第50話 彷徨と再会の間で
モレス港を出る船に、少年の姿が紛れ込んでいた。
それは、港に積まれた袋や木箱を、黙々と運ぶ手伝いをしていた者の一人だ。
肩に小麦粉の袋を担ぎ、甲板の端で船員たちの怒号と笑いに交じっていた彼は、誰よりも目立たず、けれど誰よりも真剣な顔をしていた。
――ウサマだった。
名を問われることもなく、報酬も約束されていなかった。
ただ「荷物を運べば船に乗せてやるぞ」と声をかけられたその瞬間から、彼は働き、船に乗せてもらえた。
船は三晩かけて冬の海を渡り、ヴァロニア側の港町へとたどり着いた。
朝焼けの中、ウサマは船から降り、背中に小さな包みだけを背負って歩き出す。
ヴァロニアの空気は少しだけ湿っていて、不思議と懐かしい匂いがした。
舗装の整った石畳を、足早に歩く。
港町を出て野宿を何回か繰返したころ、ようやく大きな街に辿り着いた。
――今回は、ノクシアルの名を借りる。
すると、関所もすぐに通り抜けられた。
そして、やっぱり、関所の役人の心からは(……今の、ルーク卿、だよな?)と聞こえてきた。
大通りを抜け、運河沿いを辿り、やがて城下から少し離れた場所に屋敷が見えてきた。
オス・ローに変える前に、名を借りたお礼と、挨拶をしていこうと思っていた。
ノクシアル邸の門の前に立つと、門番が訝しげに眉を寄せた。
だが、「以前、侯爵様に助けてもらった者だ」と言うと、門番は思い出したように頷いた。
「……しばらくお待ちを。中に通します」
重たい門が開く。庭の奥に、白い館の影が見えた。
玄関の扉が開かれたとき、ウサマは少しだけ肩に力が入るのを感じた。
まっすぐに通された応接室の扉の前。
その扉が開いたのは、それからまもなくのことだった。
中から現れた男――ホープ・ノクシアルが、扉口で一瞬立ち止まる。
視線が、深く射抜くようにウサマに注がれる。
「……ウサマ、君か」
その低い声に、ウサマは黙って頭を下げた。
「……また、来ました」
ホープは部屋の奥へと歩を進めると、椅子を指し示した。
「座ってくれ。何があったのか、聞かせてもらえるかな」
紅茶が注がれ、湯気の香りがふたりの間に漂う。
ホープの視線は、ふとウサマの右頬にとどまった。
「……その傷は、どうした?」
問いに気づき、ウサマは無意識に頬へ手をやる。
「……向こうで、ちょっと」
そう答える声は淡々としていたが、目だけをわずかに逸らす。
「一人で来たのか?」
その問いに、ウサマは少し戸惑いながら頷いた。
「はい」
ホープの眉がわずかに動く。
(……まさか、ノアたちと会ってないのか?)
その心の声が、ウサマの胸をかすめた。
「……そうか。アサドと、それから、ぼくの息子と一緒に戻ってくると思っていたんだが」
ウサマは目を上げる。
「……え? 兄さんが? ここに来たんですか?」
「……と言うことは、あの二人とは、会えなかったんだな。アサド……彼は『ノア』と名乗っていたが、ここに立ち寄り、君を探していると話していた。そして、ぼくの息子と一緒に、君を探しにシーランドへ行ったんだ」
ホープは言葉を選ぶようにゆっくりと話したが、その内容は、ウサマには衝撃だった。
アサドが、自分を探しに、オス・ローから追ってきた? あの優等生の見本みたいなアサドが?
「……そんな……知らなかった……」
ウサマは椅子から立ち上がった。
焦りが、言葉より先に身体を突き動かす。
「じゃあ、俺……港へ行かないと。すぐに戻らないと――」
「待て、ウサマ」
ホープの声が、低く落ち着いていた。
けれど、その響きにはしっかりとした力があった。
ウサマは戸惑ったように、動きを止める。
「もう、シーランドの港はもう凍りはじめている。厳冬の終わりまで、大型船は出ない。……少なくとも半月は無理だ」
その言葉に、ウサマは目を見開いた。
「……じゃあ、もう一回、歩いてでも!」
出て行こうとするウサマを、ホープは追いかけて肩をつかんだ。
「落ち着け。……焦る気持ちはわかる。だが今の君がすべきことは、無理を押してシーランドに戻ることじゃない。君と同じように、向こう側も足止めされているはずだ」
ホープはウサマの目をしっかりと見て言った。
「ここに、しばらく滞在していきなさい。船が出るその日まで。いや、それだけじゃない」
ウサマは、ホープの言葉に動きを止めた。
「君にも、話すべきことがある。君の兄が何を語ったか、君が知らない家族のこと、君自身の血にまつわることも」
(……今なら言える。いや、言わなければならない)
ウサマは、目を伏せたまま頷いた。
これから語られるのは、聞く覚悟を試される話だと、感じていた。
ホープは、使用人を呼び小さな包みを持ってこさせた。
布に包まれたそれを開くと、そこには革の鞘に収められた短剣があった。
「覚えているかい? 君が前に泊まった時に、これを部屋に忘れていったんだ」
「あっ……」
ウサマは、思わず身を乗り出した。
「それ、兄さん……いや、元は母さんの……」
「そう。……この剣の中に、紙が挟まっていたんだ。アサドが、君のために用意していた道しるべだった。君にそれを渡そうとして、この短剣の鞘の中に紙を忍ばせていた」
ホープは視線を下げ、やや柔らかな口調で続けた。
「だけど、君は気付かなかった。……そのことを、アサドはとても悔やんでいたよ。自分のやり方が、弟には届かなかったと」
しばしの沈黙が落ちる。
ウサマは、指先で鞘の焼き印をなぞった。
それが、母から渡され、兄から託され、気付かぬうちに手放していたものだということが、今ようやく、重さとなって指に伝わってきた。
「……俺、全部、見えてたはずなのに。……見ようと、しなかったんだ」
その声は、自嘲と悔しさが混ざっていた。
ホープは、短剣をウサマから取り上げ、包みに戻した。
「これは、まだ、ぼくが預かっておく」
ウサマは怒られた子どものように落ち込んだ。
しかし、ホープの声音は戒めのようだったが、心の中は違うようだ。
(これは、アサドと二人で、取りに来た時に返そう)
ホープは目を細め、少しだけ表情を緩めた。
「だが、君は『運』が良い。この道しるべがなくても、ぼくと出会えたんだ」
ホープとウサマは、もう一度テーブルを挟んで向かい合った。
静かな間のあと、ホープが口を開いた。
「……改めて話そう。アサドとぼくは、七年前、ぼくが聖地に行った時に出会ったんだ。その時に、ここの場所を彼に伝えた」
ウサマは、息を潜めるように聞いていた。
「そして、アサドは、今回、君がここに寄り、母の真実を知るだろうと。そう仕向けたようだ」
「……兄さんが……」
「アサドは賢い青年だな」
「……兄さんは、俺とは違うんで」
「君が賢くないと言っているわけではないよ。でも、彼の思惑に流されず、自分の意志で歩く君も、ぼくは素晴らしいと思っているよ」
ウサマは、褒められることに慣れておらず、少しうつむいた。
「ぼくの息子、ルークが、君とよく似ていると言うのは覚えているかい? ぼくが君を最初に見た時、そう感じたと話した」
ウサマは小さく頷いた。
「……目の色と、雰囲気以外、似てるって」
「うん。顔立ちもな。雰囲気は違うが……人は、似る。血が繋がっていれば、なおさら」
ウサマの眉が動いた。
言葉の意味を追いかけるように、そっと問い返す。
「え? ……血が、繋がっていれば?」
ホープは、カップを置いた。
そして真っ直ぐにウサマの目を見た。
(……ウサマの目は、ジェードによく似ている)
ホープは心のうちにそう呟きながら、言葉を選ぶように続けた。
「君の母――アデル。君がそう呼んでいたその女性は、昔はジェードと言う名前だった」
ウサマの喉が、ごくりと鳴る。
最初は、政庁で女の評議長の口から聞いた名前。そして、魔女の村でも、みんなが母をジェードと呼んでいた。
そして、魔女ビビが言っていたことを思い出す。
「……母さんは、もしかして、ヴァロニア人なんですか?」
「ああ。そして、ジェードは、ぼくの双子の姉だ」
時間が止まったような沈黙。
ウサマの瞳が揺れ、呼吸がわずかに乱れる。
「……双子の姉……? え? 母さんが? ホープ様の……?」
「つまり、君はぼくの甥になる」
あまりに淡々と語られた事実に、ウサマはしばらく言葉を失った。
やがて、かすれた声がこぼれる。
「……じゃあ……最初から、知ってて……?」
ホープは静かに首を振る。
「いや、確信を持ったのは、君が去った後だ。君の持っていたあの短剣――それに見覚えがあった」
「……母さんの短剣に……?」
「そうだ。そして、アサドが鞘に仕込んだ紙には、ぼくの名前と邸の場所が書いてあった。君は知らないまま旅を続けていたけどね。つまり、我々の血縁関係は、アサドだけが知っていたんだよ。七年前から、ずっと」
ウサマは視線を落とし、アサドの苦悩を想った。きっと母にも言えずに、ひとりで抱えてきたのだろう。
やがて、ホープが姿勢を正し、視線をウサマに向け直した。
「……さて、ウサマ。君を迎えた以上、ぼくにはもう一つ果たさねばならない約束がある」
「もう一つ……?」
「ヴァロニア王ギリアン陛下に、こう申し上げた。君が現れたときは、すぐに王宮へ案内すると。……君の身柄は、もはや王国としても見過ごせるものではない」
ウサマは、目を見開いた。
「……ヴァロニアの王様に? なんで?」
「君が何者であるかを、君自身が知るためでもある。……隠すのではなく、正面から差し出す機会を、君に与えたい」
ホープは、言葉を継ぐ。
「……ジェードの話はしたが、君の父――ハリーファについても言っておこう。ぼくは彼に会ったことはないんだ」
「……そうですか」
父ハリーファが神魔で、その母が魔女のばーちゃんであることは知った。だが、神魔であるという以外は、ただの一人の父親だ。間違いなく、自分の父。
「だが、君と君の兄の姿を見て、血筋と言うのは……それがどれほど重い意味を持つのか、ようやく解ってきた気がするんだ」
その言葉は、断定ではなかった。
けれど、誠実で、どこか優しかった。
ホープは立ち上がり、ウサマに手を差し伸べた。
「……これから王宮へ向かう。恐れる必要はない。君は、名を持って、歩いてきたんだ」
ウサマは、その手を見つめ、そして握った。
今度は父の話を聞く時だ。
兄が託した道と、今、自分が歩き出す道が――静かに、交わりはじめていた。




