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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第7章 愛の花

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第55話 Over the rainbow

 夜明けの森は、凍てつくような静けさの中にあった。

 まだ陽は昇りきらず、灰色の空の下、森の梢は霜に覆われて白くきらめいている。

 小鳥たちの声すら遠く、まるで時間そのものが、ひと呼吸分だけ足を止めているかのようだった。

 魔女の家の前に、ふたりの影が立っていた。

 ウサマは、外套の裾を締めながら、荷を背負ったエルセラの方を見やった。金の髪は、朝の冷気に濡れたように輝いている。旅支度を整えたエルセラは、昨夜より少しだけ大人びて見えた。

「……その格好で、寒くない?」

 ウサマが尋ねると、エルセラは首をすくめて笑った。

「ううん、寒いけど……今のあたしには、ちょうどいい」

「そっか。これから先は、昨日までとちょっと違うかもな。道も、人も」

 エルセラは頷き、家の戸口に最後の視線を落とした。

 魔女は戻っていない。けれど、彼女の灯だけは、どこかに残っているような気がした。

「……ありがとう、ママ」

 そう呟いて、扉に背を向ける。

 ウサマは、軽く咳払いして言った。

「じゃあ、行こう。北の小道を抜けて、沼地の近くまで出たら、魔女の村へ通じる近道がある」

「前に行った時も、その道だったの?」

「いや。前は、だいぶ遠回りと、色々寄り道したんだ。……今回は、最短ルートだ」

 エルセラはくすっと笑った。

「あたしは、寄り道も、大好きだけどね」

 ふたりは、森の外へ踏み出した。

 冷たい空気が頬を打つ。足元の霜がサクッと音を立てるたび、昨日までとは違う現実に踏み込んでいく気がした。

 それでも、歩調は自然と揃っていた。

 枝葉をかき分ける音。風に揺れる木々のざわめき。小さな音のすべてが、ふたりの旅の始まりを後押ししているようだった。


 ウサマとエルセラは、森の出口で足を止めた。

「……こっちの道を抜けると、沼地に出る」

 ウサマが指さした先には、まだ霧のかかる小径が続いている。獣道のように狭く、道なりも曲がりくねっていた。

「ほんとに、こんな道通るの? 街道なら乗合馬車でも通りそうだけど」

「街道を使ったら、絶対途中で誰かに止められる。白い鎧のやつら、あちこちに居そうだからな……『魔女』の気配がすれば、すぐに嗅ぎつけてくる」

 ウサマはそう言って、肩の外套を少し引き直した。

 きっと、ノクシアルの名前を出せは、簡単に行けそうな気もした。しかし、それが『自分の名』ではないことは知っている。

 他人の名前では、魔女の村には届かない。

 エルセラは黙って頷く。道は不安だったが、迷いはなかった。手には小さな革の袋。中には、昨夜ウサマが包んでくれた干し果物とパン、それにママの手紙が入っていた。




 二人は暗くなるまで、一日中歩き続けた。

 木々は黒い影を落とし、風もなく、ただ星だけが天蓋のように広がっている。

 ウサマとエルセラは、小さな岩場のくぼみに身を寄せ、焚き火を囲んでいた。

 ウサマは敷いた布に倒れこみ、エルセラは火のそばで膝を抱えていた。

「……あたし、ウサマのお兄さん、見たかもしれない」

 ウサマがぴくりと反応し、上半身を起こした。

「どこで?!」

「モレスの港町」

「え? それって、いつ?」

「新年の、巡礼祭してた頃かな。ちょうどあの頃、すごく人が多くて……」

「お前、モレス港に行ってたの?」

「うん。式典に出てたの。……貴族の付き添いでね」

「俺も、その時、モレスの巡礼祭に行ってた!」

 ウサマの声に、思わずエルセラも目を見開いた。

「だから、兄さんを見たのって、もしかして俺の姿じゃない?」

 エルセラは小さく首を振った。

「ううん。だって、ウサマだと思って、間違えて声かけちゃった。その人、ちょっと驚いた顔して、すぐ行っちゃったけど」

「髪の色は?」

「もちろん黒でしょ? 癖毛だったし、背も同じくらい。……顔も、ほんのちょっと似てて。でも、瞳の色が青だったの」

 ウサマは少し首を傾けた。

 ママの鏡で見た自分の目の色は、母親と同じ、黒だった。

「……じゃあ、俺でもないか。それと、兄さん、俺とは違って、金髪に翠の目なんだ。結構目立つ顔してるし」

「お兄さんは、完璧なシーランド人の特徴なのね」

 確かに、シーランドでは金髪に翠の目がほとんどだ。アサドは、それに完璧に当てはまる。だが、エルセラの瞳の色は少し違った。蒼と翠のグラデーションだ。

「んー。でも俺たちは、シーランド人じゃないんだ」

「え、そうなの!? あ、そっか。ウサマって西大陸の名前よね。ラシーディア人なの?」

「いや、どこの国にも属してない。兄さんも」

「……じゃ、どこに住んでるの?」

「オス・ロー」

「……って、聖地オス・ロー?」

 ウサマは頷いた。エルセラは軽く息を呑む。

「あたし、ママから聞いたことある。聖地は、何にもない、砂と瓦礫だらけのところだって」

「それ、いつの話? 俺が生まれた時には、もう、普通の街だけど……。多分、ママの話の頃より、数百倍はごちゃごちゃしてるよ。人も文化も言葉も、あ、あと性別も。色んなのが入り混じってる。……って、ママは一体、何歳なんだ……?」

 ウサマが、最後は独り言のように言うと

「ママは何歳だろうと、世界一可愛いんだから、そんなことどうだっていいのよ」

と、少し自慢げに返ってきた。

 エルセラの何気ない言葉だったが、それはウサマの胸には染みた。

 母の見た目が若かろうと、どうだっていいんだ。いつか、自分の年齢が母の見た目を追い抜いてしまったとしても、母さんは、母さんだ。

「そう言えば、ウサマって……何歳なの?」

「十五」

(あら。ウサマはあたしより年下だったんだ)

 エルセラは少しだけ意外そうな顔をした。

 ウサマも内心驚いた。エルセラのことを自分より年下だと思っていた。

「お兄さんはいくつ?」

「十七。兄さんは、俺のこと、探して旅してるんだ……」

(お兄さんは、あたしより年上か。……ウサマにも、大切な人が居るんだな)

「こっちでは、ノアって名乗ってるらしい。西大陸の名前って目立つからさ」

 エルセラはその名を胸の中で繰り返す。

「そうね。ママも西大陸の名前よ。フ……」

「ストップ!! それは言わなくていい!」

 ウサマの声は少し鋭かったが、すぐに照れたように肩をすくめた。

「ごめん。でも、名前って、知られると厄介なこともあるからさ」

 エルセラは何かを悟ったように、黙って頷いた。

 しばらく、炎の音だけが聞こえた。

 やがて、ウサマがぽつりと呟いた。

「でも、今回の旅で、母さんがヴァロニア人だってわかったんだ」

 その言葉に、エルセラは目を開いた。

「だから、母さんの弟、親戚に、すごく世話になって。……それで、色んなものが、見えてきた気がした」

 ウサマの言葉には重みがあった。

 何かを知って、それでもまだ言えないものが、彼の中には確かにある。

 エルセラが、口元に小さな笑みを浮かべて言った。

「……不思議だね。なんか、もっと、前から知ってたみたい」

 ウサマも、ふっと目を細めた。

「うん。なんか、そんな気がする」

 再会からまだ間もない。なのに、どこか懐かしさすら感じるのは、それぞれが、互いに見えない線を追い続けてきたからだろう。

 エルセラが、膝を抱えたまま、ぽつりと呟いた。

「……わたし、本当のお母様のこと、まだよくわからない。なのに、『次代の器』だとか、『選ばれし子』だとか言われて……周りが勝手に決めてくる。名前を呼ばれるたびに、自分が誰なのか、わからなくなる時がある」

 その横顔に、ウサマは目を留めた。

「『器』って言葉、俺は嫌いだ。中身を誰かが勝手に入れようとしてくるみたいで」

「うん……そう。まさにそれ」

 少しの沈黙があって、ウサマが言った。

「……俺はさ、『名前』を決められて生まれたわけじゃない。父親も、母親も、何かを背負ってる人だったけど……でも、それを俺たちには教えてくれなかった」

 エルセラのまなざしが、そっと彼を見つめる。

「ねぇ、ウサマは……何のために旅してるの?」

 ウサマは、言葉を探すように火を見つめてから、ゆっくり口を開いた。

「最初は、自分のことが怖くなって……自分でも受け入れられなくて、不安で。だけど、それを、兄さんには言えなかった。それで母さんを探してた。でも、今は……兄さんを見つけて、ちゃんと話したい。それから、母さんも。父さんも」

「……あたしも、ちゃんと話したい」

 エルセラが呟いた。

「誰と?」

「……もう一度、()()と」

(でも、あの手紙が最後なのかな……)

「ママと過ごした時、夜はこうして火のそばにいたの。怖い夢を見た日も、ママは何も言わずに火を見せてくれた」

 その声には、やわらかさと、わずかな寂しさが混ざっていた。

 ウサマは黙って、火に枝を足す。オレンジ色の光が、二人の顔を照らす。

「……ママは、あったかい人だったんだな」

「そうよ。……でも、時々、残酷なほど静かだったけど。本当の焔みたいに……」

 エルセラは、火を見つめたまま目を伏せる。

(そして、あたしも、ママと同じ、残酷さを持ってる。……あたしの中に、ママがいる?)

 ウサマも、火を見つめる。

「……俺さ、実は、子どもの頃、火って怖かったんだ」

「怖かった?」

「うん。母さん、隠してたけど、ずっと火を怖がってた。そのせいかも。やっぱり、母親の影響ってすごくある。今はもう平気だけど。でも、俺は知らないんだ。母さんが火を嫌ってた理由とか、足のやけどの痕のこととか……」

 火の粉が一つ、舞い上がる。

「……ウサマ。寒くない?」

「慣れてる。オス・ローの夜ってめちゃくちゃ寒いから。……お前こそ、ドレスの下、ちゃんとトラウザー履いてんの?」

「失礼ね。あたしはもともと森で育ったから、完璧な装備よ」

 二人の言葉に、わずかに笑いがこぼれる。

 けれど、その笑みの奥には、どちらもそれぞれの決意を秘めていた。

 自分の『名』を探しに行く旅。

 自分の『血』と向き合うための旅。

 魔女の村までは、あと一日半。


 言葉は少なくても、炎のそばで交わされた想いは、確かにふたりを近づけていた。

 今夜は、ここが世界の中心だった。

 そして明日――再び、魔女の村へと歩き出す朝がやってくる。


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