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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第7章 愛の花

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第61話 名のない者たち

《断章Ⅵ:恐れと支配》

恐れによって守られる信仰は、

それ自体が、牢獄である。

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 ノアとカイの二人は、密偵の噂の後を追い、信仰と秩序が同居する氷派の礼拝堂都市――セイントグランドにたどり着いた。

 冬の名残が、まだこの街の石組みの隙間に潜んでいた。

 中央の礼拝堂を囲む石造りの広場には、早朝の祈りを終えた信徒たちの影が疎らに揺れている。

 鐘楼から響いた朝鐘の残響は、空気の中にまだ名残をとどめ、凍てつく風に乗ってどこまでも運ばれていた。


 礼拝堂の尖塔は、霧の向こうにぼんやりと浮かび上がり、雪解けの陽に濡れて鈍く青白く輝いていた。

 その重々しい扉の脇で、ノアは白衣の修道士に訊ねていた。

「黒髪の少年と、金髪の少女。二人の旅人が、ここを通っていませんか? 先週か、もう少し前に」

 修道士はやや訝しげな顔をしながら、記入台の上に置かれた分厚い記録帳をめくる。

 羊皮紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。

 カイはその隣で、石畳に霜が残る音のない冷気のなか、無言で佇んでいた。

「……記録には見当たりませんな」

 ずいぶん待たされた後、修道士はようやくそう言って顔を上げる。

「この礼拝堂は、すべての参拝者の名を記し残しております。信徒の名簿に名がないということは――」

「名を偽ったか、名を記録されるのを避けたか」

 横からカイが低く言った。

 その声には冷たさが混じっている。

「ここらでは黒髪は珍しいので、街の方で見た者がいないか聞いてみては? あなたも黒髪だが、御供の方は金髪の少年か……」

 修道士は言いながら、じっとノアの顔を見つめてきた。

「お前……どこかで見た気がする。お前の父上も、ここに来たことがあるのではないか?」

 父上――その響きに、ノアは何も言えなかった。

 この修道士が言っていることは、嘘ではない。彼の心から伝わってくる。

 しかし、ノアには、問いを否定する証も、肯定する理由も、どちらも持ち合わせていない。

 ただ、自分とよく似た姿を、どこかで見たという記憶が、この街の人々に残っている――それだけは、嘘ではないと伝わってきた。

 カイが代わりに、少し語気を強めて言った。

「僕たちは、名を探しに来たわけじゃない。人を探してるんだ。その二人がここに来たという噂は、確かに聞いている」

 修道士はしばし黙し、記録帳に視線を落としたまま、何かを考えているようだった。

 やがて、低くうなずいた。

「……確かに、旅の噂は我々にも聞こえております。……ノクシアルの少年と、金の髪の御供のことでしょう。……噂では、氷派に帰依したとも、儀式を拒んだとも聞こえて来る。ですが、名簿には記載されていない。名がなければ、彼らはここに来なかったことになります」

 ノクシアルの名が出たことで、カイが短く鼻を鳴らした。

「名がなければ、信じられないのか」

 その言葉に、ノアはふと口を開いた。

「……忘れないでください。名がなくても、信じる人がいれば、道は残ります」

 修道士は一瞬、目を見開いた。だが何も言わず、記録帳を閉じた。

 しかし、心の中ではノアの言葉を反芻し、ふたりの背を見送っていた。

(――名がなくても、信じる人がいれば、道は残る……? たしか、『ヴィンセント』の言葉か?)



 礼拝堂を出ると、冷たい風が頬をなでた。

 雪解けの光は、祭壇の尖塔を青白く照らしている。

 ノアは一歩、石段を踏み出した。その背を追って、カイも歩き出す。

 礼拝堂の裏手、小道の角を曲がったときだった。

 石壁の下に、ひとりの老巡礼がしゃがみ込んでいた。

 握りしめた袋が破れ、干したパンの切れ端が雪混じりの地面に転がっている。

 ノアは、ほんの一瞬だけ立ち止まると、迷うそぶりもなくしゃがみ込んだ。

 カイが声をかけるより前に、ノアは懐から布に包んだ乾いた果実を取り出し、落ちたパンの傍らにそっと添えていた。

 聖地では誰もがそうしていた。困っている者がいれば、口を出さず、目立たぬように何かを置いていく――母がそうだった。父もそうしていた。

 手を差し出すのでなく、手元に静かに残していく。

 それが、幼い頃に見てきた、オス・ローの暮らしの中で染みついた優しさだった。

「……あなた、どこの子だい……」

 老巡礼がかすれた声でそう呟いたが、ノアは答えなかった。

 だが、老巡礼の期待する聖者の偶像が、ノアの中に流れ込んできた。

 ノアは、ただ、軽く一礼して、彼の前から立ち去った。




 その姿を、礼拝堂の側廊から掃除をしていた年嵩の修道士のひとりが見ていた。

 戸口の影に立ち止まり、目を細める。

(……あの姿……昔、見たことがある……)

 二人の影が細い道を曲がっていく。

 あの人に似ていたという誰かの記憶が、またひとつ、そっと灯された。

 そうして、灯は、そっと広がってゆく。




 街路を離れ、人気が少なくなったころ、ノアはそっと足を止めた。

 空気にはまだ、雪の気配が残っていた。石畳の端に残る白霜が、微かに陽を弾いている。

 風に揺られたように、肩が一度震え、深く呼吸を吐いた。

「……ちょっと、……休んでいい?」

 カイは返事をせず、軽くうなずいて横の石垣を見渡した。

 座れそうな場所を見つけて、先に歩き、そこに積もった雪を手で払う。

「こっちに、座ろう」

 ノアは小さく頷き、ぎこちない足取りで腰を下ろした。

 頭を抱えるように額に手を当てて、しばらく沈黙が落ちる。

 カイは隣に立ったまま、視線を空へ投げた。

 セイントグラントの尖塔が、雪雲に溶け込むように霞んでいた。

 モレス港を出てからの道中では、ノアの体調もいったんは回復していた。

 だがこの街に足を踏み入れた途端、ノアの呼吸は浅くなり、足取りも重くなっていた。

 その変化を、カイは何度も見ていた。

 今回は、さっきの老巡礼に施してからだ。

「……また、痛むの?」

 ノアは答えなかった。

 けれど、沈黙の中の呼吸の荒さが、すでに答えだった。


 ノアが少し回復した頃、カイは静かに口を開いた。

「……礼拝堂のやつら、君のこと、暗に似てるって言ってたな。『ヴィンセント』に」

 ノアは目を伏せたまま、微かに眉を寄せた。

「……聞こえたの? カイにも」

「声に出さなくても、顔に出てたよ。なんか、『ヴィンセント』に、救いを求めるような目線」

「……うん、この街の雰囲気、ちょっとおかしい。皆、何か不安なのかな。だけど、……期待されて、『ヴィンセント』の名を呼ばれるだけで、何かが流れ込んでくる……みたいで……。名って、そういうものなのかな……」

 風が石畳の隙間を這うように抜けていく。

 冬の終わりの風は、冷たく、湿っていて、どこか重かった。

 ノアは、小さく続けた。

「それに……もう、ノアって名でも、誰かが呼ぶたび、……その人が思ってる、期待してる『ノア』が、頭の中に降ってくるみたいで……」

 そう仮定のように言ったが、ノアの頭の中には、確かに他人の思う『ノア』が入り込んできていた。

 ――『ヴィンセント』の再来を期待する声。

 その声に、知らず知らず押しつぶされていく。

 カイはノアの横にしゃがみ込んだ。

 冷たい石の上に、手袋をつけたまま手を置き、ノアの足元に腰を落ろす。

「……それでも、君は、黙ってる。違うって、『ヴィンセント』じゃないって、言わないんだね」

 ノアはかすかに笑った。

 それは微笑みというより、どこか疲れた肯定だった。

「……迂闊に語ったら、本当になってしまいそうで。否定しても、肯定しても、駄目なんだ。全て彼の言葉にされてしまいそうで。……僕は、それが、怖いんだ」

 カイはそれ以上、何も聞かなかった。

 カイは立ち上がり、自分の外套を脱いでノアの肩に掛ける。

 それは、ただの布きれの重さにすぎなかった。

 けれど、ノアの体から、少しだけ力が抜けたのがわかった。

 鐘の音が、どこか遠くで鳴った。

 ふたりはしばらく、その音に耳を澄ませた。

 言葉もなく、ただ、そこにいた。

 その静けさだけが、ノアの頭の奥に広がるざわめきを、ほんの少しだけ遠ざけてくれていた。


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