第60話 血に問わず、心に継ぐ
霜の降りた石畳の広場に、細い朝日が射し始めていた。
魔女の村の空は、まだ白く霞んでいたが、空気には確かに春の兆しが混ざっていた。
ウサマは、小さな井戸のそばで腰を下ろしていた。吐く息はまだ白く、けれど風は昨日よりも幾分穏やかだった。
ふと、足音が近づいてきた。
エルセラだった。
エルセラは、昨夜よりも少しだけ背筋が伸びて見えた。旅支度を整えた肩に陽が差し、金の髪が輝いてみえた。
「おはよう、ウサマ」
「昨日、……ちゃんと眠れた?」
ウサマは立ち上がって問いかけた。エルセラは頷いて、けれどその後、少し笑った。
朝の光がエルセラの瞳に写って、蒼みの翠の瞳が煌く。
「実は、あんまり……。でもね、少し、昔の夢を見たの。小さかった時の」
「……そっか」
ふたりはしばらく無言で並び、朝の冷気の中に立ち尽くした。
エルセラは、ふと空を見上げながら、ゆっくりと口を開いた。
「……セラフィナから聞いた。父親の名前」
ウサマは、エルセラの顔を見た。そこにあったのは、怯えでも怒りでもなく、凛とした静けさだった。
「オスカー殿下――シーランド王家の人。……多分、あたしの存在を知らない。あたしが娘ですって名乗っても、信じてもらえないかもしれない。でも、行く。聞きたいの。あたしをどう思うのか」
ウサマは頷いた。
「……それが、お前にとっての名を選ぶってことなんだな」
「うん」
エルセラは、ポケットから小さな布包みを取り出し、その中の紙をそっと指でなぞった。
「この手紙のママの言葉。迷って戻ってきたなら、母ではなく、父のもとへって。……ようやく、その意味が、ほんの少しだけ、わかった気がするの」
「その人の娘として生きるかどうかを、自分で決めるってことか?」
エルセラは、静かにうなずいた。
「そう。それを、自分の問いとして持っていくの。お母様の娘じゃなく、エルセラとして。あたし、行くわ」
その言葉に、ウサマは小さく息を吐いた。
「……うん。それなら、俺も一緒に行く」
「え?」
「ここまで来たんだし、俺にも理由がある。兄さんを追いかけてきたけど……俺、今は、お前のことが気になってる。お前がどうするか、俺もちゃんと見届けたい」
エルセラは目を丸くしたまま、何かを言いかけて、けれどやめた。
そして代わりに、ふっと笑った。
「変わったね、ウサマ」
「……何も、変わんないよ。俺は」
「ううん。前に会った時より、少しだけ、ちゃんと誰かのことを見てる目になってる」
ウサマは照れ隠しのように鼻を鳴らして立ち上がる。
「じゃ、行こうか。そろそろ、ここの人たちも、俺たちが居るのを歓迎しなくなるかもしれないし」
「うん……」
エルセラも立ち上がった。その背中は、もう昨日の少女ではなかった。
ウサマは、外套の裾を握り直しながら、口を開いた。
「……行こう。お前の父親に会いに」
エルセラは頷き、ふたりは並んで歩き出した。
ふたりは魔女の村を後にする。
森の外れには、昨日と同じ細道が、今日も静かに続いていた。
エルセラは、歩きながらそっと空を見上げ、ウサマに話しはじめた。
「今朝、夢を見たって言ったじゃない?」
その声は、まるで夢の続きの中にいるみたいに柔らかい。
「うん」
ウサマは、エルセラの方をちらりと見る。
「夢っていうか、小さいころの思い出。たしか冬の夜にね、あたし、ママに聞いたの」
「何を?」
ウサマは静かに答え、エルセラの語りに耳を傾ける。
「赤ちゃんって、どうやってできるの? って」
「…………」
どう返すのが正解なのかわからず、ウサマは黙りこんだ。
夢の中の、小さなエルセラはママに尋ねた。
そのとき、ママは、月の泉と命の種の話をしてくれた。
そして、ぽんっと愛の花が咲くことを。
ママらしい、不思議で、でも、どこか温かい話だった。
「……それでね、その時、ママも一度だけ赤ちゃんを産んだことがあるって、言ってたの。これは、夢じゃなくて、本当の話よ」
ウサマの心臓が跳ねた。ママが生んだ子。多分、それがウサマの父、ハリーファのことだ。
「ママが、その子は遠くに行ったけど、痛みだけは今も覚えてるって、言ってた」
「え? 遠くに、行った……?」
「うん」
洞察力のあるエルセラに悟られまいと、ウサマは視線を地面に移した。
「その時、あたし、悔しかったんだ。自分は、ママの『ぽん』で生まれてきた子じゃないんだなって気が付いた。……子どもみたいだけどね。ママの中に、忘れることのない痛みがあるって聞いて、ママの本当の子のこと、ずるいって思ってたの」
(あたしは、ママの本当の子じゃない……)
エルセラの声には、笑いのような、泣きそうなような響きがあった。
ウサマは、自分が何か悪いことをしたような気がして、急に喉の奥が熱くなった。
エルセラの言葉に、何か返さなければと思いながら、言葉が出てこない。
「……でも、夢のおかげで、ママの腕にくっついた時の温かさ、また思い出した。あれは……多分、『産んだ』とか『血のつながり』とか、そんな言葉よりも大事なもので」
エルセラは、ずっと黙り続けるウサマの方をじっと見て、微笑んだ。
「……昨日、村の人たちが話してたの。ママが、君の『お祖母さん』だって」
ウサマは少しだけまばたきして、それから視線を外した。
「……ごめん。言うべきだったけど、言いづらくて。お前がママのこと、あんなに好きだから、俺なんかが『血が繋がってる』って言ったら……」
「うん。びっくりした。でも……なんだろう、ちょっと安心もしたの。ママの『ぽん』が、誰かに繋がってたって、そう思ったら、なんか……よかったなって思った」
それは、ウサマにとって想定外の言葉だった。
顔が熱くなり、目を合わせるのが少し恥ずかしかった。
「……お前、そういうの、ズルいよ」
かすれるような声でそう言って、足元の石を蹴った。
エルセラは、いたずらっぽく笑った。
「あたしにはママの血は流れてないけど、君には流れてる。でも……血だけじゃ『家族』になれないんだよ。あたしがもらったのは『ママの血』じゃなくて、『ママの心』だった。それで十分って思ってる」
その言葉が終わった瞬間――
ウサマの中に、エルセラが言葉にしなかった声が、すっと入ってきた。
(……ママの血が、ウサマに流れてるって――ほんとはちょっと羨ましかった)
エルセラは、嫉妬ではなく、それを『よかった』と言葉にしてくれた。
でもその奥にある小さな寂しさも、ウサマにはちゃんと届いていた。
自分だけが『ぽん』の先にいるように感じさせてしまったのなら、それはどこか切なかった。
だからこそ、エルセラを支えたいと思った。
寂しがっていたエルセラを、ママが迷わず抱きしめたように。
ウサマは、決意を込めて、少し強く息を吐いた。
すると、エルセラが、寄り添うように、ウサマの腕にしがみついてきた。
(うん。ママの体温と同じ。だから、あたしウサマのことが・・・のかな?)
突然、腕を組まれたことに驚いて、後半の言葉が入ってこなかった。
「じゃあ、『ぽん』の孫、この後もしっかりついてきてね?」
「……『ぽん』はやめろ、恥ずかしいから」
やっと冷めてきたウサマの顔に、また、赤みが差していた。




