沈黙に、自分の願いを託すために。
自分の不安を他者に押しつけ、救済の義務を課すために。
(……僕は、誰の希望でもない)
思っても、言葉にならなかった。
何を言っても、それすら『聖なる言葉』にされてしまう。
きっと、否定をすれば試練とされ、肯定をすれば予言とされる。
ノアの心は、今まさに軋んでいた。
他人の願いが入り込み、皮膚も骨も心も、少しずつ侵食していく感覚に襲われた。
(……僕は、そんな人間じゃない……)
声にならない声が、ノアの内側で震えた。
しかし誰かが、それこそが信仰だと、心の中で答えた気がした。
ノアの心の内に、他人の信仰が居座る。
『ノア』ならばという、果てのない光の渦が――希望という名の暴力が、容赦なく流れ込んでくる。
ノアはもう、自分の境界がどこにあるのか分からなくなっていた。
誰かが泣いて、誰かが祈っている。
誰かが何かを赦してほしいと願い、誰かがただ存在を見つめている。
それが、すべてノアの中に降り注いでいた。
『自分』の形が、どんどん崩れていくようだった。
(助けて……誰か……)
膝が砕け、地に触れる。
視界の光が遠ざかっていく。
(……母さん、父さん……)
なのに、誰かの声が、まだ――心の奥に入ろうとしていた。
「ノア!!!」
カイの声が、今度は確かに届いた。
けれど、カイが腕を伸ばす前に、ノアの身体は、ゆっくりと横へ崩れていく。
近くにいた群衆の手がたくさんノアに向かって伸び、倒れるノアの身体を抱えた。
それを見て、誰かが叫ぶ。誰かが祈る。
その全てが、ノアにはもう遠いものだった。
意識が、ふっと闇に沈みかけたそのとき――
ふいに、別の気配が、空気を裂いた。
「――アサド!!!!」
ウサマの声がもう一度、広場に鋭く響いた。




