第49話 風の向きを読む者
《断章Ⅻ:時と行き先》
焦る者は風を追う。
待つ者は、風の向きを読む。
汝の歩みを止めるものは、道ではなく、心である。
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日が落ち始め、波止場の風が、少し冷たさを増していた。
船着き場では、縄を締め直す水夫たちの声と、積荷のざわめきがまだ続いていた。
「……あの船に乗ったのが、ウサマだったとしたら」
遠くなった船影を見つめながら、ノアがぽつりと呟く。
その横顔はすでに、海の向こうを見ていた。
「追えるなら、今すぐにでも……」
その焦りが言葉に滲む。
真冬でなければ、たとえ間違いでも、海に飛び込んでいた。
だが、カイは港の係員に声をかけていた。
数枚の銅貨を渡し、紙束の帳面を見せられている。
「……南行きの定期便は、さっきのが最後だったって」
戻ってきたカイが、静かに告げる。
「シーランド側の港が、もう凍り始めてるらしい。次の便は……半月先だって」
「……半月」
ノアは、その言葉を繰り返し、唇を引き結んだ。
目の奥に、届かない距離への悔しさが滲んでいた。まだ船は視界の中にあると言うのに。
「一旦、戻ろう。追うにしても、落ち着いて、どうするか考えよう」
カイが穏やかに言う。
ノアはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
ふたりは港を背に、ランタンの灯りが揺れる夜の道へと歩き出した。
モレスの街の灯が、金と琥珀の光を振りまく。
巡礼祭の夜、街の中は酔いと音楽と踊りに満ちている。
ノアとカイは、屋台と行列の間を縫うようにして、宿への帰路についていた。
片手に林檎、もう片方に明かり取りのランタン。ゆっくり歩きながら、ふたりは言葉少なに街の声を聞いていた。
途中、小さな辻広場で、人だかりができていた。
粗末な机を台に、赤い外套の若い演説者が語っている。
「……いいか、よく聞けよ! あの人たち――王族も貴族も、白い方々はみんな名で縛る! 誰の血か、誰の家か、それで人の価値を決める! でも俺たちは違う! 選ぶんだ。どこに生まれたかじゃない。どこへ向かうかで、道が決まる!」
男の背後に掲げられていたのは、手製の旗。
赤地に、火の形をした紋様が描かれている。
「ふーん、……炎派の、民間演説っぽいな」
カイが小さく眉をひそめた。
ノアは黙って聞いていた。
「俺は元は漂民の息子だ。でも、今は自分で言葉を選んでる。誰かが決めた聖典じゃない! 自分の心に書くんだよ!」
観衆がぱらぱらと拍手を送る。
「……まるで、誰かの言葉の焼き直しみたいだな」
カイが呟く。あえて名前は言わない。
「……でも、彼は本気で信じてるよ。誰かの言葉を、今度は自分の言葉にしようとしてる」
ノアの声は静かだった。
カイには届かないが、男が、その言葉を信じている心が聞こえていたからだ。
少し歩いた先、教会裏の路地で、別の声が聞こえてきた。
「だからさ、やっぱり秩序ってものがないと困るんだよ」
革職人風の男が、酒を飲みながら仲間に話している。
「今は誰でも口にするじゃない、自由とか選択とか。でもそれで、家族が壊れたら意味がない」
「うちの坊主がさ、学校で神より思想が上だって言って帰ってきた。誰がそんなこと教えたんだか」
「氷派は……安心できるんだ。誰の子か、誰に仕えてるか、ちゃんと書いてある。そういうのが、あるべきだよ」
カイが一瞬立ち止まり、ノアに伝えるように目を合わせた。
「……見えてきたな。思想の地上」
ノアは、黙ってうなずいた。
「この国では、言葉が先に燃えて、後から民が追いかけるんだな」
宿の角が見えはじめた。
ふたりは風の冷たさに襟を立てながら、最後の路地を歩いていく。
「炎派は、誰でも変われるって言うけどさ、」
カイが呟いた。
「氷派は、変えないことが守りになると信じてる」
「両方とも、自分たちが正しいって、正義の名前を欲しがってるんだね……」
ノアが答える。
その声は、どこか遠くを見ているようだった。
『月と書棚亭』の明かりが、暗がりの先に灯っていた。
その小さな宿は、思想からも喧騒からも逃げられる数少ない場所だった。
* * * * *
宿の三階の廊下を歩きながら、ノアはふと口を開いた。
「……さっきの船、ヴァロニアへ向かうんだよね」
「うん。ルザーン港からの航路とは違う、南回りで帰港する航路だと思う」
「じゃあ、ウサマが本当にあの船に乗ってたとしたら……次に会えるのはいつになるんだろう」
問いかけたノアの声には、焦りとためらいが滲んでいた。
カイは立ち止まり、小さく息を吐いた。
「さっき、船問屋で聞いたのは、冬の間は、シーランドの港は全て凍る。向こうに着いても、帰りの便が出るのは半月後、下手したら一か月先になるって」
「そんなに……」
ノアの目が揺れた。
追いたいという気持ちはあっても、時間の壁があまりにも重たく、冷たい。
カイは肩を並べて、静かに言った。
「だから、明日、陸路でのルートを調べてみよう」
「……うん」
ノアはようやく頷いた。
二人は小さく足音を響かせ、静かな部屋に戻る。
扉を閉めた瞬間、外の喧騒が魔法のように遠ざかった。
風に揺れるカーテンの向こうで、巡礼祭の灯はまだ瞬いている。
だが、部屋の中はランプの灯りだけが静かに揺れていた。
ノアはテーブルの引き出しから、しわくちゃの布包みを取り出した。
その中に、今まで集めた断章たち、焦げ跡のついた数枚の紙が収められている。
片付けようと思ったが、カイが隣に座りながら、そっと声をかけてきた。
「……時間もあるし、それ、ちゃんと読もうよ」
ノアは頷き、紙片を一枚、ランプの光にかざした。
《断章Ⅳ:権威への疑問》
王が正しいのではない。
正しさが、王であるべきなのだ。
しばらくふたりは、黙っていた。
「この言葉……さっき、街で聞いた炎派の男が叫んでたことと似てる」
カイがぽつりと言った。
「でも、あの人は王はいらないって言ってた。この断章は、誰が王であるべきかを問い直してるだけだ」
「そうだよな。……似てるようで、違う」
ノアは紙をそっと伏せた。
「思想って、火と同じ。誰が灯すか、誰が燃やすかで、ぜんぜん違うものになる」
ノアは別の断章を取り出し、指で縁をなぞるようにして読んだ。
《断章Ⅴ:選択》
生まれは選べない。だが、信じるものは選べる。
人はその選び方によって、生まれ直すことができる。
カイは、その言葉をじっと見つめた。その目は、夜のどこか遠くを探していた。
「……ねぇ、ノア。君はどう思う? 本当に、生まれ直せると思う? 宗派のことは抜きにしてさ」
ノアは答えなかった。
ただ、手元の紙を両手でそっと包み込むようにして、かすかに微笑んだ。
「うん……、選べるかどうかは……選ぼうとした回数のことかもしれない。一度でも本気で選びたいと思えたなら、それが、変わるってことじゃないかな」
カイは目を伏せ、まつ毛の影が頬に落ちた。
「じゃあ……僕たち、何度でも、生まれ直せるんだな」
しばしの沈黙。
その間、ふたりの間にあったのは、言葉の意味ではなく、誰がその言葉に触れるか、という静かな問いだった。
ノアは紙束をそっと伏せ、手のひらで覆うようにした。
「……不思議だな。カイが読むと、あたたかく聞こえる。僕は、言葉より、君の声を信じてるのかも」
カイは少し笑って、視線をランプの火に落とした。
「僕も……ノアといると、選んでいいものなのかなって思えてくる」
ランプの炎がわずかに揺れ、ふたりの影が壁に滲んだ。




