第64話 沈黙の終幕
その瞬間を、ウサマは忘れないだろう。
冷たい石の政務室。
差し込む光さえ冷たく、空気は静まり返っていた。
けれど今、そこに立つ二人の間には――
氷より鋭く、火より熱いものが交わされていた。
問いは、投げられた。
答えは、返された。
だがそれ以上に――
その間にあったものが、崩れたのだ。
ウサマの目には、はっきり見えた。
オスカーの姿が、わずかに沈んだのを。
それは背筋でも、肩でもない。
威光だった。沈黙を支配していたはずのその男が、支配される側の重みを、初めて感じていた。
(……オスカーが負けた)
ウサマの中で、言葉にならない確信が生まれた。
この空気。
この沈黙。
この眼差しの交換。
もうオスカーは、支配者ではなかった。
言葉で敗北を認めることはないだろう。
だが、もうその立場は崩れていた。
(……あの人は、娘を拒めなかった。自分が築いてきた秩序と、エルセラの存在が、同時には並び立たないことを、知ってしまったんだ)
エルセラは、そのことに気づいていただろうか。
いや、気づいていないかもしれない。
それでも、ちゃんと見届けていた。
『わたしは、あなたに答えをもらいに来たのではありません。問える娘として、ここに立てたなら、それで、十分です』
その言葉の意味を、ウサマは胸の中で何度も繰り返した。
(名をもらうだけじゃなく、名を問い返す者になる。それが、今のエルセラなんだ)
扉の外では、衛兵たちの足音がわずかに聞こえていた。
けれど、この部屋だけは、別の時を刻んでいた。
沈黙が続く。
だが、それは敗北の沈黙だった。
――見届けた。
ウサマはゆっくりと一歩前に出た。
視線を下げず、ただ静かに言った。
「もう、答えは聞きました。そろそろ、失礼します」
オスカーは何も言わなかった。
ただ、目を閉じたまま、身動きひとつしなかった。
それは、最後の矜持だったのかもしれない。
あるいは、それ以上の何も残っていなかったのかもしれない。
エルセラは、ウサマと並んで歩き出した。
扉の前まで来たとき、ウサマはふと振り返った。
政務室の奥。そこにいる男は、もう支配者ではなかった。
静かに、勝利の扉が閉じた。
扉が閉じた音は、小さなものだった。
だが、何かが確かに終わった音だった。
重ねた指先が、机の縁をわずかに叩く。
無意識のうちの動作。
だが、思考の奥では、もう何も響かなかった。
名も、秩序も、儀礼も。
それらは、この政務室の空気とともに、ひとつずつ静かに崩れていた。
(あれが……リナリーの娘……そして、私の……)
ずっと、考えないようにしていた。
記録にも、報告にも、噂にも――あってはならない可能性として処理してきた。
だが、目の前に立った少女は、疑いようもなかった。
リナリーの目だ。
だが、あの夜の眼差しとは違う。
もっとまっすぐで、もっと……傷ついていなかった。
あの女は、負けた顔をしなかった。
そしてあの娘は、奪いに来たのではない。
ただ、問うために来たのだ。
(私は、ずっと、あの夜は、勝ったのだと……)
あの夜。
ぬるい紅い酒と、あまりにも柔らかい笑み。
リナリーの策略だったことは、わかっていた。
だが、あの瞬間だけは、自分が上にいたと思い込もうとした。
――だが違った。
エルセラがその名を名乗った瞬間、すべては崩れていたのだ。
(娘など、認めてはならなかった。だが否定することも、できなかった。あれを否定すれば、自分が誰かさえ揺らいでしまう)
この城は、沈黙と秩序の城だった。
だが今、沈黙することが敗北に変わった。答えられないこと、そのものが負けだった。
(あの娘は、勝ちを求めてはいなかった。ただ、問いを投げた。たったそれだけで……私の支配は、終わったのか)
もはや、誰の忠誠も語れない。
王弟でも摂政でもない。
娘を名乗る者にさえ、正面から否を言えぬ。
(リナリー。……私は、勝ったと思っていた。あの夜、お前を支配したと。だが、お前はあの娘を産み、私のが敗北するまでを仕組んでいたのか)
肩から重みが抜ける。
指先に力が入らない。
誰もいない政務室。
火の気も冷めかけた炉。
この場所だけが、まだ『終わりの王』の姿を留めていた。
――すべてが過ぎ去ってしまった。
それが、オスカーという男の、沈黙の終幕だった。
扉を閉めた後の廊下は、ひどく静かだった。
石の床は冷え切っており、足音すら乾いて響く。
衛兵たちの姿はなく、白い壁と天井が、二人を静かに見下ろしていた。
エルセラは、何も言わず歩き続けていた。
ウサマは一歩後ろから、無言でその背を追っていた。
角を曲がったところで、中庭に抜ける小さな扉が開いていた。
ふたりは自然と、その扉から外へ出た。
冷たい風が、頬を撫でる。
空はまだ冬の色だったが、風の中には、ほんのわずかに春の匂いが混じっていた。
エルセラは、白い中庭の縁に腰を下ろした。
手袋を外し、指先を組む。
「……終わった、のかな」
その声には、勝利の喜びはなかった。
ただ、自分の足で扉を開けた者の声だった。
「うん。……あれはもう、否定できないって顔だった」
ウサマが隣に立ったまま、静かに言う。
「でも、肯定もしなかった」
「だから、勝ったんだろ?」
その言葉に、エルセラはふっと小さく笑った。
けれど、それはどこか切ない笑みだった。
「名乗った瞬間、体のどこかが、すごく冷たくなったの。でも……怖くなかった。それより、あの人に問いを返せたっていうことが……すごく、大きくて」
じわじわと、エルセラが興奮してくるのが伝わってくる。
「うん、なんか、わかるよ」
ウサマも、視線を下げて頷いた。
「ずっと誰かの子どもだったのに、初めて、自分の言葉で、親に問える側になった気がした」
エルセラは、心を静めるように目を伏せる。
「答えは、なかったけどね」
「それでも、問いを投げたのはお前だ。それが、あの人の終わりになった」
風が、二人の間をすり抜けていく。
「……ありがとう、ウサマ」
「俺、何もしてない」
「でも、隣にいてくれた」
その言葉に、ウサマは少しだけ目を細めた。
エルセラは、やわらかな表情で空を見上げる。
「父が誰かを知るってことは、誰にも与えられなかった問いを、やっと投げ返せるってことだったの」
「で、それが終わったから、お前は誰の娘かじゃなく、誰として生きるか選べるってことだな」
エルセラは頷いた。それは、静かな、そして力強い頷きだった。
「行こ! ウサマ」
「どこへ?」
春が来るのは、もうすぐだった。




