第52話 名を持たぬ者、名を背負う者
部屋の扉が静かに閉まり、王とホープの足音が遠ざかっていく。
その余韻の中、ウサマは椅子を離れ、壁際の大きな地図に近づいた。
まだ十五歳とは思えないほど背は伸びていたが、その肩には旅の疲れが少しだけ滲んでいた。
少しウェーブのかかった黒髪が首筋にかかり、落ち着いた黒い瞳が、ヴァロニアを中心とした広域図を静かに見つめた。
慣れない地名と入り組んだ国境線を眺めながら、ウサマは息をひとつ吐く。
その横に、気配を忍ばせるようにしてエリクスが近づいた。
(……随分、雰囲気が違うな。兄の時より……鋭い目だ。そして、ノクシアル候と同じ、漆黒の髪と瞳。まるで、黒い獅子だな……)
まさか、心の声がウサマに聞こえているとは思うはずもなく。
エリクスの漆黒の髪は丁寧に整えられ、蒼い瞳はどこか影を帯びている。
年上とはいえ、線の細さが残る顔立ちはまだ少年の輪郭を保っていた。
深い青の礼服が、立場と孤独を物語っているようだった。
声は控えめだったが、芯のある響きがあった。
「陛下とノクシアル候は……君のことを高く評価しておられるようだった」
感情を読み取らせないような抑えた声。
「……そう見えただけかもな」
ウサマは視線を地図に向けたまま、肩をすくめる。
「兄君の時も思ったが、……君たちは見せ方を意識しているわけじゃないのに、どこか人の目を引く」
(それが、亡国の、王族の血か……)
エリクスは地図の東部を指先でなぞった。
「うーん、……兄さんは、結構目立つし、昔からそういうとこ、あった。でも、俺は違う。……ただ、ここまで来たってだけだよ」
「ここまで来るのが、どれほどのことか……君自身がわかっていない気もするが」
(十五歳で、ここまで……)
それは小さな呟きだった。
ウサマが、ちらと横を向いた。その視線の先に立っていたのは、自分より少し背の高い青年。整った黒髪に、涼しげな蒼い瞳。けれどその瞳は、どこか眠れない夜のような色をしていた。
「……王の息子でも、遠く見える場所ってあるのか?」
「ある。むしろ、私の立場では見えてはいけないものの方が多い」
皮肉でもなく、ただ事実を言う口ぶりだった。
「見えてはいけないものって?」
ウサマは素直に問いかけた。
「……そうだな、例えば……権力を守るために見ないふりをしている真実……とか、王という仮面の下にある、人としての本音、とか」
ウサマは黙って地図を見たまま、ぽつりとつぶやく。
「人としての本音、か」
女王になったら、エルセラもそうなってしまうのだろうか?
「でも……俺の母さんも、父さんも、俺にはあんまり本音で、深い話をしてこなかった。多分、兄さんには話してたんだと思うけど」
その言葉に、エリクスが小さく反応する。
「……それは、私も同じだ」
(父上の言葉に、父上の声はない。……ただの玉座の音だ)
二人の間に、再び短い沈黙が落ちた。
地図の上を指先でなぞっていたエリクスが、不意に口を開く。
「君は……父君のことをどう思っている?」
その問いに、ウサマはわずかに眉を動かした。
「どうって……」
しばらく言葉を探してから、少しだけ笑みを浮かべる。
「俺にとっては、対等ではなくて、常に上にいる人、かな。でも、母さんのことをすごく大事にしてるってのは、子どもの俺でも分かってた。でも、いつもどこか遠く見てた」
「遠く?」
「……誰にも言えないことを、ずっと抱えてるような目をしてた。でも、それを、俺には何も話してくれない」
エリクスの目が、少しだけ細められる。
「……そうか。多分、それは君の父君だけじゃないな」
ウサマは横目で彼を見た。どこか、揺れる光のようなものがその横顔に見えた気がした。
「君の父さんも?」
「似てるよ、きっと。……私が何を望んでも、何を問おうとしても、父上は決してそこを見せようとはしなかった。いつも王としての答えしか返ってこない」
「それは……きついよな」
「……そうだな。でも、慣れた。いや、慣れたふりをしていただけかもしれないけどな」
二人は再び地図に目を落とす。
入り組んだ国境線の間に、灰色に塗られた小さな緩衝地帯があった。
「……ここだけ、なんでグレー?」
ウサマが指したのは、ヴァロニアの北東部にある、名もない集落の点在する一帯だった。
エリクスが目を落とし、小さく答える。
「元ガイアール領。そこは、どこにも属していない。ヴァロニアとシーランド、どちらの国にも扱いきれない、争いの名残の地だ」
(正しく、王族が見て見ぬふりをしている、見えないものの象徴だな……)
「ふうん……どこにも属していない、か。俺の育ったオス・ローも、そんな感じだった」
「聖地?」
「うん。誰かの領土じゃなくて、みんなが黙って集まってくる場所なんだ。名乗る必要も、名を背負う必要もなくて……でも、だからこそ、自分が何者かは、ずっとわからない」
エリクスは、思わず息を飲んだ。
名を持つことで、縛られてきた者。
名を持たないことで、彷徨ってきた者。
まったく逆の出自にありながら、奇妙な共通点が見えてくる。
「……君は、名がないことで、自由か?」
「……ううん。俺は、むしろ、どこかに繋がりたいって、ずっと思ってるかも」
ウサマの声は静かだったが、その奥には確かな想いがあった。
「でも、最近ようやく気付いたんだ。俺には名前がないんじゃなくて、自分で選んだり、決めてなかったんだって」
その言葉に、エリクスはかすかに笑った。
(……自分の名前に、そんな風に向き合ったことがあっただろうか。私はただ、与えられたものとして名前を受け入れてきた。拒むことなど考えたこともないまま)
二人はしばらく、地図の前に並んで立っていた。
名を巡る問いは、まだ答えが出ていない。
エリクスはふと息を吐いた。
「さっき、君が、名は与えられるものではなく、選ぶものだと言った時……少し、羨ましくなった」
その視線はまっすぐで、言葉を飾っていなかった。
(……もし選べたなら、私はエリクスになっていただろうか)
ウサマは首をかしげるように言った。
「王子なのに?」
「王子だから、なのかもしれない。……私は、王太子として以外、生きたことがない」
その一言には、どこか置いてきぼりにされた少年の影があった。
しばしの沈黙が落ちる。
ウサマは壁の地図を見上げたまま、小さく笑った。
「……俺は、王の息子って聞いて、少しだけ羨ましいと思ってた」
「それは……、嘘だな」
(亡国王族の二世なのに、君はその名を選ばなかった)
エリクスの長い睫毛の奥に、静かに揺れる蒼が見えた。
「なんだよ、人の心が読めるのか?」
ウサマの声には悪びれた様子はなかった。
「でも、選べない名前ってやつが、どれだけ重いのか……さっき、少しだけわかった気がした」
エリクスはその言葉に目を伏せ、かすかに唇をゆるめた。
「……ありがとう。……なんだろうな……こういう話を、自分がしていることに驚いている」
「俺も、こういう話……親ともしたことないよ。結構苦手なんだけど、話せてよかった」
二人の言葉の間には、まだ探り合う余白が残っていた。
だがそれは、不信ではなく、これからをつなぐための距離だった。
王宮の奥で交わされた、まだ名を持たぬ者と名を背負う者の、ささやかな交差だった。




