第57話 氷の港
《断章Ⅴ:選択》
生まれは選べない。だが、信じるものは選べる。
人はその選び方によって、生まれ直すことができる。
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モレス港の岸壁には、氷の風が吹きつけていた。
空はどこまでも灰色で、雪はもう降っていないのに、すべてが白く凍りついているようだった。
港湾局の掲示板には、今日も同じ文字が貼られていた。
【ヴァロニア方面 出航延期:次回再開目途、未定】
カイはその紙をしばらく眺めてから、ため息をついた。
「……また未定だって。十日は確定、下手すりゃそれ以上か……」
ノアの返事がない。
振り返ると、ノアは建物の壁にもたれて、顔を伏せていた。
寒さのせいだけではない。ここ数日、ノアの様子は明らかにおかしかった。
「ノア? 大丈夫か?」
ノアは少しだけ目を伏せて、首を横に振った。
食事もとらず、夜もよく眠れていない。
朝になると、額に冷や汗をかいていることがあった。
(また、聞こえてくる……)
ノアは、自分の鼓動の中に、他人の声が混ざっているのを感じていた。
港の人間、旅人、宿の親父、隣の部屋の女の心の声――
言葉にならない不安、吐き捨てるような侮蔑、信じるふりをした疑念、愛しさと恐怖のせめぎあい――
――……あの若造、……教会の奥で話してた奴に似てる……
――ヴィンセントに似てるって、誰かが言ってた……
――氷派の新しい器だって? 違う名前で呼ばれてたような……
他人の心の中で考えてることが、全部流れ込んできて、止まらない。
(うるさい……)
声は、船乗りの足音に紛れて、岸辺の市場のざわめきに混ざって、いつの間にかノアの中に降り積もっていく。
「ノア?」
カイの顔が心配そうに近づく気配がする。
ノアは顔を上げたが、視線を合わすことさえできなかった。
「……平気、だよ。少し、頭が痛いだけ」
また嘘をついた。
でも、人の心の声が聞こえるなんて、言えるはずがない。
この世界でそれがどういう意味を持つか、ノア自身が一番知っていた。
カイはノアの腕をそっと支えた。
「一度、宿に戻ろう。まだ時間はある」
ノアは頷きかけて――その時、背後で密やかな声がした。
――ノクシアルの坊ちゃん……金髪の姫と逃げたって……
(また、だ)
その声は口にはされていなかった。
だがノアの意識の奥に、確かに届いた。
それは宿の裏路地から来る密偵の心だ。冷ややかで、油断のない、職業的な好奇心。
カイの名、ノクシアルの血、金髪の姫――
全てが誰かの策略の盤上に乗せられかけている。
そして、耳の奥で繰り返される別の声もあった。
『君は誰の代わり? 君は本当にあの人の再来?』
『語れば崇められ、黙れば恐れられる……君は何も言わないのに、皆、勝手に期待してくる』
それは、自分自身の心の声だった。
ノアは目を閉じた。
(言わないだけじゃ、逃げられないんだ……)
カイがそっと背を支えてくれる。
その手の温かさが、わずかにノアの震えを止めた。
港はまだ、氷に閉ざされていた。
だが、それ以上に、ノアの心の奥にこびりついた誰かの声たちが解ける気配はなかった。
二人は、一本裏手にある『月と書棚亭』へ戻った。
「……もう、いいよ。一人で、部屋まで戻れるから」
「うん。僕は、もう少し外に行ってるよ」
ノアはうなずいて、ゆっくり部屋の階段を上がっていった。
カイはしばらくその背中を見送ってから、拳をぎゅっと握った。
(あと十日。それまでに何が崩れるか、何が動くか……誰が僕たちを見ているのか。――焦るな、でも、見逃すな)
だが、何者かが動いている気配を感じ、カイはもう一度港へ向かった。
潮風が凍てついた石畳の隙間を吹き抜ける。
モレス港の片隅、使われていない倉庫の裏。
カイが感じていた気配は、リナリーか、または別の炎派の監視者だった。
あの時、リナリーの前で、ルーク・ノクシアルだと名乗ったこと。あれが、どれだけ多くの耳に届いてしまうのか、カイには想像出来ていなかった。
密偵の男は、あくまでも軽い口調で言った。
「氷派の地に向かったらしいぜ、ノクシアルの坊ちゃんと金髪の姫がな」
カイは男を振り返らずに問い返す。
声は低く、鋭く冷えていた。
「……それは、僕じゃない。それに、姫って誰のことだ?」
カイには見えていないが、密偵は肩をすくめた。軽く笑ってみせる。
「さあな。だが、ノクシアルの若様と、炎の紋章の金髪の若い娘……これだけ材料が揃えば、炎も氷もひと騒ぎさ。世間に、氷の王家ご贔屓のノクシアルが、炎の姫さんを連れ去ったって噂が立っちまったら、ヴァロニアまで飛び火するだろうぜ」
密偵の言うとおりだ。『ルーク』の行動一つで、ノクシアル家からヴァロニア王家まで揺るがす事になってしまう。
想像以上に大事になりそうだが、焦ってはだめだ。その噂は、真実ではない。
カイはその場に立ったまま、静かに考える。
(誰かと僕を見間違えたのか? それとも、故意か、偶然か……)
「その姫とやらの顔は見たのか」
密偵は片眉を上げる。
「炎の象徴、今は名もなきお嬢さんさ。ただ、同行していた男の姿が、あんたにそっくりだったってことだ」
「なるほど」
カイはゆっくりと顎に手をやり、わずかに視線を伏せた。
「……なら、確認する価値はあるな。噂で火が回る前に、誰だったのかを突き止めないと」
密偵は、どこか面白がるように笑った。
「ご苦労なことだな。でも、噂されるのも、名のある坊ちゃんの宿命ってやつだ」
そのとき、カイの蒼い瞳がひときわ冷たくなった。
「僕の名を、噂に使うのは勝手だ。でも、その名が動いたとき、何を背負わせたか……覚えておけよ」
男は肩をすくめて背を向けた。
「ついでに、あんたと一緒にいる奴も……どこぞの修道士が『ヴィンセントの再来だ』って騒いでたぜ」
そう言って、風と共に石の路地の向こうへと消えていった。
カイはしばらくその背中を見送っていた。
モレスの港の海はまだ開かない。
だが、氷の下で何かが音を立てている。そんな気配だけは、確かにあった。
* * * * *
夕方には、宿の灯りは静かに滲んでいた。
部屋に戻る前に、宿主までが、親切のつもりでカイに伝えた。
「教会の人間が、あんたの連れことを噂してるよ。あれは『ヴィンセント』だって。また現れたって」
「また……?」
灯りの落ちた宿の一室。
ノアはベッドに横たわり、薄く汗をかいた額に、まだ微熱の気配を残している。
扉が静かに開き、カイが入ってきた。
「……ただいま。港はまだ動かない。予報も変わらず、開港まで十日は確定だって」
ノアはうっすらと目を開けた。
声を出そうとしたが、代わりに短くうなずくだけにとどめた。
カイは椅子を引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。
「それと……密偵が来てた。炎派の人間。僕の動きを見ていたらしい」
ノアの目がわずかに見開かれた。
カイも気付いていたんだ……。
その視線を受けながら、カイは言葉を選びつつ続けた。
「ノクシアルの若君と金髪の姫が、氷派の地に向かったって」
室内の空気が、少し張り詰める。
ノアが静かに口を開いた。
「……それ……僕も聞こえ、聞いた……」
「そんなに噂になってるの? 僕は、お姫様じゃなくて、君と、ずっと一緒に行動してるのに」
ノアは視線を天井に向けたまま、低く呟いた。
「……それでも、噂はもう動いてるんだ。何もしなくても……勝手に名前が歩き出す」
カイは黙っていた。
その言葉が、カイだけではなく、ノアの今の状態から生まれたものだと気づいていた。
「……何もしてないのに、選ばれるんだ。『似てたから』とか、『紋章が見えた気がしたから』って、理由なんて何でもいい。誰かがそう語れば、僕たちは、その中で動かされる」
カイは少しだけ笑った。
その笑みは、どこか自嘲にも近かった。
「うん。だから先に、僕が語った。『それは僕じゃない』って。それでようやく、語られる名じゃなく、選べる名になれた気がする」
ノアはその言葉に、目を細めた。
「……選べる、のかな。そんなもの……本当に」
「選べるかどうかじゃない。選ばなかったら、勝手に誰かが決めてしまう」
しばらく、ふたりの間に沈黙が落ちた。
それは、逃げの沈黙ではなく、受け止めるための静けさだった。
やがて、カイが立ち上がった。
「ノア。……君はもう『ヴィンセントの再来』として語られている。でも、どう答えるかは、まだ君の手の中にある」
そう言って、扉の方へ向かう。
けれど、ノアが最後に、小さな声でつぶやいた。
「……じゃあ、君は? 君は、自分の名を、どう答えるの?」
カイは立ち止まり、少しだけ振り返った。
そして――静かに答えた。
「僕は、誰の名でもない僕を、これから選びに行く」
それだけを残し、彼は部屋を出ていった。




