第59話 それは、愛だったのですか?
試練を終えた小屋の扉が、軋む音を立てて開かれる。
エルセラが、炎の残り香をまとって外へ出た。
日の暮れた空には、雲が薄く広がり、星がかすかに煌いていた。
その足取りはしっかりしていたが、目の奥には疲労と、まだ燃え残る感情の揺らぎがあった。
「……エルセラ」
声に振り返ると、そこに立っていたのはウサマだった。
焚き火の光を背に、いつものようにぶっきらぼうな顔をしている。
けれど、その黒い瞳は、少し柔らかかった。
「……終わったのか?」
「うん……終わった、って言っていいのか……まだ、わかんないけど」
多分、終わっていないのだ。なぜなら、まだ父親の事を聞いていない。
ふたりは歩み寄り、並んで石の上に腰をおろした。
小道の向こうに明かりの灯る小さな丸太小屋がある。
まるでエルセラを待っていたかのように、その扉が静かに開き、一人の女性が現れた。
女性はふたりの近くに歩み寄ってきた。
「……静かに話せる場所が必要ね」
セラだった。
ふたりは頷き、セラが出てきた丸太小屋の、小さな囲炉裏のある部屋に通された。
薬草の香りが満ちていて、壁には布の包みと小さな鏡が吊るされていた。
しばらく、三人は焚き火を囲んで黙っていた。
やがて、セラが静かに言った。
「あなたの目……泣いた跡があるわ。だけど、今は焔も宿っている」
エルセラは、視線を落としたまま答える。
「……ママが、どうして魔女になったのか、少しだけわかった気がする。でも、……全部は、まだ受け止めきれてない」
セラは頷いた。
「知るということは、必ずしも癒すことには繋がらない。でも……生きてゆくには、それでも必要なことよ」
ウサマは、静かにエルセラを見ていた。
その様子を見たセラが、ふっと笑った。
「……あなた、火を見る目が変わったわね。前に来た時よりも」
ウサマは少し目を細め、照れくさそうに頭をかいた。
「まあ……少しは。色々、見たから」
その言葉に、セラは軽く首を傾げ、焚き火の方へ目を向ける。
「エルセラ様、少しだけ、二人で話してもいいかしら?」
ウサマはすぐに立ち上がった。
「俺、外で空気吸ってるよ」
そう言って、ウサマは扉を静かに開ける。
外の夜気が、音もなく部屋に入り込み、部屋には二人だけが残された。
部屋の中に、夜の静けさが広がる。
エルセラは、椅子に座り、膝の上で手を組んでいた。
その向かいに、初老の女性――セラが座っている。
お茶の香りが、ほんのりと漂っていた。
「私の名前は、セラフィナ・ヴェイルです」
「……ごめんなさい、あたし……あなたが本当に誰なのか、わからないの。どこかで聞いた気もするんだけど、思い出せなくて……」
その言葉に、セラフィナはゆっくりと微笑んだ。
「当時のあなたは、まだ乳を吸うばかりの赤子でしたもの。無理もありません」
セラフィナは、小さく目を伏せた。そして、その記憶の襞を探るように、ゆっくり口を開いた。
「生まれた時から、あなたは、光でした。私がこれまでに仕えた、どんな姫よりも」
エルセラは、少し驚いた顔をした。
「……あたしのこと、そんなふうに、思ってくれてたんだ」
「一夜のことで、世に出してはならぬ子として……リナリー様は、王家からも、氷派からも隠されました。でも、あの一年は……あなたは、間違いなく誰かの腕の中で愛された子でしたよ」
セラフィナの声に、曇りはなかった。
エルセラは、そっと微笑んだ。
「ねえ、セラフィナ。……ママのこと、知っていたら、教えてくれない?」
「リナリー様ではなく? 魔女の、ファティマ様のことですか?」
エルセラはこくんと頷く。
セラフィナは、しばし迷うように目を細めたが、やがて静かに語り出した。
「……私は、氷の王家にお仕えする侍女でしたが、リナリー様がシーランドに戻って来られた時、リナリー様のお世話を命じられました。その時に、リナリー様が連れてこられたのがベナ……いえ、ファティマ様でした」
「ママは、どこから来たの?」
「……わかりません。私は、彼女のことを、ずっとリナリー様の幼馴染か、乳姉妹かと思っていました。あまりに自然に、ずっと傍にいらしたので」
エルセラの目が、大きくなる。
「ママが……? お母様と?」
「……幽閉中はベナと名乗っていました。最初は、ただの若い侍女だと思ったんです。ですが……ファティマ様は、歳を取らない。六年、同じ邸で共に過ごしましたが……髪の艶も、瞳の輝きも、指の白さも、あの若く美しい姿のまま。いささかも変わらなかった」
「……うん……魔女だからね……」
「当時のわたしは、まだ愚かだった。何か特別な薬でも使っているのだろう、と……そう思い込んでいました」
セラフィナは、言葉を選びながらうなずいた。
「その頃はまだ、魔女だとわかりませんでした。でも……あの人が纏っていた空気だけは、どこか現実のものとは違うのだと……。そして、リナリー様が唯一、対等に話し、時に……愛しそうに、視線を向ける相手だった」
「……うん、確かに、ママは世界一可愛いから……」
「ええ。リナリー様が唯一、心の内を委ねたのは、あのベナという名で呼ばれていた魔女だけだったように思えます」
「ベナ……」
エルセラは、小さくつぶやいた。
「それが……本当の名ではなかったとしても、あの閉ざされた中で、リナリー様にとっては名前だったのです。魂の、心の拠り所」
ロウソクの灯が、ゆらりと揺れた。
「あなたは……ファティマ様の娘ではありません。でも……ファティマ様は、間違いなく母を演じた。いえ、本当にあなたの母親になろうとしていた」
「……うん。わかる。たぶん、演技じゃなかった。ママは……ちゃんと、あたしの母親だった」
エルセラの声は、震えていなかった。むしろ静かに、凛としていた。
「……では、あなたがこれから向かう先でも、どうか、その誇りを持ってください」
セラフィナが、そっと手を重ねる。
「誰が血を与えたかより、誰が心を注いだか。それもまた、ひとつの名の形ですから」
エルセラは、はっきりと頷いた。
「うん。ありがとう……セラフィナ」
エルセラは、膝の上で手を組んでいた。
焚き火のぬくもりが、まだ落ち着かない胸の奥をそっとなだめている。
その向かい、セラフィナが深く腰かけ、しばらく口を閉ざしていた。
やがて、静かな声が火越しに落ちた。
「……そして、あなたが、ここに来た理由……」
エルセラが顔を上げると、セラフィナの瞳はまっすぐにエルセラを見つめていた。
「あなたが、これから父に会いに行こうとしているなら――その名を、知らないままで進ませるわけにはいきません」
エルセラは、ごくりと喉を鳴らした。
「……教えてくれるんですか?」
「ええ。ただし、あなたがそれを知ることで、どんな重さが背にのしかかるか、先に伝えておきます」
沈黙が、囲炉裏の炎の音だけに染まる。
セラフィナは、目を閉じた。そして、言葉を選ぶように、ゆっくりと告げた。
「――あなたの父は、オスカー殿下。シーランド王家の血筋であり、アンリ国王の叔父にあたる方です」
長く、長く、息を吸うように、エルセラは胸の中で波立つものを飲み込んだ。
まるで、それが風景の一部であるかのように、ただ、言葉を理解するのに数秒かかった。
「……オスカー……殿下……?」
セラフィナは、そっと頷いた。
炎派と対立する、氷派の支配者。アンリから奪ったシーランドの政権を握る男。
「あなたが生まれたのは、リナリー様がシーランドに幽閉されていた時期――王宮郊外の邸宅でした」
エルセラは、唇を噛んだまま、しばらく黙っていた。
「……お父様……は、あたしの存在を知っているの?」
「いいえ。知りません。リナリー様は、隠されました。けれど、殿下は、何かを感じておられる様子はあると……最近、村の魔女たちが噂をしています」
炎の明かりが、静かに揺れる。
そして、エルセラの唇から、震えるような声がこぼれた。
「……ねえ、セラフィナ」
「はい」
「……お母様と、オスカー殿下は……その、二人は、愛し合っていたんですか?」
問いは真っ直ぐだった。けれど、その奥には揺れる少女の葛藤がにじんでいた。
セラフィナはしばらく黙って、火を見つめた。
「……愛とは、時に、名前を持たない感情のことを言います。誰かが誰かを欲するということ――それもまた、否定できない情です」
「つまり……」
「リナリー様は、あなたを産むために、その一夜を選びました。策略の一環だった、という意見もあります。ですが、私は……あの方が誰でもない相手を選ぶはずがないと、思っているのです」
エルセラの喉が、ごくりと動いた。
「じゃあ……あたしは、そのたった一夜で生まれた子なんですね……」
「ええ。でもね、エルセラ様」
セラフィナの声が、ふっと変わった。優しさと、あたたかさの混じった、まるで遠い記憶を抱きしめるような響きだった。
「あなたは……私の腕の中で、最初に笑ってくれた赤ちゃんでした」
「……!」
「白い布でくるまれて、あまりに小さくて。泣く力も弱くて。だから、毎晩、あなたを胸に抱いて、数えきれない子守唄を歌いました。……あの一年、私はあなたの母でした。リナリー様の代わりでも、ベナ様の代わりでもなく、私だけの役目として」
エルセラは目を見開いたまま、言葉を失っていた。
セラフィナは、そっと手を伸ばし、エルセラの指に自分の指を重ねた。
「名もないその一年が、あなたにとって記憶に残っていなくてもいい。けれど……誰にも抱かれなかった子では、なかったと、知ってほしかったのです」
エルセラの目に、ゆっくりと涙が浮かんだ。
「……ありがとう。あたし……ずっと、そういう言葉が欲しかったのかもしれない」
「そして、あなたは一夜の娘ではありません。誰かに抱かれ、名を呼ばれ、守られてきた子です。血の重さや、策略の意味を越えて――確かに、ひとりの女の子として、愛された子です」
エルセラは、静かに頷いた。
「それに、あなたは、ただ王の血を持つ子ではありません。ここまで、自分の足で来た少女です。……その誇りは、どんな名よりも尊いわ」
「ありがとう、セラフィナ」
涙が零れたことに気づかれぬように、焚き火の方へ顔を向けながら。
けれどその瞳は、もう揺れてはいなかった。




