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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第7章 愛の花

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第56話 過ちと政略の花

 北の風が吹きすさぶなか、ウィンブロー城の塔に設けられた政務室には、火は焚かれていなかった。

 石壁の間を冷気が這い、重厚な窓越しには雪の始まりを告げる空が広がっていた。


 オスカーは机に向かい、視線を上げぬまま、静かに報告を聞いていた。

 彼はかつてシーランド王アンリの摂政でありながら、誰の忠誠も語らぬまま、氷派を動かしてきた男だった。

「……各地で、印刷所の跡地に動きがございます。以前焼かれた小屋に、人の出入りが確認されました。再び、異端文書が複製されている可能性が――」

「誰が動いている?」

 オスカーの声は低く、硬質だった。

「顔までは掴めておりませんが、あちこちで『ヴィンセントの再来』と噂が囁かれております。さらに、その動きに合わせて――女官風の少女が、リナリー様の近辺で保護されているようです。金髪で、蒼か、翠の瞳。出自不明。炎派の庇護下にあり、王女教育を受けている形跡もあるとのこと」

「他には?」

 オスカーは机に広げられた報告書に目を落としたまま、口元をゆるめずにいた。

「その少女は、年末に催された、モレスでの巡礼祭で、炎派の式典にも参列していたとの報告があります。名簿に名前は記載されず、特別扱いされていたようで、」

 報告官が言葉を選びながら続ける。

「氷派の若い神父は、氷の清き器ではないかと噂を……」

 カチ、と。オスカーが手にしていたペン先が、陶器のインク壺にあたって鳴る。

「……歳は?」

「十六、と。明確な記録はありませんが、式典の年次と照らして一致します」

 オスカーは手を止めた。

「……金髪に、蒼か翠の瞳……」

 誰に問うでもないその言葉に、報告官は黙って聞いたいた。

(リナリー……)

 それは、かつて王であった実兄の妃の名前。

「リナリーが、いくら炎派から王女を仕立てようと、血筋だけを見れば、王位継承者たり得ん」

 唇に、乾いた皮肉が滲んだ。

 ヴァロニア王家の血のリナリーが産んだ子ならば、まだしも……。

(まさか。……三十路を超えて産んだと言うのか?)

 あの女のことだと、ふと疑念が沸く。 

(ならば、一体、父は誰だ?)

 シーランドの王家を脅かすとすれば、ヴァロニア王家の血だけでは足りない。

 王家の血筋と対立しないシーランドの貴族の男でなければ――

 そのとき、自分の古い記憶が、紐解かれる。


 ただ、一夜のことだったが――


 郊外の薔薇の館。ヴァロニアより帰還させられた王太妃の幽閉先。オスカーの治める領地で、女官一人と侍女のみで静かに過ごしていた兄嫁――女王未亡人。

 そこへ他者の出入りを一切許さなかったのは、紛れもない自分自身だ。

 ――相手は、ただの王太妃ではない、リナリー・フォン・シーランド。

 彼女の瞳は、常に冷静だった。どんな時も、負けた者の目ではなかった。



 瞼の裏に、ふと現れた光景。

 ――ゆるく波打つ金の髪。

 ――海のような蒼い瞳。

 ――そして、燃えるような意志を宿した横顔。



 あの夜は、十七年前ではなかったか?

 ちょうど、リナリーの子、甥のアンリが成人を迎える一年前。

 リナリーは三十三歳。自分も、同じ歳だった。



・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。..。:*・゜゜・*:.


 その夜、若い侍女に出されたワインは、やけにぬるく、甘かった。

 喉を通った後、苦みより先に、熱が全身を巡る。

 オスカーの来訪時、王太妃の監視させる為につけた女官、セラフィナ・ヴェイルは、いつも無言で部屋を出ていく。

 リナリーは笑んでいた。

 目元だけが微かに吊り上がる、あの政敵に見せるときの、無垢と毒とが混ざり合った微笑。

 後一年でアンリの頭上に王冠がのる。そうなれば、王母として、この幽閉生活も終わり、アンリの摂政権を握っている義理の弟(オスカー)を排除しようとでも考えているのだろう。

 王弟の進退を危惧するような、そんな余裕を見せているのだと思っていた。

 手元の杯を指で軽く回しながら、赤い液面を傾けてオスカーを見た。

「……そなたには、後継ぎが必要なのだろう? 氷派は血の絆を重んじるゆえ」

 囁きのように、まるで部屋の空気に溶け込む声だった。

 オスカーは眉根を寄せ、杯を置く。だが、それは怒りではない。怒りすら許されぬ者の、沈黙という仮面を被る。

「だが、そなたの奥方は、夜毎に天使に祈るばかりで――子の作り方を知らぬようだな」

 一瞬、静寂が刺さるように訪れる。

 胸の奥が張り裂けそうだった。だが、崩せば負けだと知っている。

 リナリーはヴァロニア王家出身のシーランドの王太妃だ。手出しは、どんな理由でも許されぬ存在。

 それは、ヴァロニアにとっても同様、シーランドの名を冠したリナリーには、迂闊に手出しは出来なかった。

 リナリーは立ち上がり、オスカーの方へ歩を進めた。

 絹擦れの音すら妖艶に響き、すぐ傍まで来て、オスカーの椅子の背に手を置く。

 三十を超えたとは思えぬ、薔薇のような美しさだ。

「二十八の時から五年間、そなたのことは、随分と忍耐強い男だと思っていたが……」

 囁くたび、吐息が首筋にかかる距離。

「忠義だったか? それとも……ただの苦行だったか?」

 その目が、射抜くようにオスカーを見据えた。

 この女は、まるで魔女だ。

 理性を掴み、捻じ曲げる。

「それとも……作り方を知らぬのは、そなたの方なのか?」

 挑発、誘惑、揶揄。

 オスカーの限界が、音を立てて崩れた。


 あの瞬間――、この女の息の根を止めたいと、心底思った。

 だが、殺してしまえばヴァロニアが動く。

 ならば、殺さず――


 力で、支配で、屈辱で、ねじ伏せることで――己の威厳を取り戻せると、愚かにも。

 だが。

 指先が肩に触れたときには、もう呑まれていた。

 あの海のように蒼い目が、あの声が、あの冷たい微笑が――深く、深く、自分の奥底に手を伸ばしていた。

「祈りで王家の血が繋がるなら、神殿も苦労せぬな」

 最後の一言は、まるで祝詞のように低く、耳の奥に落ちた。

 囁きだった。

 なのに、その言葉は、剣より鋭く、炎より熱く、オスカーの心を焼いた。

 凌辱した――はずだった。

 だが、飲まれた。理性ごと、男としての矜持ごと。


 あの夜。

 支配したのは、果たしてどちらだったのか。


・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。..。:*・゜゜・*:.




(まさか……)

 己の喉の音が、体の中を通って耳に伝わる。

 十六。今、その少女が十六というならば――

 あの女は、すべてを計算していたのか。

 あの時――自分が唯一、あの女を支配したと思っていた一夜。

「陛下?」

 報告官が、静かに尋ねる。

「……構わない。しばらく、この件には私が直接あたる」

「は……?」

「その少女の名簿の写し、すべて持て。……よく調べておけ。母の名、正式な記録、過去の居住地……そして――父の記載があるかどうかだ」


 報告官が姿を消したあと、オスカーは立ち上がった。

 冬の空気が、窓の隙間から肌に刺さるように冷たかった。

「あの夜が、全て計算だったとすれば」

 オスカーの声は、誰に届くでもなく、静かに天井へ吸い込まれていった。

「リナリー……私は、お前に、勝ったつもりでいたのに――」

 リナリーの掌の上にあった運命が、今、氷の下から、再び姿を現そうとしていた。


 報告官が退室したあとも、オスカーはしばらく窓の外を見つめていた。

 リナリーが動いた理由が、ただの復讐や野心ではない可能性――

 その子が鍵になるという確信。

(……王位を奪いに来たのか。ならばこちらも、手を打たねばならん。もし、そうであるなら、捕らえるべきか、殺すべきか――)

 氷のような瞳が、ちらつく雪の向こうに燃える紅を見据えていた。


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