第48話 すれ違い
《断章Ⅺ:真実の在処》
耳に届いた言葉は、誰かの影だ。
だが、目に映ったものは、たとえ過ちでも、真実となる。
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祭の鐘が、遠く丘の上の聖堂から幾重にも鳴り響く。
『月と書棚亭』の海の見える三階の部屋では、麻布のカーテンが風にゆるく揺れていた。
街では今日から巡礼祭が始まっている。広場では市が開かれ、劇と舞いが披露され、にぎやかな喧騒が、三階の窓まで微かに聞こえてきた。
「……ごめん。ちょっと……疲れちゃって……」
ベッドに横たわったノアが、額に手を当てたまま、掠れた声で言った。
この街は、広すぎる。そして賑わいすぎている。
ノアの頭の中に、他人の思考が匂いのように染みこんでくる。
子を失った女の祈り。恋人を待つ少年の焦り。
氷も炎も。
市場の熱気と欲望が、言葉になる前に波のように押し寄せる。
言葉にされる前の心の声たちが、ノアの体力を削っていた。
「うん、いいよ。ゆっくり休んでて。何か買ってくるよ。食べたいものとかある?」
カイはベッドのそばに膝をつき、ノアの顔を覗き込んで額に手をあてる。
(熱はなさそうだな……。でも、顔色が良くない……)
心配する心が、真近から伝わってくる。
「……大丈夫、ちょっと休めば、すぐ慣れ……治るから」
「そう? じゃあ、少しだけ、行ってくるよ」
そう言ってカイは立ち上がり、そっと上着を羽織った。
手を振ってから、扉を静かに閉じる。
ノアは閉まった扉を見つめたまま、目を閉じた。
(……この町に、ウサマも来てたらいいのに)
外は陽が傾きかけ、街全体が金色に染まり始めていた。
市場通りには、香辛料と果実の香りが混じり合い、人々の声が高く飛び交っていた。
路地に並ぶ屋台には、葡萄と香辛料と焼き菓子の香りが入り混じっている。
赤いスカーフを巻いた旅の踊り子が、楽師の笛に合わせて足を踏み鳴らしていた。
子どもが笑いながら紙風船を追い、塩の利いた魚の煙が風に乗って流れる。
「……すごいな」
人の波、匂い、音――世界そのものが息づいているようだった。
カイは、手にした小さな籠を見下ろした。
乾燥果実、パン、チーズ。そして、薄緑の林檎。
(一旦、ノアのところに戻ろう)
カイは布袋を抱えた老婆をよけ、炙った魚を売る屋台を横目に歩く。
どこか懐かしい匂いが混じっていた。
その時だった。
「……ウサマ!!」
鋭い声とともに、腕を掴まれた。
まるで、人込みで迷子になった弟を引き戻すような、優しい力で。
「ん?」
カイが驚いて振り返ると、少女だった。
金の髪。蒼とも翠ともつかない瞳。
顔立ちは少し幼く、どこかで会った気もする。
少女は、真剣にこちらを見つめていた。
けれど、その目は、カイの瞳を見た瞬間に曇った。
「あっ……違う……。ごめんなさい……人違いだったみたい」
少女は顔を伏せ、頭を下げると、すぐに踵を返して人波に紛れた。
赤いリボンだけが、雑踏の中にしばらく揺れていた。
カイは呆然と、その名を繰り返した。
「え? ウサマって……」
それは、ノアの探している弟の名。
東大陸では聞きなれない、西大陸の名前のはずだ。
(なんで、この町で……?)
籠を脇に抱えたまま、カイは少女の姿を追って駆け出した。
広場の隅、葡萄棚の下、噴水のまわり――
だが、もう少女の姿はどこにもなかった。
夕陽が路地の向こうを赤く染めている。
笛の音と太鼓の音が、風にのって消えていった。
……まだ帰ってこない。
部屋に一人きりになってから、もうどれほど時間が経っただろう。
ノアはベッドの上で身を起こし、窓の外に目を向けた。
空はすでに群青に沈み始め、鐘の音と太鼓の拍子が遠くから聞こえてくる。
夕暮れの喧騒が、まるで海のように揺れている。
耳を塞いでも、街の声が胸の奥にざわめいた。
楽しげな群衆、焦る商人、酔いどれの告白、そして、誰かの、孤独。
誰もが何かを語り、求め、走っている。
それなのに、自分だけが取り残されたような気がした。
ノアはゆっくりと呼吸を整え、立ち上がった。
(カイ……遅いな……)
自分を気遣って、何か買ってくるだけのはずじゃなかったか。
少し遅すぎる気がしてきた。
氷派の声も聞こえる中、カイに何かあったのではないかと、不安になる。
やっと、この町のうるささにも慣れてきた。
「……探しに行こう」
風が吹き抜ける階段を降り、宿を出ると、夜の市が鮮やかに広がっていた。
露店には灯火が灯り、通りには踊り子と見物人が入り混じっている。
ノアは人混みの中を進みながら、何度もカイの名を心の中で呼んだ。
その時だった。
港の方へ続く坂道の先――
ひとりの青年が荷を担いで歩いている後ろ姿が見えた。
ゆるく波打つ黒髪。端正な後ろ姿。旅に慣れた、あの背中。
向かう先は港の船着き場だ。遠目に貨物を積み込んだ船が見える。
(カイ――!?)
思わず声が漏れた。
「……カイ!!」
人混みの中で叫んだノアの声に、誰も振り返らなかった。
その青年は、真っ直ぐに、誰かと言葉を交わす様子もなく、船のタラップを登っていく。
そして、その黒髪の青年は、そのまま大きな積荷を担いで船の中へ姿を消した。
「……待って……カイ!」
ノアが足を踏み出しかけたそのとき、反対側から駆け寄る声がした。
「ノア!」
振り返ると、カイがいた。
心配そうな顔で、肩で息をしながら駆け寄ってくる。
ノアは、驚きよりも、その姿にほっと息をついた。
「ねぇ、どうしたの? 僕が、君を置いていくわけ、ないだろ」
カイの声を聞いた瞬間、緊張の糸がほどけた。
カイは肩で息をしながら、そっとノアの腕を取った。
「……遅いよ、君……」
ノアの苦笑に、カイもようやく笑みを返した。
「ごめん。それより、もう大丈夫なの?」
「うん。だいぶ、ここの……空気に慣れてきた」
桟橋には潮の香りとざわめきが満ちていた。
港にカンカンと鐘の音が響き、船乗りたちが怒鳴り合う声が飛び交った。
縄を解く者、最後の荷を滑り込ませる者。
何人かの男が、船の側面を手で押しながら舷側に声をかけ、「押せ、押せ! あと少しだ!」と息を合わせていた。
掛け声とともに縄が解かれ、帆が風を孕みながら、船はゆっくりと岸を離れてゆく。
「実は、ちょっと……人混みの中で、不思議な子に会って……その子を追いかけてたんだ」
その言葉に、ノアが目を細めた。
「……君も?」
「え?」
「さっき、君に似た人を見かけたんだ。港の船に積荷を運んでた。でも、君じゃなかった。声をかけても気付かなかったんだ。……あの船だった」
桟橋を離れていった船をノアは指差す。
カイは息を飲んだ。
「僕は、さっき、ウサマを知ってる女の子に会ったんだ。……僕を見て、近づいてきて『ウサマ』って……。でも人違いだって、すぐ謝って消えた」
ノアの目が細くなる。
「じゃあ……」
「船に乗ったのが、本当に、ウサマだったかもしれない」
しばし、二人は黙って船を見つめていた。
波の彼方、帆の影が遠ざかっていく。
もう届かない距離で、それでもノアの心だけが、ウサマを追いかけていた。
「ウサマ、本当に、この街に……来てたのかもしれない」
二人はしばし立ち尽くしたまま、港の向こうに消えていった船の影を見つめていた。




