第62話 始まりの扉
道は、森を抜け、丘を越え、そして石畳の街道へと続いていた。
霧深い魔女の村を後にしてから、四日が経った。
ふたりは、いったん信仰都市セイントグラントの外縁に立ち寄り、氷派の動向や巡礼者の噂を耳にした後、騒ぎを避けるように北街道へと入った。
氷派の拠点・ウィンブロー城を目指して、寡黙に、しかし確かな歩調で歩き続けていた。
道端の野草は霜に覆われ、風はまだ冬の名残を運んでいたが、空の色は少しずつ春を孕み始めていた。
「……ウィンブローって、どんなところだろ」
久しぶりに口を開いたエルセラに、ウサマは数日前の記憶を頼りに答えた。
「閉じた城。高くて、重くて、寒い。理屈と秩序の匂いが染みついてる。あんまり人の声がしない、って言ってた」
その情報は、数日前に居たセイントグラントで人々の心から読み取ったものだった。正直なところ、ウサマがわかるのは地図上の場所くらいのものだ。
「氷派の拠点、なのよね」
「うん。でも、本当は信仰とか秩序っていうより、誰を守るかで動いてるって。オスカーって人が、そうやって国を運んできたってさ」
その名を聞いた瞬間、エルセラの歩幅がわずかに乱れた。
ウサマは気づいたが、何も言わなかった。
エルセラも、何も言わず、足を揃えた。
丘の上から見える風景が、少しずつ変わっていく。
遠くに、青白い石造りの塔の影が見えてきた。
それが白き審判の城――ウィンブローだった。
その夜、ふたりは廃れた街道宿の空き屋根裏に身を寄せていた。
隙間風に、どこか鈴のような小さな音が混じっていた。旅人の祈りに捧げる、巡礼の鐘の音かもしれなかった。
ウサマは、手元の荷物を整えていたが、ふと口を開いた。
「……なあ、オスカーって、どんな奴なの?」
エルセラは、少し驚いたように彼を見た。
「……意外。君がそんなことを聞くなんて」
「だって、俺、この国のこと、あんまり知らない。それに、お前の問いの相手だろ? ……何も知らずに会いに行くのも、失礼かなって思って」
エルセラは少し笑って、姿勢を正した。
「オスカー・フォン・シーランド。今の王アンリの叔父で、前王ローランの弟。氷派の盟主で、今のシーランドの政治の実権を握ってる人物」
「ふぅん、つまり……王じゃないけど、この国の支配者なのか」
「そう。アンリが表の王冠なら、オスカーは氷の中の王」
ウサマは肩をすくめた。
「なんか……ややこしいな。どういうことだ? 炎とか氷とか、表とか裏とか?」
エルセラはくすっと笑って、それから少し真剣な顔になる。
「でもあたしは、そのややこしい中に、いる人間なの」
「……怖くないのか? オスカーに、自分が娘だって言うこと」
エルセラは一瞬だけ息を詰め、それから答えた。
「……前は、怖かった。でも、名前を知らない自分より、問いに向かう自分でいたいと思ったの。もしこのまま黙っていたら、あたしの人生はリナリーの娘のままで終わる。……それが、何より怖い」
ウサマは静かにうなずいた。
そのまなざしには、深い理解と言葉にしない優しさがあった。
「……俺、政治のことは、よくわからない。貴族とか王族とか、どう見られるかに慣れてない。だから、お前が名乗るとき、俺は黙って隣にいるよ。それでいいか?」
エルセラは、そっと視線を落とした。
そして頷いた。
「それが、いちばん心強い」
風がまた、どこかで柱を鳴らした。
翌朝、二人は街道の分岐を越え、ついに氷派の石橋に差しかかった。
そこには、氷の紋章を掲げた関所があり、冷たい目をした衛兵たちが二人を見据えていた。
だが、ウサマは一枚の封書を取り出し、静かに差し出した。
「……ノクシアル家の庇護を受ける者だ」
その名が呼ばれた瞬間、空気が変わった。
衛兵たちは視線を交わし、無言で道を開ける。
エルセラが少しだけ息を詰め、ウサマの後を追う。
――門が開いた。
石の向こうに、白き塔と、氷のような庭園が見えていた。
そこに、彼女の問いの答えが待っているかどうかは、まだわからない。
だが、いまその扉は、確かに開かれた。
* * * * *
政務室の炉は焚かれていたが、まだ部屋全体の冷気が残っている。
オスカーは椅子に深く腰を下ろし、封を開いたばかりの書簡を手にしていた。
その中身は、謁見の申し出だ。
差出人は『ノクシアル家の庇護を受ける者』と記されていた。
しばらくして、オスカーはその名を指でなぞった。
「……ノクシアル、か」
低く、小さな声だった。
だが、隣に控えていた報告官がわずかに身を固くした。
オスカーの眼差しは書状の文面から離れ、炎の奥を見つめていた。
ノクシアル家はヴァロニアに新設されたばかりの家門だ。
従属侯とはいえ、ヴァロニア王家の血もなければ、歴史も浅い。
だが、その背後にいるのが誰なのかを考えれば、軽視するには若すぎる名だった。
(リナリー……、貴様が選んだ後の世の駒か?)
かつての氷派貴族の多くが凋落した今、ノクシアルのような調停型の若家門は、氷派の外郭を補う要として徐々に重用されつつある。
だが、このタイミングで名が出てくること自体、不穏だった。
「その者は、誰を連れていると?」
「……黒髪の少年と、金髪の少女です。名前は、まだ、申告されておりません」
「名を申さずに謁見を望む……か」
オスカーの口元がわずかに歪んだ。
それは、笑みではなかった。
冷笑にも近いその表情は、しかしすぐに消える。
黒髪は『ノクシアルの証』でもある。では、金の髪の少女は……?
「控室を用意しろ。正規の手順は踏ませろ。……だが、私が直接話す。ノクシアルの名が、何を背負ってここに現れたか、確かめる」
「かしこまりました」
報告官が下がると、オスカーは再び書状を見つめた。
リナリー、そしてリナリーの育てた者たち――
この王座を、本当に手放させに来たというのか?
だが同時に、彼の奥底には別の予感が灯っていた。
この対面は、ただの政務では終わらない。
名を語らぬ者たちが、この城に何を持ち込んでくるのか――
その直感だけが、妙に鮮やかだった。
白い石の廊下を進み、警備兵に案内された先の一室。
無駄のない家具と、窓から差し込む冷たい光。
控室と呼ぶには、あまりにも質素で、整いすぎていた。
エルセラは、椅子に腰を下ろしていた。
膝の上に置いた両手は、何度も指先で衣の裾をつまんでいた。
ウサマは壁に背を預け、扉の方をじっと見ていた。
「……案外、あっさり通されたね」
エルセラが、少しだけ笑った。
乾いた笑みだったが、緊張を緩めようとする意志がにじんでいた。
「うん。ノクシアル家の名が、効いたみたいだ」
ウサマは、緊張するエルセラとは対照的に、淡々と答えた。
だが、自分がそれほどの重みを持った名を預かっているという事実に、どこか怖さと戸惑いも感じていた。
その言葉に、エルセラがはっと顔を上げた。
「え、……ノクシアル家? それって、ヴァロニアの従属侯爵家?」
エルセラの問いに、ウサマが少し首を傾ける。
「従属侯爵? そういうの、よくわかんねぇけど。ホープ・ノクシアル様から、封書を託されてた。『必要なときに開け』って」
エルセラは目を瞬かせ、微かに眉を寄せた。
(ノクシアル家は、確か、ヴァロニアの例外的な従属侯家。ギリアン王が直命で創った家門よね。領地もなく、功績もなく、ただ『国王直属』として認められた、あの――)
「……あれ、本当にテストに出ると思ってたのに……こんなところで、役に立つなんて」
エルセラは苦笑混じりにそう呟いたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「でも、ノクシアル家の名は、ヴァロニア王にしか動かせないはずよ。なのに、君がそれを持ってたってことは……。何かが、本気で、あたしを試験合格に導いてるのかな」
(ウサマって、いったい何者なの?)
「は? 何?? 試験なんかあんの?」
ウサマは首を傾げたが、それ以上、何も言わなかった。
ただ、ポケットの内側をそっと押さえた。
その手紙が、ノクシアルの名が、エルセラとの旅の間にどれほどの重さを持ち続けていたか。
今、初めて実感として胸にのしかかってきていた。
「……これから、オスカーに会うなんて、現実じゃないみたい」
エルセラがぽつりとつぶやく。
「父の名前、知らないままでいた方が、楽だったかもしれない。でも、もう、楽じゃいられないから」
「……うん。ここが、知ってどうするか、の続きだな」
しばらく沈黙が流れた。
その静けさは、部屋の石壁よりも冷たく、体にしみ込む。
エルセラは顔を上げた。
窓の外に広がる、白い庭園。
その向こうに、答えがあるかどうかは分からない。
けれど、選ぶべき道があるのは確かだった。
「ウサマ。……ついてきてくれて、ありがとう」
(一人だと、あたしは魔女の娘のままで、きっとここまでたどり着けなかった)
「見届けるって言ったろ」
ウサマの言葉に、エルセラは頷いた。
そして扉の方を見た。
――それは、名前を問いに変える扉。
過去を、事実に変える扉。
そして、誰の娘かではなく、誰として立つかを選ぶ、始まりの扉。
ノックの音がした。
ウサマが視線を送る。
エルセラは、ゆっくりと席を立った。
扉の向こうには、まだ何者でもない未来が待っていた。




