第6話 光を背負いし?
湿った土を踏む足音が、巡礼の歌を遠く森の木立に吸い込ませていく。
すべての巡礼者が陽の差す聖地を目指す中、ウサマだけが、影の深まる森の奥へと背を向けて歩いていた。
だから、無事に聖地巡礼を終え帰郷する者は、『光を背負いし者』と称えられる。
振り返れば、木洩れ日の中にかすむ小道が続く。
そこには、もう誰の声も届かなかった。
歩き続けて二十日ほど。
最初にたどり着いたのは、関所も何もない、素朴な田舎だった。
牧草地や畑ばかりの村をいくつか通り過ぎ、宿もない場所では木の下や軒を借りて野宿が続いた。
ようやく辿り着いた小さな町で地名を確認すると、そこはヘーンブルグ領のクランという場所だった。
この町で出会う人々は、全員が黒髪だった。
金の髪を持つ父と兄妹の中で育ったウサマにとって、それはどこか不気味に映った。
町の広場の端に、ぽつんと佇む小さなパン屋があった。
一度通り過ぎかけて、ウサマは引き返した。
匂いに引き寄せられたのではなく(あれ、あの子、どこかで……)という心の声が聞こえた。
「何か、買うのかい?」
「……いや。ちょっと、人を探してて」
店先で焼きたてのパンを並べていた中年の女性が、ちらりとこちらを見る。
心の中に浮かぶ(ずいぶん汚い旅人ねぇ)という声が、ウサマの頭に流れ込んできた。
言葉が詰まりそうになるのを無理に押し出す。
「……アデルって女を知らないか? 黒髪で、黒い目。四十歳くらい。でも、見たら驚くぐらい若い人でさ」
女性はしばらく眉をひそめて考えていたが、首を横に振った。
「悪いけど……このあたりでそんな名の人は聞かないねぇ。聖地に向かう人は、外回りで行くもんだから、ここは、よそ者は滅多に来ないし」
ウサマは肩を落としかけて、でもふと気を取り直す。
「……そっか。じゃあ、金髪の男は、見たことある? でかくて、右頬に……こんな感じの傷がある」
そう言って、自分の頬に指で十字をなぞる。
その仕草を見て、女性の表情が少し曇った。
「……ああ、金髪の男ってんなら、領主様のことかねぇ? でも、外にはもう出てこないよ。昔は金髪だったって噂だけど、今は真っ白さ。幽霊が出るって噂の城にこもりきりだよ」
「……じゃあ、違うか」
家の中から、夫らしき人物がひょっこり顔を出す。
「ずいぶん昔になら、魔女狩りから逃げた娘を連れた金髪のよそ者が町に来て、すぐ出てったって話があるけどな」
「魔女狩り? 魔女だなんて、今じゃ誰も本気にしないさ」
おしゃべりな夫が口を挟むのに、女性は口を結んで肩をすくめた。
「魔女って?」
ウサマはオス・ローの政庁で聞こえてきたことを思い出した。
――魔女は、ハリーファと……、と。父の名前と一緒に聞いた。
「魔女の伝承を知らないってことは、あんた、西大陸からここまで来たのかい?」
「うん、オス・ローから――」
しまった。つい、うっかり口にしてしまったが、男はさほど気にしていないようだった。
「魔女ってのは、黒髪で、特別な力を得た女や男のことさ」
特別な力、とはなんだろう。もしかすると、この心の声が聞こえるのは、その特別な力なのだろうか。
しかも、夫の話しぶりでは、その力は生まれつきではなく、あとから得るもののようだ。
黒髪と、後から得た特別な力。まるで、自分のことを言われているようだった。
その話を聞きながら、ウサマは拳を握った。
「今ヴァロニアは、魔女王様の時代。王様だって黒髪だ。だからこの国じゃ、魔女狩りなんてもう時代遅れなのさ。すべて前の領主様のおかげだよ」
そう言って笑った夫は、何気ない調子で言葉を継いだ。
「……ただ、昔はちょっと違った。アレー村の方でな。まだ王様が教会の言うことを真に受けてた頃、黒髪の姉妹が魔女だって火刑にされたんだ。……火刑でな」
「あんた、やめなよ」
「それも、もう何十年も前の話だ」
魔女狩りは、もはや歴史の中の出来事。
けれどその名残は、町の誰もが語りたがらない影として、静かに残っていた。
「だけどおまえさん、光を背負ってきたのか。ありがたいなぁ」
懐にはパン屋の夫に持たされたパンが三つほど。
「……ありがと」
情報は手に入らなかったが、やっぱり『運』は持っているようだ。
フードを深く被り直すと、空は灰色にくすみ、風が石畳を這うように吹いていた。
* * * * *
ヘーンブルグを離れて、ウサマは北へ向かった。
手がかりは尽き、宿は取れず、目にするものすべてが遠く感じられた。
心の奥には、焦りよりも、空虚な冷たさが広がっていた。
道を進んだ先にあったのは関所だった。
黒い石で組まれた低い砦のような建物で、塔の上には赤と銀の旗が風に鳴っていた。
旅装束を纏ったウサマは、その門を通ろうとした。
「止まれ。身分証明は?」
(しかし、随分と汚い旅人だな……)
また、心の声も一緒に聞こえてくる。
「……ねぇよ」
「名は?」
「……レオン」
「どこから来た?」
「南の方だよ。……一人旅だ」
警備隊の隊長らしき男が、ウサマを見下ろすように睨んだ。
「黒髪か。へーンブルグから来たのか?」
汚れてすっかり浅黒くなった肌に黒髪、くたびれた布袋。
表情は静かすぎて、逆に怪しいと見えたのかもしれない。
「旅の理由は?」
「……母親を、探してる」
「ふざけるな。旅券もない身元不明者が、一人で何の許可もなく通れると思っているのか」
兵士がウサマの腕を掴む。
思わず後ろへ引こうとしたが、そこにはもう別の兵が回り込んでいた。
「――拘束。理由は未登録旅人による無許可越境の疑い」
縄で両手を縛られ、石壁の裏手に連れて行かれた。
兵たちは慣れた手つきで荷を確認しながら、互いに目配せしていた。
「こいつ……あの、ルーク卿に似てませんか?」
「は? ……ああ……少しな。確かに黒髪でこの顔つき……」
「一応、王都に報告しておいた方がいいかもしれません」
「騎士様が来るわけないだろ、こんなことで」
だが、報告は出されていた。
* * * * *
その日の夕方、王都リエンテ郊外、ノクシアル邸にいたホープのもとに、近衛詰所の伝令が馬を飛ばしてやってきた。
「ノクシアル侯、ブランサイド関所より報告です。未登録の少年が拘束されておりますが、容姿が……ご子息ルーク様に酷似しているとのことです」
「――何?」
ホープは眉をひそめ、椅子から立ち上がった。
「ルークは、今日王都には出ていないはずだ」
「はい。ただいま確認中ですが、屋敷でも姿が確認できず――」
「馬を用意しろ。すぐに行く」
* * * * *
控え所の空気は重く、湿っていた。
縄で縛られたまま壁沿いに座るウサマの背に、兵たちの視線が張りついている。石壁の冷たさよりも、それが煩わしかった。
そこへ、鋭く乾いた足音が響いた。
扉が開き、足音は一瞬だけ止まる。中に入ってきたのは、どこか違う気配をまとった男だった。
黒髪の男。整った外套。
その男は部屋の中を一瞥すると、ウサマの前で足を止めた。
視線が合う。
鋭いが、怒りや嫌悪ではなく、観察するような光をたたえていた。
(……ルークではない。でも、確かに似ている……随分汚れているが……)
言葉にならない思考が、頭の奥に流れ込んできた。
男の心の声だ。ウサマは思わず眉を寄せたが、それが顔に出ることはなかった。
「この少年、誰が取り調べを?」
「私です。『レオン』と名乗っていますが、身元不詳です」
「名前を偽っている可能性は?」
「はい。ただ……黙して語らず、暴れもせず、ただ母を探しているとだけ……」
その言葉に、男の思考がほんのわずか動いた。
(母を探している……?)
視線がもう一度、ウサマを見つめる。
その目の奥には、妙な既視感、何かを探すような色があった。
ウサマは無意識に、指先に力を込めた。
縄の痕がじんわりと痛む。
「……縄を解け。ぼくは彼と話をする」
「しかし、ノクシアル候、王都からの命令では――」
「この件は、ぼくが引き取ろう。責任はすべてぼくが持つ。伝えておけ」
命令が通り、縄が外される。
ウサマはすぐには動かなかった。
逃げるなら、まだ今のうちだ。頭のどこかがそう判断していた。
だが、男の眼差しは、ひとつも脅してこようとはしなかった。
ただ、確かめるように見つめていた。
その視線の奥に、ウサマはかすかに見覚えのある何かを感じた。
誰に似ているのかまでは思い出せなかったが、心の奥が小さく鳴った。
呼吸が、ふっと和らいだ。
ようやく、旅の先に誰かがいたことを知った。




