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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第1章 迷子の黒猫

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第5話 名を捨てて、名を得る

 聖地オス・ローの一角にある、小さな石造りの家。

 小さな井戸と薬草棚のある土間、木枠の窓から差す月明かり。

 この家には、三人の兄妹と、彼らを見守る数人の大人たちが共に暮らしていた。


 火が落ちた土間は、ゆるやかな闇に包まれていた。

 聖地の夜は冬のように冷えるので、厨房の残り火がそのまま残されている。

 アサドが机で記録帳をまとめていたとき、背後から足音が近づいた。

 ふと振り返ると、ウサマが立っていた。

「……兄さん、ちょっといい?」

「うん? どうした」

 自分とは違う毛色の兄だ。父親と同じ、金色の髪と翠の瞳。顔も似てる。そして、性格と頭が良い。

 二つ年上で、常に先を行ってるけど、最近やっと背丈だけは追いついてきた。

 今日、政庁であったことを、兄さんに話すべきだろうか……。

 他人の心の声が、自分に流れ込んでくることを。

 でも、みんな聞こえるわけじゃない。

 変な現象だ……。これが何なのか、まだ分からない。

 でも確かに、壁の向こうの誰かの内側を、聞いてしまったのは間違いない。しかも、結構やばい感じの話だった。それに、父さんと母さんも絡んでいる予感がする。

 ウサマは不安を隠した。

「えっと、父さんと母さん……いつ帰ってくるんだろうなって、思って……」

 ウサマの言葉に、アサドは一度、視線を伏せた。

 アサドの心から、声は何も聞こえてこない。

「……多分、もうすぐだよ。……そう言ってたから」

 アサドの声が聞こえないことに、ウサマはほんの少し安堵した。

 でも、それは家族の心すら、届かない場所に自分がいるというようにも感じられた。

「もうすぐって、二年も前から言ってるだろ……」

 その言葉に、静かな部屋に重たい空気が漂いはじめる。

 こんなことが言いたいわけじゃなかったのに、不安と不満で口が勝手に動く。

「兄さん、本当は知ってるんだろ? 何か……母さんのこと、父さんのこと」

「……何も、知らない」

「ほんとに?」

「本当だ」

 ウサマの瞳が揺れた。

 アサドはそう言うが、自分には知らされていないことがあるはずだ。

「じゃあ、母さんの名前が……ジェードっていうのも?」

 アサドの肩が、わずかに動いた。

「……どこで、それを?」

「政庁で、今日の会議に来てた誰かが言ってた」

 アサドは黙ったまま、視線を伏せた。

「知ってたんだろ。兄さんは。父さんから聞いてたんだろ?」

「……言うなって、言われたんだ。母さんを守るために」

「じゃあ、なんで俺には言っちゃダメだった!? 俺だけ、そうやって、子ども扱いしてたんだろ!?」

「そうじゃない」

 アサドの声は低く、静かだった。

「……でも、僕は……母さんのことを守るって、父さんと約束したから」

「俺だって母さんを守れる!」

 ウサマの声が跳ねた。

 そのときだった。奥の部屋から、サライが出てきた。

「……やめてよ、お兄ちゃんたち……」

 サライが二人の仲裁に入る。しかし、妹はアサドの方へ行き、抱き着いてすすり泣き始めた。

 アサドは困った顔をしながらも、妹を優しく抱きしめ、「喧嘩じゃないから大丈夫だよ」と謝りながら慰める。

 並ぶと、この二人は髪の色も、毛質までそっくりだ。父と同じ、金の髪と翠の瞳。

 その瞬間、ウサマの中で、何かが弾けた。

「そうだよな……兄さんは、金髪で翠の目で、父さんに似てるって、みんなに言われて……。サライは妹で、小さくて可愛くて、守られて……俺だけ……」

 ウサマは声を詰まらせ、ぎゅっと拳を握った。

「俺だけ、黒髪で、黒い目で……誰にも似てるって言われたこと、ないんだよ……」

 アサドが何か言おうとしたが、ウサマは遮った。

「兄さんは、知らなかったろ。俺が散々あちこちで、兄妹と似てないって笑われたこと……!」

 アサドは痛みを堪えるように、唇を結んだ。

「……ああ、そうだよな。兄さんは母さんと約束してて、サライは泣いたら誰かに守られて……じゃあ、俺は? 俺は、どこにいればよかったんだよ」

 アサドがゆっくり立ち上がった。

「ウサマ、今そういう話じゃないだろ」

「じゃあどういう話なんだよ!!」

 机を叩きそうな勢いで叫び、ウサマは肩で息をしながら、兄を睨んだ。

「もう……いい。自分で探す」

「ウサマ……!」

 振り返ったその背中は、夕闇の中へ消えていった。

 アサドは何も言えず、立ち尽くしていた。

 その夜、ウサマは、誰もいない広場の石の陰で、ひとりしゃがみ込み、声を殺して泣いた。

 拳を握り、唇を噛み、あふれるものを誰にも見せないように、ただうずくまっていた。

(母さん……どこにいるんだよ……)

 誰に問いかけても、もう返事はなかった。

 その日は新月の夜で、空には満天の星が煌いていた。




 夜が明ける少し前。

 空がまだ群青色をしているうちに、ウサマは家を出ることに決めた。

 土間に残る灰の匂いと、石壁を撫でる風の音だけが、今は頼りだった。

 誰も起きていない。

 ウサマは戸を静かに開け、こっそりと家の中へ入った。

 広場で泣いたあとの目はまだ腫れていて、喉もひりついていた。

 でも、もう誰にも見られないから、平気だった。

 奥の物置の石床をそっと持ち上げ、板の下に隠していた小さな袋を取り出す。

 あらかじめ用意しておいた、パンと保存肉、薬草、水袋。

 革の紐で結ばれた布袋は、肩にかけると少し重い。

 でも、それがちょうどよかった。

 最後に、そっと自分の寝台の上に置かれていた小包に気づく。

 開けると、そこには見覚えのある短剣があった。革の鞘に包まれている。

(……いつの間に)

 これは、二年前に母親がアサドに託したものだ。自分には何もなかったのに、こういうところに、次男と長男との差を感じてまた苦しくなる。

 それをこうして、兄貴面して渡してくるところが、アサドは鈍感なのだ。ここまでくるとおかしく思えた。

 中を確かめるのは、やめた。開けたら、たぶん泣きそうだ。

 そっと鞘ごと布袋に入れ、扉の方へ向かった。

 土間の隅に、サライが毛布にくるまって眠っている。金髪の髪が光に透けて、小さく動く肩が胸に刺さる。

 ウサマは、そっとその額に手を置いた。

(……ごめん)

 声には出さなかった。

 けれどその手のひらには、確かに何かを残していた。

 アサドの部屋の扉は、固く閉じている。

 開けることはなかった。何かを言えば、きっと止められると思った。

 止められたら、もう行けない気がした。

 まだ空は暗い。東の空にわずかに群青の帯が現れはじめたころ、ウサマは家の扉を開けた。




 街は静かだった。

 石畳を踏む音すら、自分の足音ではないように感じる。

 門が見えてきたとき、一人の男が立っていた。

 門柱に片肩を預け、煙草の煙をくゆらせる黒い影。

 ウサマは、すぐに誰かわかった。

「お前、朝飯前に出かけるなんて、良いご身分だな」

「……ソルおじさん」

 眼帯をつけた右目、無精髭、土と油の匂い。

 気さくなふりをしているが、何かをやるときのこの男の目は、恐ろしいほど鋭い。絶対に敵に回したらダメな人だ。

 この人が、聖地を守るために人を殺せると、ウサマは知っていた。

「何も言わねぇってことは、見逃していいってことだよな?」

 ソルは煙を吐いてから、近づいてきた。

「ヴァロニアに入るなら、『レオン』と名乗れ。そうすりゃ、死体袋には入らずにすむかもしれん」

「……なんでそんな名前?」

「ウサマと同じで、『獅子』って意味だ。お前に似合ってるよ。ちょっとだけ、真っ直ぐすぎるところとかもな」

 皮肉とも励ましともつかない口調だった。

 けれど、ウサマはうなずいた。

「……レオン、か。気に入ったよ。ウサマって古語だろ。()()()()()()は良いって言ってくれたけど、本当はださいってずっと思ってたんだ」

 その言葉に、ソルはふっと鼻で笑った。おじさんの心の声は聞こえないので、何がおかしかったのかはわからない。

「言っとくが、あの国の騎士は剣より言葉のほうが鋭い。お前みたいな青二才が相手するには、ちょっとだけ『運』が必要だ」

「『運』なら……昔からある方だと、思う」

 ソルはもう一度笑い、それ以上何も言わなかった。


 門がきしむ音がした。

 外の世界へと続く道。風が頬を打ち、空がゆっくりと明けていく。

 聞こえる声があった。

 そして、聞きたい声が、まだどこかにある気がした。

 その声を探しに――

 ウサマは、『レオン』として、静かに旅立った。


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