表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第6章 風の行方

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/80

第49話 風の向きを読む者

《断章Ⅻ:時と行き先》

焦る者は風を追う。

待つ者は、風の向きを読む。

汝の歩みを止めるものは、道ではなく、心である。

------------------------------------------------------------



 日が落ち始め、波止場の風が、少し冷たさを増していた。

 船着き場では、縄を締め直す水夫たちの声と、積荷のざわめきがまだ続いていた。

「……あの船に乗ったのが、ウサマだったとしたら」

 遠くなった船影を見つめながら、ノアがぽつりと呟く。

 その横顔はすでに、海の向こうを見ていた。

「追えるなら、今すぐにでも……」

 その焦りが言葉に滲む。

 真冬でなければ、たとえ間違いでも、海に飛び込んでいた。

 だが、カイは港の係員に声をかけていた。

 数枚の銅貨を渡し、紙束の帳面を見せられている。

「……南行きの定期便は、さっきのが最後だったって」

 戻ってきたカイが、静かに告げる。

「シーランド側の港が、もう凍り始めてるらしい。次の便は……半月先だって」

「……半月」

 ノアは、その言葉を繰り返し、唇を引き結んだ。

 目の奥に、届かない距離への悔しさが滲んでいた。まだ船は視界の中にあると言うのに。

「一旦、戻ろう。追うにしても、落ち着いて、どうするか考えよう」

 カイが穏やかに言う。

 ノアはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

 ふたりは港を背に、ランタンの灯りが揺れる夜の道へと歩き出した。





 モレスの街の灯が、金と琥珀の光を振りまく。

 巡礼祭の夜、街の中は酔いと音楽と踊りに満ちている。

 ノアとカイは、屋台と行列の間を縫うようにして、宿への帰路についていた。

 片手に林檎、もう片方に明かり取りのランタン。ゆっくり歩きながら、ふたりは言葉少なに街の声を聞いていた。


 途中、小さな辻広場で、人だかりができていた。

 粗末な机を台に、赤い外套の若い演説者が語っている。

「……いいか、よく聞けよ! あの人たち――王族も貴族も、白い方々はみんな名で縛る! 誰の血か、誰の家か、それで人の価値を決める! でも俺たちは違う! 選ぶんだ。どこに生まれたかじゃない。どこへ向かうかで、道が決まる!」

 男の背後に掲げられていたのは、手製の旗。

 赤地に、火の形をした紋様が描かれている。

「ふーん、……炎派の、民間演説っぽいな」

 カイが小さく眉をひそめた。

 ノアは黙って聞いていた。

「俺は元は漂民の息子だ。でも、今は自分で言葉を選んでる。誰かが決めた聖典じゃない! 自分の心に書くんだよ!」

 観衆がぱらぱらと拍手を送る。

「……まるで、誰かの言葉の焼き直しみたいだな」

 カイが呟く。あえて名前は言わない。

「……でも、彼は本気で信じてるよ。誰かの言葉を、今度は自分の言葉にしようとしてる」

 ノアの声は静かだった。

 カイには届かないが、男が、その言葉を信じている心が聞こえていたからだ。



 少し歩いた先、教会裏の路地で、別の声が聞こえてきた。

「だからさ、やっぱり秩序ってものがないと困るんだよ」

 革職人風の男が、酒を飲みながら仲間に話している。

「今は誰でも口にするじゃない、自由とか選択とか。でもそれで、家族が壊れたら意味がない」

「うちの坊主がさ、学校で神より思想が上だって言って帰ってきた。誰がそんなこと教えたんだか」

「氷派は……安心できるんだ。誰の子か、誰に仕えてるか、ちゃんと書いてある。そういうのが、あるべきだよ」

 カイが一瞬立ち止まり、ノアに伝えるように目を合わせた。

「……見えてきたな。思想の地上」

 ノアは、黙ってうなずいた。

「この国では、言葉が先に燃えて、後から民が追いかけるんだな」



 宿の角が見えはじめた。

 ふたりは風の冷たさに襟を立てながら、最後の路地を歩いていく。

「炎派は、誰でも変われるって言うけどさ、」

 カイが呟いた。

「氷派は、変えないことが守りになると信じてる」

「両方とも、自分たちが正しいって、正義の名前を欲しがってるんだね……」

 ノアが答える。

 その声は、どこか遠くを見ているようだった。

 『月と書棚亭』の明かりが、暗がりの先に灯っていた。

 その小さな宿は、思想からも喧騒からも逃げられる数少ない場所だった。




*   *   *   *   *




 宿の三階の廊下を歩きながら、ノアはふと口を開いた。

「……さっきの船、ヴァロニアへ向かうんだよね」

「うん。ルザーン港からの航路とは違う、南回りで帰港する航路だと思う」

「じゃあ、ウサマが本当にあの船に乗ってたとしたら……次に会えるのはいつになるんだろう」

 問いかけたノアの声には、焦りとためらいが滲んでいた。

 カイは立ち止まり、小さく息を吐いた。

「さっき、船問屋で聞いたのは、冬の間は、シーランドの港は全て凍る。向こうに着いても、帰りの便が出るのは半月後、下手したら一か月先になるって」

「そんなに……」

 ノアの目が揺れた。

 追いたいという気持ちはあっても、時間の壁があまりにも重たく、冷たい。

 カイは肩を並べて、静かに言った。

「だから、明日、陸路でのルートを調べてみよう」

「……うん」

 ノアはようやく頷いた。



 二人は小さく足音を響かせ、静かな部屋に戻る。

 扉を閉めた瞬間、外の喧騒が魔法のように遠ざかった。

 風に揺れるカーテンの向こうで、巡礼祭の灯はまだ瞬いている。

 だが、部屋の中はランプの灯りだけが静かに揺れていた。

 ノアはテーブルの引き出しから、しわくちゃの布包みを取り出した。

 その中に、今まで集めた断章たち、焦げ跡のついた数枚の紙が収められている。

 片付けようと思ったが、カイが隣に座りながら、そっと声をかけてきた。

「……時間もあるし、それ、ちゃんと読もうよ」


 ノアは頷き、紙片を一枚、ランプの光にかざした。




   《断章Ⅳ:権威への疑問》

   王が正しいのではない。

   正しさが、王であるべきなのだ。




 しばらくふたりは、黙っていた。

「この言葉……さっき、街で聞いた炎派の男が叫んでたことと似てる」

 カイがぽつりと言った。

「でも、あの人は王はいらないって言ってた。この断章は、誰が王であるべきかを問い直してるだけだ」

「そうだよな。……似てるようで、違う」

 ノアは紙をそっと伏せた。

「思想って、火と同じ。誰が灯すか、誰が燃やすかで、ぜんぜん違うものになる」


 ノアは別の断章を取り出し、指で縁をなぞるようにして読んだ。




   《断章Ⅴ:選択》

   生まれは選べない。だが、信じるものは選べる。

   人はその選び方によって、生まれ直すことができる。




 カイは、その言葉をじっと見つめた。その目は、夜のどこか遠くを探していた。

「……ねぇ、ノア。君はどう思う? 本当に、生まれ直せると思う? 宗派のことは抜きにしてさ」

 ノアは答えなかった。

 ただ、手元の紙を両手でそっと包み込むようにして、かすかに微笑んだ。

「うん……、選べるかどうかは……選ぼうとした回数のことかもしれない。一度でも本気で選びたいと思えたなら、それが、変わるってことじゃないかな」

 カイは目を伏せ、まつ毛の影が頬に落ちた。

「じゃあ……僕たち、何度でも、生まれ直せるんだな」


 しばしの沈黙。

 その間、ふたりの間にあったのは、言葉の意味ではなく、誰がその言葉に触れるか、という静かな問いだった。

 ノアは紙束をそっと伏せ、手のひらで覆うようにした。

「……不思議だな。カイが読むと、あたたかく聞こえる。僕は、言葉より、君の声を信じてるのかも」

 カイは少し笑って、視線をランプの火に落とした。

「僕も……ノアといると、選んでいいものなのかなって思えてくる」

 ランプの炎がわずかに揺れ、ふたりの影が壁に滲んだ。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ