第53話 Buck to the forest
モレスの見学から、すでに数週間が経っていた。
巡礼祭は終わり、街はすっかり冬の装いに変わった。海から吹く風は冷たくなり、窓辺の潮の香りに代わって、燻した薬草と油の匂いが漂っている。
エルセラは、モレス旧修道院区の巡礼者の館に滞在していた。
読書室の椅子にもたれ、広げたままの貴族名簿に目を落としながら、けれど視線の焦点は遠くにあった。
モレスの町を見学してから、心の奥にしこりのように残っていたもの。それが、今もまだ言葉にならないまま胸を占めていた。
あの港町で見た光景。
炎派の標にひざまずく老女。教義を唱える少年。冷たい塩風と共に響いた、怒号と祈り。
正しさと正しさがぶつかり合うような空気の中で、ふと、すれ違った黒髪の青年の背中を、ウサマだと見間違えた時の動悸。
(……人違いだった。でも、もし、あの時、ほんとうにウサマだったら、あたし、どうしてたんだろ……)
心臓が高鳴ったあの瞬間だけが、今も妙に鮮明だった。
「炎と氷……、お母様は炎なのよね……。なら、あたしも炎なの?」
ぽつりと呟いた言葉は、誰にも届かない。
机の上の古い名簿にふと視線を落とすと、一つの名前が、不意に目に飛び込んできた。
──シルヴィア・フォン・レーヴェンヌ
かつて炎派の名家に生まれながら、今はヴァロニア王ギリアンの妃――氷派の王家に嫁いだ人物。
まるで、敵の中にほり込まれたようだ。
(……どうして、そんな選択をしたんだろう)
エルセラは想像してみる。シルヴィア王妃が、玉座のある宮殿で、どんな表情をして生きているのかを。
好きな人だったのか、それとも政略だったのか。思想を捨てたのか、それとも何かを守るためだったのか、何かを変えようとしたのか。
(……幸せなのかな)
問いは、いつの間にか、自分に向いていた。
自分には、まだ何もない。思想も、家柄も、選ぶ力も。
あるのは、今『器』であるように育てられているという重圧と、『ママ』が残してくれた、言葉と記憶。
読書室にも同行しているアンナに声をかけた。
「……ねえ、アンナ。王妃って、幸せなのかな?」
アンナは少しだけ驚いた顔をした。
「……王妃? なぜ、そう思われたのです?」
「これ、昔の貴族の名簿を見てるんだけど。ヴァロニア王妃のシルヴィア。この国の炎派のレーヴェンヌ家に生まれて、十七歳のときに氷派のヴァロニア王家に嫁いで……それで、王子を生んで……」
言葉がつまる。
「……そういう『器』もあるのかなって、思ったの」
モレスの巡礼祭で、炎派の女官たちと共に聖堂での式に参列したことを思い出す。
香の煙が、冬の陽を縫うように天井へ昇っていく中で、神官が読み上げる律文の中に、エルセラの名前が出た。
──『次代を選ぶ清き器』として。
誰かが拍手をしていた。でも、心の中で別の声が囁いていた。
(あれ? 変ね。選ばれるんじゃない。選ぶのが、あたしじゃなかったっけ?)
エルセラの心中を察して、アンナは慎重に言葉を選んだ。
「……『器』とは、受け入れる力のことでもあります。耐えること。守ること。……でも、形を変えることも、また『器』の仕事かと」
「……あたしは、どうなるんだろう」
机の端には祈祷書と氷派の教本が置かれていた。開いたページには、燈火と秩序、神罰と献身――耳慣れた言葉が並んでいる。
でも、自分の目で見たモレスの港町では、祈る声、嘲る声、もっと雑多な声があった。それらが、嘘みたいに混じり合っていた。
(……嘘と、真実の境目って、どこにあるんだろう)
「神の名は、人を清める火……」
口の中で、教本の一節をなぞってみる。だが、声はすぐに消えた。
(ママの言葉とは……反対なんだ)
記憶の奥から、ふと浮かぶ。
『命に罪はないのよ。火は罰じゃない。あれは、灯なの』
ファティマの声が、ふと耳の奥に蘇る。
教本に書かれた教義とは、真逆のその言葉。けれど、あたたかかった。迷いのない眼差しで、エルセラを見ていた。
(お母様は……優しくて、怖くて、立派な人。でも、母親だったことは、一度もない)
ママは、ただそこに居てくれた。毎晩外国のお話を聞かせてくれて、髪を編んでくれて、寒い夜に毛布を二重にしてくれた。
それが、母というものではないのか――そんな気がした。
エルセラは机を閉じ、古い名簿をそっと棚に戻した。
書庫に鍵を返す理由は、もう見つけてある。
今度は、あの扉を自分で開けに行くために。
(……会いたい、ママ。もう一度だけ、聞いてみたい)
火は、灯か、それとも罰か――。
そして、エルセラ自身が、誰の言葉を信じるのか。
* * * * *
それから数日、エルセラは慎重に準備を進めた。
アンナの視線を欺くことは、容易ではない。知性と規律を兼ね備えた彼女は、言葉の隙間ひとつで違和感を察知する。
だからエルセラは、何も隠さないように、むしろ自然に振る舞うことにした。
毎日、いつも通りに読書室へ通い、祈祷書の読み上げにも励んだ。敢えて氷派の教本にも目を通し、時にはアンナに質問までした。
「この章にある『選ばれし器』って、たとえば具体的にどんな存在なんですか?」
そう尋ねると、アンナは一瞬、目を伏せてから答えた。
「……神の意志に従う者。命令を、純粋に受け取ることのできる者でしょう」
(でも、《《命令》》じゃなくて、《《願い》》だったら?)
エルセラは、内心で問い返した。
夜になると、少しずつ荷をまとめた。
脱出というには大げさだが、徒歩で森の奥を越えるには、それなりの備えがいる。
だが、森で育ったエルセラには、大きな荷物はいらなかった。地図、乾いたパンを少し、水筒、小さな短剣。
誰にも見つからずに書庫へ入り、古い礼拝堂の鍵を借りるのにも成功した。あの礼拝堂の裏に、使用人の間で噂される古い抜け道がある。
暖炉の通気口を通る、かつて聖職者たちが巡礼を避けて外へ出たと言われる裏口だ。
(もし、アンナに見つかったら、どうしよう)
一瞬、そんな思いがよぎる。
でも、思い出す。モレスの空気。ママの言葉。
(『選ばれる器』じゃなくて、『選ぶ者』になる。だから、行かなきゃ)
そして、その夜が来た。
巡礼祭の片付けが終わった館は、どこか気の抜けた静けさに包まれていた。冬の星が冷たく瞬き、風は乾いていた。
寝所に灯りを残し、ベッドには巻いた毛布を人の形に置いた。
礼拝堂までの回廊を、足音を消して抜ける。アンナの部屋からは、まだ蝋燭の明かりが漏れていたが、扉は閉ざされている。
扉を開けると、礼拝堂は薄暗く、香の残り香が天井に漂っていた。
奥の壁にある小さな鉄格子を開ける。
冷たい石段を降りると、かびた空気とともに、湿った抜け道が現れる。
ひとりきりの足音が、長い石の通路に響いた。
エルセラは再びママの家を目指し、ひとり夜の森へと旅立った。




