第5話 名を捨てて、名を得る
聖地オス・ローの一角にある、小さな石造りの家。
小さな井戸と薬草棚のある土間、木枠の窓から差す月明かり。
この家には、三人の兄妹と、彼らを見守る数人の大人たちが共に暮らしていた。
火が落ちた土間は、ゆるやかな闇に包まれていた。
聖地の夜は冬のように冷えるので、厨房の残り火がそのまま残されている。
アサドが机で記録帳をまとめていたとき、背後から足音が近づいた。
ふと振り返ると、ウサマが立っていた。
「……兄さん、ちょっといい?」
「うん? どうした」
自分とは違う毛色の兄だ。父親と同じ、金色の髪と翠の瞳。顔も似てる。そして、性格と頭が良い。
二つ年上で、常に先を行ってるけど、最近やっと背丈だけは追いついてきた。
今日、政庁であったことを、兄さんに話すべきだろうか……。
他人の心の声が、自分に流れ込んでくることを。
でも、みんな聞こえるわけじゃない。
変な現象だ……。これが何なのか、まだ分からない。
でも確かに、壁の向こうの誰かの内側を、聞いてしまったのは間違いない。しかも、結構やばい感じの話だった。それに、父さんと母さんも絡んでいる予感がする。
ウサマは不安を隠した。
「えっと、父さんと母さん……いつ帰ってくるんだろうなって、思って……」
ウサマの言葉に、アサドは一度、視線を伏せた。
アサドの心から、声は何も聞こえてこない。
「……多分、もうすぐだよ。……そう言ってたから」
アサドの声が聞こえないことに、ウサマはほんの少し安堵した。
でも、それは家族の心すら、届かない場所に自分がいるというようにも感じられた。
「もうすぐって、二年も前から言ってるだろ……」
その言葉に、静かな部屋に重たい空気が漂いはじめる。
こんなことが言いたいわけじゃなかったのに、不安と不満で口が勝手に動く。
「兄さん、本当は知ってるんだろ? 何か……母さんのこと、父さんのこと」
「……何も、知らない」
「ほんとに?」
「本当だ」
ウサマの瞳が揺れた。
アサドはそう言うが、自分には知らされていないことがあるはずだ。
「じゃあ、母さんの名前が……ジェードっていうのも?」
アサドの肩が、わずかに動いた。
「……どこで、それを?」
「政庁で、今日の会議に来てた誰かが言ってた」
アサドは黙ったまま、視線を伏せた。
「知ってたんだろ。兄さんは。父さんから聞いてたんだろ?」
「……言うなって、言われたんだ。母さんを守るために」
「じゃあ、なんで俺には言っちゃダメだった!? 俺だけ、そうやって、子ども扱いしてたんだろ!?」
「そうじゃない」
アサドの声は低く、静かだった。
「……でも、僕は……母さんのことを守るって、父さんと約束したから」
「俺だって母さんを守れる!」
ウサマの声が跳ねた。
そのときだった。奥の部屋から、サライが出てきた。
「……やめてよ、お兄ちゃんたち……」
サライが二人の仲裁に入る。しかし、妹はアサドの方へ行き、抱き着いてすすり泣き始めた。
アサドは困った顔をしながらも、妹を優しく抱きしめ、「喧嘩じゃないから大丈夫だよ」と謝りながら慰める。
並ぶと、この二人は髪の色も、毛質までそっくりだ。父と同じ、金の髪と翠の瞳。
その瞬間、ウサマの中で、何かが弾けた。
「そうだよな……兄さんは、金髪で翠の目で、父さんに似てるって、みんなに言われて……。サライは妹で、小さくて可愛くて、守られて……俺だけ……」
ウサマは声を詰まらせ、ぎゅっと拳を握った。
「俺だけ、黒髪で、黒い目で……誰にも似てるって言われたこと、ないんだよ……」
アサドが何か言おうとしたが、ウサマは遮った。
「兄さんは、知らなかったろ。俺が散々あちこちで、兄妹と似てないって笑われたこと……!」
アサドは痛みを堪えるように、唇を結んだ。
「……ああ、そうだよな。兄さんは母さんと約束してて、サライは泣いたら誰かに守られて……じゃあ、俺は? 俺は、どこにいればよかったんだよ」
アサドがゆっくり立ち上がった。
「ウサマ、今そういう話じゃないだろ」
「じゃあどういう話なんだよ!!」
机を叩きそうな勢いで叫び、ウサマは肩で息をしながら、兄を睨んだ。
「もう……いい。自分で探す」
「ウサマ……!」
振り返ったその背中は、夕闇の中へ消えていった。
アサドは何も言えず、立ち尽くしていた。
その夜、ウサマは、誰もいない広場の石の陰で、ひとりしゃがみ込み、声を殺して泣いた。
拳を握り、唇を噛み、あふれるものを誰にも見せないように、ただうずくまっていた。
(母さん……どこにいるんだよ……)
誰に問いかけても、もう返事はなかった。
その日は新月の夜で、空には満天の星が煌いていた。
夜が明ける少し前。
空がまだ群青色をしているうちに、ウサマは家を出ることに決めた。
土間に残る灰の匂いと、石壁を撫でる風の音だけが、今は頼りだった。
誰も起きていない。
ウサマは戸を静かに開け、こっそりと家の中へ入った。
広場で泣いたあとの目はまだ腫れていて、喉もひりついていた。
でも、もう誰にも見られないから、平気だった。
奥の物置の石床をそっと持ち上げ、板の下に隠していた小さな袋を取り出す。
あらかじめ用意しておいた、パンと保存肉、薬草、水袋。
革の紐で結ばれた布袋は、肩にかけると少し重い。
でも、それがちょうどよかった。
最後に、そっと自分の寝台の上に置かれていた小包に気づく。
開けると、そこには見覚えのある短剣があった。革の鞘に包まれている。
(……いつの間に)
これは、二年前に母親がアサドに託したものだ。自分には何もなかったのに、こういうところに、次男と長男との差を感じてまた苦しくなる。
それをこうして、兄貴面して渡してくるところが、アサドは鈍感なのだ。ここまでくるとおかしく思えた。
中を確かめるのは、やめた。開けたら、たぶん泣きそうだ。
そっと鞘ごと布袋に入れ、扉の方へ向かった。
土間の隅に、サライが毛布にくるまって眠っている。金髪の髪が光に透けて、小さく動く肩が胸に刺さる。
ウサマは、そっとその額に手を置いた。
(……ごめん)
声には出さなかった。
けれどその手のひらには、確かに何かを残していた。
アサドの部屋の扉は、固く閉じている。
開けることはなかった。何かを言えば、きっと止められると思った。
止められたら、もう行けない気がした。
まだ空は暗い。東の空にわずかに群青の帯が現れはじめたころ、ウサマは家の扉を開けた。
街は静かだった。
石畳を踏む音すら、自分の足音ではないように感じる。
門が見えてきたとき、一人の男が立っていた。
門柱に片肩を預け、煙草の煙をくゆらせる黒い影。
ウサマは、すぐに誰かわかった。
「お前、朝飯前に出かけるなんて、良いご身分だな」
「……ソルおじさん」
眼帯をつけた右目、無精髭、土と油の匂い。
気さくなふりをしているが、何かをやるときのこの男の目は、恐ろしいほど鋭い。絶対に敵に回したらダメな人だ。
この人が、聖地を守るために人を殺せると、ウサマは知っていた。
「何も言わねぇってことは、見逃していいってことだよな?」
ソルは煙を吐いてから、近づいてきた。
「ヴァロニアに入るなら、『レオン』と名乗れ。そうすりゃ、死体袋には入らずにすむかもしれん」
「……なんでそんな名前?」
「ウサマと同じで、『獅子』って意味だ。お前に似合ってるよ。ちょっとだけ、真っ直ぐすぎるところとかもな」
皮肉とも励ましともつかない口調だった。
けれど、ウサマはうなずいた。
「……レオン、か。気に入ったよ。ウサマって古語だろ。あのおばさんは良いって言ってくれたけど、本当はださいってずっと思ってたんだ」
その言葉に、ソルはふっと鼻で笑った。おじさんの心の声は聞こえないので、何がおかしかったのかはわからない。
「言っとくが、あの国の騎士は剣より言葉のほうが鋭い。お前みたいな青二才が相手するには、ちょっとだけ『運』が必要だ」
「『運』なら……昔からある方だと、思う」
ソルはもう一度笑い、それ以上何も言わなかった。
門がきしむ音がした。
外の世界へと続く道。風が頬を打ち、空がゆっくりと明けていく。
聞こえる声があった。
そして、聞きたい声が、まだどこかにある気がした。
その声を探しに――
ウサマは、『レオン』として、静かに旅立った。




