第58話 あたしは、何をされても
白霧が森を包んでいた。
道なき道をふたり並んで歩く。ウサマは先を見据えながらも、時折エルセラの足取りを気にするように振り返った。
「……本当に、この先に村があるのね?」
「うん。俺も最初はわからなかったけど……あるよ。霧の奥に」
そう言うウサマの声には、微かな緊張と覚悟が混ざっていた。
やがて霧がひらけ、視界の先に、低く垂れた木製の門が現れた。
門の前で、ふたりは一度足を止めた。
「……こんなの、前あったかな……?」
「……」
ウサマが一歩踏み出し、扉に手をかける。すると、音もなく、門は内側から開いた。
霧がゆっくりと晴れはじめると、丘の斜面の奥に、まるで風景の一部のように溶け込んだ村が見えてきた。
煙突のある緑の屋根と、木と石で作られた建物が点在するその集落は、まるで時間から切り離されたように静かだった。
軒先にぶら下がる無数の薬草や、赤い布が巻かれた柱も、以前と変わらない。
門も柵もないが、見えない何かが境界を張っているような、そんな気配があった。
「……ここが、魔女の村?」
エルセラは、小さく息を呑んだ。
「そう。俺が来たときは、多分、別の道から入ったけど……」
ウサマは頷いた。だがその声は、どこか慎重だった。
村の中は、ひどく静かだった。
ふたりが足を踏み入れると、すぐに気配を察したのか、ひとりの老婆が小屋の影から姿を現した。
白い霧がゆるやかに晴れ、小道の奥から、女たちが姿を現す。年齢も雰囲気も異なるが、全員の瞳に共通した光があった。
その視線は、まっすぐにふたりへと向けられていた。
やがて、一人の老女が前に出る。
灰色の髪をひとつに束ね、鋭い目をもつその女は、ゆっくりと問いかけた。
「……神魔の子が戻ったと聞いたけれど、もう一人は――?」
ウサマが一歩進み出て一礼すると、老女はそれには言及せず、隣に立つ少女を見た。
そのまなざしは、まるで心の奥をのぞきこむようだった。
「……あなたの名は?」
エルセラは、まっすぐに答えた。
「エルセラ・フォン・シーランド」
ざわり、と空気が揺れる。だが誰も、声を上げなかった。
老女の瞳が、ゆっくりと細められた。
「……フォン・シーランドを名乗るのね。ならば、あなたの問いは母のことではなく?」
「……父親を、知りたいの」
その答えに、一瞬、場の空気が止まった。
「母が誰なのかは、もうわかっています。でも……あたしは、父を知りません。母も誰も、語ってくれない。周囲も、まるで触れてはいけない秘密のように黙ったまま。でも、あたしは、自分が何者なのかを、ちゃんと知りたい」
その声音は、震えていなかった。
まるで、何度も何度も繰り返して心の中で組み立ててきた言葉のように。
魔女たちは、無言のまま見つめ合う。
それは、互いの顔を見て、彼女がどこまで受け止められるのかを静かに測っている視線だった。
やがて老女は、ふっと息を吐き、目を細めた。
「……その名を知るには、母のことも、知らなければならない」
「……その母っていうのは、あたしを産んだ人? それとも、育てた人?」
沈黙のなかで、幾人かの魔女たちの表情が、かすかに変わる。
拒絶でも、警戒でもない。どこか、哀しみをたたえた目だった。
「あなたには三人の母がいる。産んだ者、名を守った者、そして、あなたを育てた魔女。その中の、もちろん、魔女のことよ」
「ママのこと……?」
老女はさらに、問いを重ねた。
「その答えが、優しいものとは限らない。あなたは、それでも前を向く覚悟があるのかしら」
エルセラは小さく頷いた。
迷いはあった。怖さもあった。
けれど、答えを求める意志は、もう誰にも止められないところまで来ていた。
「……はい。聞かせてください」
老婆は小屋の奥へと身を引いた。
「なら、ついておいで。火を囲んで話すのが、あたしらの流儀だ」
霧が、また一筋、ふたりの肩をなぞって通り過ぎていった。
まだ明るい空には、一番星が瞬いている。
ウサマと別れ、一人で導かれるまま、エルセラは集落の奥へと連れて行かれた。
古びた石積みの建物の扉が開かれる。
その中には、三人の老女がいた。
炎の前に腰かける者。天井近くの窓辺に立つ者。蒸し壺の蓋を開けている者。
誰も、名を名乗らず、名を尋ねてもこなかった。
ひとりが言った。
「――神魔を産み落とした、あの方の娘だそうだな。おまえは」
その言葉に、エルセラは息を呑んだ。
(ママのこと……?)
その声は、どこか試すような、冷ややかな響きをしていた。
「名を与えられ、名前で育ち、名前で飾られてきた娘よ。おまえは、どちらの子だ?」
問いは、まるで風のようだった。
どこかから吹きつけ、エルセラの頬をかすめていく。
「……どちら、って?」
エルセラは問い返した。
しかし老女は答えず、焚き火の奥で木をくべた。
「魔女とは、命を買って力を得た女のこと。あの方は、我らの道とは異なるが、確かに、そうなった」
「それを……信じられるのか?」
エルセラは、喉が乾いていた。けれど、目は逸らさなかった。
「信じることを、選ぶのではない。受け入れられるかどうかだ。魔女の血に触れたとき、おまえはどうする?」
火の粉が、ひとつ跳ね上がった。
老女たちは語り続けた。
悪魔との契約のこと。呪いのこと。
命を差し出す対価でしか得られない不老と力のこと。
魔女となれば、産むことも、戻ることもできないこと。
死んだように生きること。
エルセラの中で、ざわりと何かが軋んだ。
(ママが……そんな風に、魔女なった人? 死んだように生きる? そうじゃない。だって、ママは――)
優しかった。
髪を梳かしてくれた。夜、灯をつけてくれた。
泣いたとき、そばにいてくれた。
女の身体について教えてくれた。
どうやって生命が生まれるのかも。
そして、ママの本当の子どもになりたくて、その子どもに嫉妬した。
「……あたしは、何をされても、ママを嫌いにならない」
言葉が、口から出ていた。
目の奥が熱い。
「でも、知らないままではいられない。……知っても、それでも会いたいと思うなら、それでいいと思う」
老女たちは、目を細めた。
「なるほどな。では――」
一人が立ち上がり、扉を開いた。
冬の風が吹き込む。
「最後に、おまえ自身を知るがよい。血でも、名でもない、おまえの焔のかたちを」
薄明かりの中に、手鏡が一枚、置かれた。
そこに映ったのは――
(……え?)
自分の瞳が、ほんの一瞬、燃えるように輝いた気がした。
何の力なのか、それは誰も告げてはくれなかった。
けれどその瞬間、エルセラは誰かの娘ではなく、自分の足で立つべき場所に近づいた気がした。




