第56話 過ちと政略の花
北の風が吹きすさぶなか、ウィンブロー城の塔に設けられた政務室には、火は焚かれていなかった。
石壁の間を冷気が這い、重厚な窓越しには雪の始まりを告げる空が広がっていた。
オスカーは机に向かい、視線を上げぬまま、静かに報告を聞いていた。
彼はかつてシーランド王アンリの摂政でありながら、誰の忠誠も語らぬまま、氷派を動かしてきた男だった。
「……各地で、印刷所の跡地に動きがございます。以前焼かれた小屋に、人の出入りが確認されました。再び、異端文書が複製されている可能性が――」
「誰が動いている?」
オスカーの声は低く、硬質だった。
「顔までは掴めておりませんが、あちこちで『ヴィンセントの再来』と噂が囁かれております。さらに、その動きに合わせて――女官風の少女が、リナリー様の近辺で保護されているようです。金髪で、蒼か、翠の瞳。出自不明。炎派の庇護下にあり、王女教育を受けている形跡もあるとのこと」
「他には?」
オスカーは机に広げられた報告書に目を落としたまま、口元をゆるめずにいた。
「その少女は、年末に催された、モレスでの巡礼祭で、炎派の式典にも参列していたとの報告があります。名簿に名前は記載されず、特別扱いされていたようで、」
報告官が言葉を選びながら続ける。
「氷派の若い神父は、氷の清き器ではないかと噂を……」
カチ、と。オスカーが手にしていたペン先が、陶器のインク壺にあたって鳴る。
「……歳は?」
「十六、と。明確な記録はありませんが、式典の年次と照らして一致します」
オスカーは手を止めた。
「……金髪に、蒼か翠の瞳……」
誰に問うでもないその言葉に、報告官は黙って聞いたいた。
(リナリー……)
それは、かつて王であった実兄の妃の名前。
「リナリーが、いくら炎派から王女を仕立てようと、血筋だけを見れば、王位継承者たり得ん」
唇に、乾いた皮肉が滲んだ。
ヴァロニア王家の血のリナリーが産んだ子ならば、まだしも……。
(まさか。……三十路を超えて産んだと言うのか?)
あの女のことだと、ふと疑念が沸く。
(ならば、一体、父は誰だ?)
シーランドの王家を脅かすとすれば、ヴァロニア王家の血だけでは足りない。
王家の血筋と対立しないシーランドの貴族の男でなければ――
そのとき、自分の古い記憶が、紐解かれる。
ただ、一夜のことだったが――
郊外の薔薇の館。ヴァロニアより帰還させられた王太妃の幽閉先。オスカーの治める領地で、女官一人と侍女のみで静かに過ごしていた兄嫁――女王未亡人。
そこへ他者の出入りを一切許さなかったのは、紛れもない自分自身だ。
――相手は、ただの王太妃ではない、リナリー・フォン・シーランド。
彼女の瞳は、常に冷静だった。どんな時も、負けた者の目ではなかった。
瞼の裏に、ふと現れた光景。
――ゆるく波打つ金の髪。
――海のような蒼い瞳。
――そして、燃えるような意志を宿した横顔。
あの夜は、十七年前ではなかったか?
ちょうど、リナリーの子、甥のアンリが成人を迎える一年前。
リナリーは三十三歳。自分も、同じ歳だった。
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その夜、若い侍女に出されたワインは、やけにぬるく、甘かった。
喉を通った後、苦みより先に、熱が全身を巡る。
オスカーの来訪時、王太妃の監視させる為につけた女官、セラフィナ・ヴェイルは、いつも無言で部屋を出ていく。
リナリーは笑んでいた。
目元だけが微かに吊り上がる、あの政敵に見せるときの、無垢と毒とが混ざり合った微笑。
後一年でアンリの頭上に王冠がのる。そうなれば、王母として、この幽閉生活も終わり、アンリの摂政権を握っている義理の弟を排除しようとでも考えているのだろう。
王弟の進退を危惧するような、そんな余裕を見せているのだと思っていた。
手元の杯を指で軽く回しながら、赤い液面を傾けてオスカーを見た。
「……そなたには、後継ぎが必要なのだろう? 氷派は血の絆を重んじるゆえ」
囁きのように、まるで部屋の空気に溶け込む声だった。
オスカーは眉根を寄せ、杯を置く。だが、それは怒りではない。怒りすら許されぬ者の、沈黙という仮面を被る。
「だが、そなたの奥方は、夜毎に天使に祈るばかりで――子の作り方を知らぬようだな」
一瞬、静寂が刺さるように訪れる。
胸の奥が張り裂けそうだった。だが、崩せば負けだと知っている。
リナリーはヴァロニア王家出身のシーランドの王太妃だ。手出しは、どんな理由でも許されぬ存在。
それは、ヴァロニアにとっても同様、シーランドの名を冠したリナリーには、迂闊に手出しは出来なかった。
リナリーは立ち上がり、オスカーの方へ歩を進めた。
絹擦れの音すら妖艶に響き、すぐ傍まで来て、オスカーの椅子の背に手を置く。
三十を超えたとは思えぬ、薔薇のような美しさだ。
「二十八の時から五年間、そなたのことは、随分と忍耐強い男だと思っていたが……」
囁くたび、吐息が首筋にかかる距離。
「忠義だったか? それとも……ただの苦行だったか?」
その目が、射抜くようにオスカーを見据えた。
この女は、まるで魔女だ。
理性を掴み、捻じ曲げる。
「それとも……作り方を知らぬのは、そなたの方なのか?」
挑発、誘惑、揶揄。
オスカーの限界が、音を立てて崩れた。
あの瞬間――、この女の息の根を止めたいと、心底思った。
だが、殺してしまえばヴァロニアが動く。
ならば、殺さず――
力で、支配で、屈辱で、ねじ伏せることで――己の威厳を取り戻せると、愚かにも。
だが。
指先が肩に触れたときには、もう呑まれていた。
あの海のように蒼い目が、あの声が、あの冷たい微笑が――深く、深く、自分の奥底に手を伸ばしていた。
「祈りで王家の血が繋がるなら、神殿も苦労せぬな」
最後の一言は、まるで祝詞のように低く、耳の奥に落ちた。
囁きだった。
なのに、その言葉は、剣より鋭く、炎より熱く、オスカーの心を焼いた。
凌辱した――はずだった。
だが、飲まれた。理性ごと、男としての矜持ごと。
あの夜。
支配したのは、果たしてどちらだったのか。
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(まさか……)
己の喉の音が、体の中を通って耳に伝わる。
十六。今、その少女が十六というならば――
あの女は、すべてを計算していたのか。
あの時――自分が唯一、あの女を支配したと思っていた一夜。
「陛下?」
報告官が、静かに尋ねる。
「……構わない。しばらく、この件には私が直接あたる」
「は……?」
「その少女の名簿の写し、すべて持て。……よく調べておけ。母の名、正式な記録、過去の居住地……そして――父の記載があるかどうかだ」
報告官が姿を消したあと、オスカーは立ち上がった。
冬の空気が、窓の隙間から肌に刺さるように冷たかった。
「あの夜が、全て計算だったとすれば」
オスカーの声は、誰に届くでもなく、静かに天井へ吸い込まれていった。
「リナリー……私は、お前に、勝ったつもりでいたのに――」
リナリーの掌の上にあった運命が、今、氷の下から、再び姿を現そうとしていた。
報告官が退室したあとも、オスカーはしばらく窓の外を見つめていた。
リナリーが動いた理由が、ただの復讐や野心ではない可能性――
その子が鍵になるという確信。
(……王位を奪いに来たのか。ならばこちらも、手を打たねばならん。もし、そうであるなら、捕らえるべきか、殺すべきか――)
氷のような瞳が、ちらつく雪の向こうに燃える紅を見据えていた。




