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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第6章 風の行方

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第52話 名を持たぬ者、名を背負う者

 部屋の扉が静かに閉まり、王とホープの足音が遠ざかっていく。

 その余韻の中、ウサマは椅子を離れ、壁際の大きな地図に近づいた。

 まだ十五歳とは思えないほど背は伸びていたが、その肩には旅の疲れが少しだけ滲んでいた。

 少しウェーブのかかった黒髪が首筋にかかり、落ち着いた黒い瞳が、ヴァロニアを中心とした広域図を静かに見つめた。

 慣れない地名と入り組んだ国境線を眺めながら、ウサマは息をひとつ吐く。

 その横に、気配を忍ばせるようにしてエリクスが近づいた。

(……随分、雰囲気が違うな。兄の時より……鋭い目だ。そして、ノクシアル候と同じ、漆黒の髪と瞳。まるで、黒い獅子だな……)

 まさか、心の声がウサマに聞こえているとは思うはずもなく。

 エリクスの漆黒の髪は丁寧に整えられ、蒼い瞳はどこか影を帯びている。

 年上とはいえ、線の細さが残る顔立ちはまだ少年の輪郭を保っていた。

 深い青の礼服が、立場と孤独を物語っているようだった。

 声は控えめだったが、芯のある響きがあった。

「陛下とノクシアル候は……君のことを高く評価しておられるようだった」

 感情を読み取らせないような抑えた声。

「……そう見えただけかもな」

 ウサマは視線を地図に向けたまま、肩をすくめる。

「兄君の時も思ったが、……君たちは見せ方を意識しているわけじゃないのに、どこか人の目を引く」

(それが、亡国の、王族の血か……)

 エリクスは地図の東部を指先でなぞった。

「うーん、……兄さんは、結構目立つし、昔からそういうとこ、あった。でも、俺は違う。……ただ、ここまで来たってだけだよ」

「ここまで来るのが、どれほどのことか……君自身がわかっていない気もするが」

(十五歳で、ここまで……)

 それは小さな呟きだった。

 ウサマが、ちらと横を向いた。その視線の先に立っていたのは、自分より少し背の高い青年。整った黒髪に、涼しげな蒼い瞳。けれどその瞳は、どこか眠れない夜のような色をしていた。

「……王の息子でも、遠く見える場所ってあるのか?」

「ある。むしろ、私の立場では()()()()()()()()()()の方が多い」

 皮肉でもなく、ただ事実を言う口ぶりだった。

()()()()()()()()()()って?」

 ウサマは素直に問いかけた。

「……そうだな、例えば……権力を守るために見ないふりをしている真実……とか、王という仮面の下にある、人としての本音、とか」

 ウサマは黙って地図を見たまま、ぽつりとつぶやく。

「人としての本音、か」

 女王になったら、エルセラもそうなってしまうのだろうか?

「でも……俺の母さんも、父さんも、俺にはあんまり本音で、深い話をしてこなかった。多分、兄さんには話してたんだと思うけど」

 その言葉に、エリクスが小さく反応する。

「……それは、私も同じだ」

(父上の言葉に、父上の声はない。……ただの玉座の音だ)

 二人の間に、再び短い沈黙が落ちた。

 地図の上を指先でなぞっていたエリクスが、不意に口を開く。

「君は……父君のことをどう思っている?」

 その問いに、ウサマはわずかに眉を動かした。

「どうって……」

 しばらく言葉を探してから、少しだけ笑みを浮かべる。

「俺にとっては、対等ではなくて、常に上にいる人、かな。でも、母さんのことをすごく大事にしてるってのは、子どもの俺でも分かってた。でも、いつもどこか遠く見てた」

「遠く?」

「……誰にも言えないことを、ずっと抱えてるような目をしてた。でも、それを、俺には何も話してくれない」

 エリクスの目が、少しだけ細められる。

「……そうか。多分、それは君の父君だけじゃないな」

 ウサマは横目で彼を見た。どこか、揺れる光のようなものがその横顔に見えた気がした。

「君の父さんも?」

「似てるよ、きっと。……私が何を望んでも、何を問おうとしても、父上は決してそこを見せようとはしなかった。いつも王としての答えしか返ってこない」

「それは……きついよな」

「……そうだな。でも、慣れた。いや、慣れたふりをしていただけかもしれないけどな」

 二人は再び地図に目を落とす。

 入り組んだ国境線の間に、灰色に塗られた小さな緩衝地帯があった。

「……ここだけ、なんでグレー?」

 ウサマが指したのは、ヴァロニアの北東部にある、名もない集落の点在する一帯だった。

 エリクスが目を落とし、小さく答える。

「元ガイアール領。そこは、どこにも属していない。ヴァロニアとシーランド、どちらの国にも扱いきれない、争いの名残の地だ」

(正しく、王族が見て見ぬふりをしている、見えないものの象徴だな……)

「ふうん……どこにも属していない、か。俺の育ったオス・ローも、そんな感じだった」

「聖地?」

「うん。誰かの領土じゃなくて、みんなが黙って集まってくる場所なんだ。名乗る必要も、名を背負う必要もなくて……でも、だからこそ、自分が何者かは、ずっとわからない」

 エリクスは、思わず息を飲んだ。

 名を持つことで、縛られてきた者。

 名を持たないことで、彷徨ってきた者。

 まったく逆の出自にありながら、奇妙な共通点が見えてくる。

「……君は、名がないことで、自由か?」

「……ううん。俺は、むしろ、どこかに繋がりたいって、ずっと思ってるかも」

 ウサマの声は静かだったが、その奥には確かな想いがあった。

「でも、最近ようやく気付いたんだ。俺には名前がないんじゃなくて、自分で選んだり、決めてなかったんだって」

 その言葉に、エリクスはかすかに笑った。

(……自分の名前に、そんな風に向き合ったことがあっただろうか。私はただ、与えられたものとして名前を受け入れてきた。拒むことなど考えたこともないまま)

 二人はしばらく、地図の前に並んで立っていた。

 名を巡る問いは、まだ答えが出ていない。

 エリクスはふと息を吐いた。

「さっき、君が、名は与えられるものではなく、選ぶものだと言った時……少し、羨ましくなった」

 その視線はまっすぐで、言葉を飾っていなかった。

(……もし選べたなら、私はエリクスになっていただろうか)

 ウサマは首をかしげるように言った。

「王子なのに?」

「王子だから、なのかもしれない。……私は、王太子(エリクス)として以外、生きたことがない」

 その一言には、どこか置いてきぼりにされた少年の影があった。

 しばしの沈黙が落ちる。

 ウサマは壁の地図を見上げたまま、小さく笑った。

「……俺は、王の息子って聞いて、少しだけ羨ましいと思ってた」

「それは……、嘘だな」

(亡国王族の二世なのに、君はその名を選ばなかった)

 エリクスの長い睫毛の奥に、静かに揺れる蒼が見えた。

「なんだよ、人の心が読めるのか?」

 ウサマの声には悪びれた様子はなかった。

「でも、選べない名前ってやつが、どれだけ重いのか……さっき、少しだけわかった気がした」

 エリクスはその言葉に目を伏せ、かすかに唇をゆるめた。

「……ありがとう。……なんだろうな……こういう話を、自分がしていることに驚いている」

「俺も、こういう話……親ともしたことないよ。結構苦手なんだけど、話せてよかった」

 二人の言葉の間には、まだ探り合う余白が残っていた。

 だがそれは、不信ではなく、これからをつなぐための距離だった。

 王宮の奥で交わされた、まだ名を持たぬ者と名を背負う者の、ささやかな交差だった。



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