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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第7章 愛の花

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第64話 沈黙の終幕


 その瞬間を、ウサマは忘れないだろう。



 冷たい石の政務室。

 差し込む光さえ冷たく、空気は静まり返っていた。

 けれど今、そこに立つ二人の間には――

 氷より鋭く、火より熱いものが交わされていた。


 問いは、投げられた。

 答えは、返された。


 だがそれ以上に――

 その間にあったものが、崩れたのだ。


 ウサマの目には、はっきり見えた。

 オスカーの姿が、わずかに沈んだのを。

 それは背筋でも、肩でもない。

 威光だった。沈黙を支配していたはずのその男が、支配される側の重みを、初めて感じていた。


(……オスカーが負けた)


 ウサマの中で、言葉にならない確信が生まれた。


 この空気。

 この沈黙。

 この眼差しの交換。


 もうオスカーは、支配者ではなかった。

 言葉で敗北を認めることはないだろう。

 だが、もうその立場は崩れていた。

(……あの人は、娘を拒めなかった。自分が築いてきた秩序と、エルセラの存在が、同時には並び立たないことを、知ってしまったんだ)

 エルセラは、そのことに気づいていただろうか。

 いや、気づいていないかもしれない。

 それでも、ちゃんと見届けていた。


『わたしは、あなたに答えをもらいに来たのではありません。問える娘として、ここに立てたなら、それで、十分です』


 その言葉の意味を、ウサマは胸の中で何度も繰り返した。

(名をもらうだけじゃなく、名を問い返す者になる。それが、今のエルセラなんだ)


 扉の外では、衛兵たちの足音がわずかに聞こえていた。

 けれど、この部屋だけは、別の時を刻んでいた。


 沈黙が続く。

 だが、それは敗北の沈黙だった。


 ――見届けた。


 ウサマはゆっくりと一歩前に出た。

 視線を下げず、ただ静かに言った。

「もう、答えは聞きました。そろそろ、失礼します」


 オスカーは何も言わなかった。

 ただ、目を閉じたまま、身動きひとつしなかった。

 それは、最後の矜持だったのかもしれない。

 あるいは、それ以上の何も残っていなかったのかもしれない。


 エルセラは、ウサマと並んで歩き出した。

 扉の前まで来たとき、ウサマはふと振り返った。

 政務室の奥。そこにいる男は、もう支配者ではなかった。

 静かに、勝利の扉が閉じた。





 扉が閉じた音は、小さなものだった。

 だが、何かが確かに終わった音だった。

 重ねた指先が、机の縁をわずかに叩く。

 無意識のうちの動作。

 だが、思考の奥では、もう何も響かなかった。

 名も、秩序も、儀礼も。

 それらは、この政務室の空気とともに、ひとつずつ静かに崩れていた。

(あれが……リナリーの娘……そして、私の……)

 ずっと、考えないようにしていた。

 記録にも、報告にも、噂にも――あってはならない可能性として処理してきた。

 だが、目の前に立った少女は、疑いようもなかった。


 リナリーの目だ。

 だが、あの夜の眼差しとは違う。

 もっとまっすぐで、もっと……傷ついていなかった。

 あの女は、負けた顔をしなかった。


 そしてあの娘は、奪いに来たのではない。

 ただ、問うために来たのだ。

(私は、ずっと、あの夜は、勝ったのだと……)

 あの夜。

 ぬるい紅い酒と、あまりにも柔らかい笑み。

 リナリーの策略だったことは、わかっていた。

 だが、あの瞬間だけは、自分が上にいたと思い込もうとした。

 ――だが違った。

 エルセラがその名を名乗った瞬間、すべては崩れていたのだ。

(娘など、認めてはならなかった。だが否定することも、できなかった。あれを否定すれば、自分が誰かさえ揺らいでしまう)

 この城は、沈黙と秩序の城だった。

 だが今、沈黙することが敗北に変わった。答えられないこと、そのものが負けだった。

(あの娘は、勝ちを求めてはいなかった。ただ、問いを投げた。たったそれだけで……私の支配は、終わったのか)

 もはや、誰の忠誠も語れない。

 王弟でも摂政でもない。

 娘を名乗る者にさえ、正面から否を言えぬ。

(リナリー。……私は、勝ったと思っていた。あの夜、お前を支配したと。だが、お前はあの娘を産み、私のが敗北するまでを仕組んでいたのか)

 肩から重みが抜ける。

 指先に力が入らない。

 誰もいない政務室。

 火の気も冷めかけた炉。

 この場所だけが、まだ『終わりの王』の姿を留めていた。

 ――すべてが過ぎ去ってしまった。

 それが、オスカーという男の、沈黙の終幕だった。






 扉を閉めた後の廊下は、ひどく静かだった。

 石の床は冷え切っており、足音すら乾いて響く。

 衛兵たちの姿はなく、白い壁と天井が、二人を静かに見下ろしていた。

 エルセラは、何も言わず歩き続けていた。

 ウサマは一歩後ろから、無言でその背を追っていた。

 角を曲がったところで、中庭に抜ける小さな扉が開いていた。

 ふたりは自然と、その扉から外へ出た。

 冷たい風が、頬を撫でる。

 空はまだ冬の色だったが、風の中には、ほんのわずかに春の匂いが混じっていた。

 エルセラは、白い中庭の縁に腰を下ろした。

 手袋を外し、指先を組む。

「……終わった、のかな」

 その声には、勝利の喜びはなかった。

 ただ、自分の足で扉を開けた者の声だった。

「うん。……あれはもう、否定できないって顔だった」

 ウサマが隣に立ったまま、静かに言う。

「でも、肯定もしなかった」

「だから、勝ったんだろ?」

 その言葉に、エルセラはふっと小さく笑った。

 けれど、それはどこか切ない笑みだった。

「名乗った瞬間、体のどこかが、すごく冷たくなったの。でも……怖くなかった。それより、あの人に問いを返せたっていうことが……すごく、大きくて」

 じわじわと、エルセラが興奮してくるのが伝わってくる。

「うん、なんか、わかるよ」

 ウサマも、視線を下げて頷いた。

「ずっと誰かの子どもだったのに、初めて、自分の言葉で、親に問える側になった気がした」

 エルセラは、心を静めるように目を伏せる。

「答えは、なかったけどね」

「それでも、問いを投げたのはお前だ。それが、あの人の終わりになった」

 風が、二人の間をすり抜けていく。

「……ありがとう、ウサマ」

「俺、何もしてない」

「でも、隣にいてくれた」

 その言葉に、ウサマは少しだけ目を細めた。

 エルセラは、やわらかな表情で空を見上げる。

「父が誰かを知るってことは、誰にも与えられなかった問いを、やっと投げ返せるってことだったの」

「で、それが終わったから、お前は誰の娘かじゃなく、誰として生きるか選べるってことだな」

 エルセラは頷いた。それは、静かな、そして力強い頷きだった。

「行こ! ウサマ」

「どこへ?」

 春が来るのは、もうすぐだった。



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