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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第7章 愛の花

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第63話 名も、剣も使わずに

 扉が、静かに軋んで開いた。

 白い回廊を渡る風が止み、部屋の中の空気だけが重くなる。

 入室を促すように、衛兵が一礼し、脇に控えた。

 ウサマが一歩、先に足を踏み入れる。

 その背を追って、エルセラが静かに進んだ。

 だがその足取りは、ためらいなく、真っ直ぐだった。


 政務室の奥。

 壁に並ぶ地図と、整えられた文書の束。

 そして、窓辺に背を向けるようにして立つ、ひとりの男の後ろ姿。

 灰色の外套。年齢を重ね、少しくすんだ金色の髪。

 男の姿は、どこか絵画のように静かだった。

 ただ、振り返らずとも、こちらを見ている気配があった。

「……ノクシアルの名で申請した者たちか」

 その声は、低く、澄んでいた。

 だがそこには、温度も感情も感じさせぬ硬さがあった。

 ウサマは胸元から封書を、後ろから差し出した。

「はい。ホープ・ノクシアル候の名を借りてます。同行するのは、俺が身元を保証する者です」

 男の指が動き、受け取った書簡を静かに開いた。

 中身を確かめる時間は短かった。

 けれど、その一瞥の中で、必要な情報はすべて読み取ったのだろう。

「……名前を、尋ねてもいいか?」

 振り返らぬまま、オスカーが問う。

 その言葉は、横にいるウサマに向けられたものではなかった。ウサマはエルセラに視線を向けた。

 エルセラは、わずかに息を吸い、口を開いた。

「……あたしの名前は、エルセラ・フォン・シーランドです」

 その瞬間――

 部屋の空気が、目に見えぬほどわずかに震えた気がした。

 オスカーは、ゆっくりと振り返った。

 蒼みの翠を帯びた瞳。

 その視線が、真っ直ぐにエルセラを捉える。


 金の髪。

 そして、己と同じ、――蒼みの翠の瞳。

 それは、シーランド王族だけが受け継ぐ身体的特徴、海国の瞳の色だった。


 その顔立ちは、かつて見た女の顔にあまりにもよく似ていた。

 沈黙。

 長く、重い、沈黙だった。




「……エルセラ」


 オスカーがその名を繰り返した。

 その響きは、まるで誰かの記憶を噛みしめるようだった。

「その名を、誰に与えられた?」

 エルセラの目が、ほんの少し揺れた。

「名を与えてくれたのは、母です。けれど、あたしは……その先を、自分で選びに来ました」

 その言葉に、オスカーはまばたきを一つだけした。

「……母の名は?」

「――リナリー・フォン・シーランドです」

 その瞬間。

 小さく、ほとんど聞こえないほどの音がした。

 それは、オスカーが手にしていた手袋を、机の上に静かに置いた音だった。

 オスカーの瞳の奥に、かすかに影が揺れた。

 だが、それ以上は、何も言わなかった。


 窓から差し込む白い光だけが、時間の経過を語っていた。

 オスカーは、手袋を机に置いたまま、再び視線をエルセラに向ける。

 少女の顔に、曖昧な感情の翳りはなかった。

 ただ、問うために来た者のまなざしが、そこにあった。

(……海国の瞳に、リナリーの眼差し。だが、あの女よりもずっと、澄んでいる)

 エルセラが、口を開く。

 声は震えていなかった。

 けれど、言葉の奥に揺れるものは、誰の目にも明らかだった。


「――あたしを、どう思いますか?」


 静かな問いだった。

 だがその言葉は、誰よりもオスカーに重く響いた。

(何故、いま、それを問える? 何故……この私に向かって)

「母の名を語るだけなら、ただの策略で終われた。でも、名を語ってしまえば、わたしはもう戻れない。だから……あなたの娘としてではなく、あなたが、わたしをどう見るのかを、知りたいと思ったんです」

(あなたが、あたしを娘と呼ぶのか、それとも、呼ばないのか)

 オスカーの指先が微かに動いた。

 けれど、それは力でも拒絶でもなかった。

 ただ、目の前の少女が放った言葉が、心の中のどこか深くに触れた音だった。

(問われたのは、私か。いや、『あの夜』そのものだ……)

 オスカーの心が、凪いでいるのがウサマにはわかった。

「あなたにとって、わたしは……罪ですか? 希望ですか? あるいは……ただの、過去ですか?」

 その一言ごとに、部屋の温度が変わっていくようだった。

 ウサマは、黙ったまま、そばで立ち尽くしていた。

(問われている……支配者の座から。これは――もう、私の側の言葉ではない……)

 それぞれの心の声が、ウサマにだけは聞こえてくる。

 だが、今は自分が口を挟む場面ではないと、わかっていた。

 オスカーは、机の縁に手を置いたまま、視線を落とした。

(この問いに、答えられる資格が、私にあるのか?)

「……十七年前」

 オスカーの声が、ようやく返ってきた。

「私は、兄王の妃、王太妃だったリナリーを……支配出来たのだと、思っていた。政治的にも、感情的にも……だが、それは錯覚だったようだ」

(あれは、あれが私の敗北――だったのだ。誤魔化していた、自分を)

 エルセラは黙って聞いていた。

 その目は、決して逸らさなかった。

「君が、その時、宿されていたのだとしたら……私は君を、知らずに捨てたことになる。だが君は、生きて、ここまで歩いてきた。それは……私の支配の延長ではない。私の知らぬ世界の、意思だ」

(あの女の手を離れ、あの夜の記憶を越えて、生まれた意志……)

 オスカーは、ゆっくりとエルセラの方へ視線を戻した。

(あの瞳の色は、紛れもなくシーランド王家の血。これでは、もはや逃れる事はできぬ……。我が娘だと、認めれば氷派の秩序が崩壊し、認めなければ私の……シーランド王家の正当性が終わる……)

 その目には、もはや政敵を見るような色はなかった。

「……私は、君を否定できない。だが、受け入れることができるかは……まだ、答えられない」

(答えれば、私は――完全に過去になる)

 その言葉は、決して優しくなかった。

 だが、誠実だった。

(いや、……我が血を継ぐ者が、ここに立ったのなら、それこそが、神意なのか……)

 エルセラは、静かにうなずいた。

「……それで、十分です。わたしは、あなたに答えをもらいに来たのではありません。問える娘として、ここに立てたなら、それで、十分です」

 その瞬間、オスカーの肩がわずかに揺れた。

(ああ――これが『敗北』か……。私が、この国の支配者ではなくなる瞬間か)

 あまりにも静かで、あまりにも決定的な対話だった。


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