第55話 Over the rainbow
夜明けの森は、凍てつくような静けさの中にあった。
まだ陽は昇りきらず、灰色の空の下、森の梢は霜に覆われて白くきらめいている。
小鳥たちの声すら遠く、まるで時間そのものが、ひと呼吸分だけ足を止めているかのようだった。
魔女の家の前に、ふたりの影が立っていた。
ウサマは、外套の裾を締めながら、荷を背負ったエルセラの方を見やった。金の髪は、朝の冷気に濡れたように輝いている。旅支度を整えたエルセラは、昨夜より少しだけ大人びて見えた。
「……その格好で、寒くない?」
ウサマが尋ねると、エルセラは首をすくめて笑った。
「ううん、寒いけど……今のあたしには、ちょうどいい」
「そっか。これから先は、昨日までとちょっと違うかもな。道も、人も」
エルセラは頷き、家の戸口に最後の視線を落とした。
魔女は戻っていない。けれど、彼女の灯だけは、どこかに残っているような気がした。
「……ありがとう、ママ」
そう呟いて、扉に背を向ける。
ウサマは、軽く咳払いして言った。
「じゃあ、行こう。北の小道を抜けて、沼地の近くまで出たら、魔女の村へ通じる近道がある」
「前に行った時も、その道だったの?」
「いや。前は、だいぶ遠回りと、色々寄り道したんだ。……今回は、最短ルートだ」
エルセラはくすっと笑った。
「あたしは、寄り道も、大好きだけどね」
ふたりは、森の外へ踏み出した。
冷たい空気が頬を打つ。足元の霜がサクッと音を立てるたび、昨日までとは違う現実に踏み込んでいく気がした。
それでも、歩調は自然と揃っていた。
枝葉をかき分ける音。風に揺れる木々のざわめき。小さな音のすべてが、ふたりの旅の始まりを後押ししているようだった。
ウサマとエルセラは、森の出口で足を止めた。
「……こっちの道を抜けると、沼地に出る」
ウサマが指さした先には、まだ霧のかかる小径が続いている。獣道のように狭く、道なりも曲がりくねっていた。
「ほんとに、こんな道通るの? 街道なら乗合馬車でも通りそうだけど」
「街道を使ったら、絶対途中で誰かに止められる。白い鎧のやつら、あちこちに居そうだからな……『魔女』の気配がすれば、すぐに嗅ぎつけてくる」
ウサマはそう言って、肩の外套を少し引き直した。
きっと、ノクシアルの名前を出せは、簡単に行けそうな気もした。しかし、それが『自分の名』ではないことは知っている。
他人の名前では、魔女の村には届かない。
エルセラは黙って頷く。道は不安だったが、迷いはなかった。手には小さな革の袋。中には、昨夜ウサマが包んでくれた干し果物とパン、それにママの手紙が入っていた。
二人は暗くなるまで、一日中歩き続けた。
木々は黒い影を落とし、風もなく、ただ星だけが天蓋のように広がっている。
ウサマとエルセラは、小さな岩場のくぼみに身を寄せ、焚き火を囲んでいた。
ウサマは敷いた布に倒れこみ、エルセラは火のそばで膝を抱えていた。
「……あたし、ウサマのお兄さん、見たかもしれない」
ウサマがぴくりと反応し、上半身を起こした。
「どこで?!」
「モレスの港町」
「え? それって、いつ?」
「新年の、巡礼祭してた頃かな。ちょうどあの頃、すごく人が多くて……」
「お前、モレス港に行ってたの?」
「うん。式典に出てたの。……貴族の付き添いでね」
「俺も、その時、モレスの巡礼祭に行ってた!」
ウサマの声に、思わずエルセラも目を見開いた。
「だから、兄さんを見たのって、もしかして俺の姿じゃない?」
エルセラは小さく首を振った。
「ううん。だって、ウサマだと思って、間違えて声かけちゃった。その人、ちょっと驚いた顔して、すぐ行っちゃったけど」
「髪の色は?」
「もちろん黒でしょ? 癖毛だったし、背も同じくらい。……顔も、ほんのちょっと似てて。でも、瞳の色が青だったの」
ウサマは少し首を傾けた。
ママの鏡で見た自分の目の色は、母親と同じ、黒だった。
「……じゃあ、俺でもないか。それと、兄さん、俺とは違って、金髪に翠の目なんだ。結構目立つ顔してるし」
「お兄さんは、完璧なシーランド人の特徴なのね」
確かに、シーランドでは金髪に翠の目がほとんどだ。アサドは、それに完璧に当てはまる。だが、エルセラの瞳の色は少し違った。蒼と翠のグラデーションだ。
「んー。でも俺たちは、シーランド人じゃないんだ」
「え、そうなの!? あ、そっか。ウサマって西大陸の名前よね。ラシーディア人なの?」
「いや、どこの国にも属してない。兄さんも」
「……じゃ、どこに住んでるの?」
「オス・ロー」
「……って、聖地オス・ロー?」
ウサマは頷いた。エルセラは軽く息を呑む。
「あたし、ママから聞いたことある。聖地は、何にもない、砂と瓦礫だらけのところだって」
「それ、いつの話? 俺が生まれた時には、もう、普通の街だけど……。多分、ママの話の頃より、数百倍はごちゃごちゃしてるよ。人も文化も言葉も、あ、あと性別も。色んなのが入り混じってる。……って、ママは一体、何歳なんだ……?」
ウサマが、最後は独り言のように言うと
「ママは何歳だろうと、世界一可愛いんだから、そんなことどうだっていいのよ」
と、少し自慢げに返ってきた。
エルセラの何気ない言葉だったが、それはウサマの胸には染みた。
母の見た目が若かろうと、どうだっていいんだ。いつか、自分の年齢が母の見た目を追い抜いてしまったとしても、母さんは、母さんだ。
「そう言えば、ウサマって……何歳なの?」
「十五」
(あら。ウサマはあたしより年下だったんだ)
エルセラは少しだけ意外そうな顔をした。
ウサマも内心驚いた。エルセラのことを自分より年下だと思っていた。
「お兄さんはいくつ?」
「十七。兄さんは、俺のこと、探して旅してるんだ……」
(お兄さんは、あたしより年上か。……ウサマにも、大切な人が居るんだな)
「こっちでは、ノアって名乗ってるらしい。西大陸の名前って目立つからさ」
エルセラはその名を胸の中で繰り返す。
「そうね。ママも西大陸の名前よ。フ……」
「ストップ!! それは言わなくていい!」
ウサマの声は少し鋭かったが、すぐに照れたように肩をすくめた。
「ごめん。でも、名前って、知られると厄介なこともあるからさ」
エルセラは何かを悟ったように、黙って頷いた。
しばらく、炎の音だけが聞こえた。
やがて、ウサマがぽつりと呟いた。
「でも、今回の旅で、母さんがヴァロニア人だってわかったんだ」
その言葉に、エルセラは目を開いた。
「だから、母さんの弟、親戚に、すごく世話になって。……それで、色んなものが、見えてきた気がした」
ウサマの言葉には重みがあった。
何かを知って、それでもまだ言えないものが、彼の中には確かにある。
エルセラが、口元に小さな笑みを浮かべて言った。
「……不思議だね。なんか、もっと、前から知ってたみたい」
ウサマも、ふっと目を細めた。
「うん。なんか、そんな気がする」
再会からまだ間もない。なのに、どこか懐かしさすら感じるのは、それぞれが、互いに見えない線を追い続けてきたからだろう。
エルセラが、膝を抱えたまま、ぽつりと呟いた。
「……わたし、本当のお母様のこと、まだよくわからない。なのに、『次代の器』だとか、『選ばれし子』だとか言われて……周りが勝手に決めてくる。名前を呼ばれるたびに、自分が誰なのか、わからなくなる時がある」
その横顔に、ウサマは目を留めた。
「『器』って言葉、俺は嫌いだ。中身を誰かが勝手に入れようとしてくるみたいで」
「うん……そう。まさにそれ」
少しの沈黙があって、ウサマが言った。
「……俺はさ、『名前』を決められて生まれたわけじゃない。父親も、母親も、何かを背負ってる人だったけど……でも、それを俺たちには教えてくれなかった」
エルセラのまなざしが、そっと彼を見つめる。
「ねぇ、ウサマは……何のために旅してるの?」
ウサマは、言葉を探すように火を見つめてから、ゆっくり口を開いた。
「最初は、自分のことが怖くなって……自分でも受け入れられなくて、不安で。だけど、それを、兄さんには言えなかった。それで母さんを探してた。でも、今は……兄さんを見つけて、ちゃんと話したい。それから、母さんも。父さんも」
「……あたしも、ちゃんと話したい」
エルセラが呟いた。
「誰と?」
「……もう一度、ママと」
(でも、あの手紙が最後なのかな……)
「ママと過ごした時、夜はこうして火のそばにいたの。怖い夢を見た日も、ママは何も言わずに火を見せてくれた」
その声には、やわらかさと、わずかな寂しさが混ざっていた。
ウサマは黙って、火に枝を足す。オレンジ色の光が、二人の顔を照らす。
「……ママは、あったかい人だったんだな」
「そうよ。……でも、時々、残酷なほど静かだったけど。本当の焔みたいに……」
エルセラは、火を見つめたまま目を伏せる。
(そして、あたしも、ママと同じ、残酷さを持ってる。……あたしの中に、ママがいる?)
ウサマも、火を見つめる。
「……俺さ、実は、子どもの頃、火って怖かったんだ」
「怖かった?」
「うん。母さん、隠してたけど、ずっと火を怖がってた。そのせいかも。やっぱり、母親の影響ってすごくある。今はもう平気だけど。でも、俺は知らないんだ。母さんが火を嫌ってた理由とか、足のやけどの痕のこととか……」
火の粉が一つ、舞い上がる。
「……ウサマ。寒くない?」
「慣れてる。オス・ローの夜ってめちゃくちゃ寒いから。……お前こそ、ドレスの下、ちゃんとトラウザー履いてんの?」
「失礼ね。あたしはもともと森で育ったから、完璧な装備よ」
二人の言葉に、わずかに笑いがこぼれる。
けれど、その笑みの奥には、どちらもそれぞれの決意を秘めていた。
自分の『名』を探しに行く旅。
自分の『血』と向き合うための旅。
魔女の村までは、あと一日半。
言葉は少なくても、炎のそばで交わされた想いは、確かにふたりを近づけていた。
今夜は、ここが世界の中心だった。
そして明日――再び、魔女の村へと歩き出す朝がやってくる。




