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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第6章 風の行方

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第48話 すれ違い

《断章Ⅺ:真実の在処》

耳に届いた言葉は、誰かの影だ。

だが、目に映ったものは、たとえ過ちでも、真実となる。

------------------------------------------------------------



 祭の鐘が、遠く丘の上の聖堂から幾重にも鳴り響く。

 『月と書棚亭』の海の見える三階の部屋では、麻布のカーテンが風にゆるく揺れていた。

 街では今日から巡礼祭が始まっている。広場では市が開かれ、劇と舞いが披露され、にぎやかな喧騒が、三階の窓まで微かに聞こえてきた。

「……ごめん。ちょっと……疲れちゃって……」

 ベッドに横たわったノアが、額に手を当てたまま、掠れた声で言った。

 この街は、広すぎる。そして賑わいすぎている。

 ノアの頭の中に、他人の思考が匂いのように染みこんでくる。

 子を失った女の祈り。恋人を待つ少年の焦り。

 氷も炎も。

 市場の熱気と欲望が、言葉になる前に波のように押し寄せる。

 言葉にされる前の心の声たちが、ノアの体力を削っていた。

「うん、いいよ。ゆっくり休んでて。何か買ってくるよ。食べたいものとかある?」

 カイはベッドのそばに膝をつき、ノアの顔を覗き込んで額に手をあてる。

(熱はなさそうだな……。でも、顔色が良くない……)

 心配する心が、真近から伝わってくる。

「……大丈夫、ちょっと休めば、すぐ慣れ……治るから」

「そう? じゃあ、少しだけ、行ってくるよ」

 そう言ってカイは立ち上がり、そっと上着を羽織った。

 手を振ってから、扉を静かに閉じる。

 ノアは閉まった扉を見つめたまま、目を閉じた。

(……この町に、ウサマも来てたらいいのに)




 外は陽が傾きかけ、街全体が金色に染まり始めていた。

 市場通りには、香辛料と果実の香りが混じり合い、人々の声が高く飛び交っていた。

 路地に並ぶ屋台には、葡萄と香辛料と焼き菓子の香りが入り混じっている。

 赤いスカーフを巻いた旅の踊り子が、楽師の笛に合わせて足を踏み鳴らしていた。

 子どもが笑いながら紙風船を追い、塩の利いた魚の煙が風に乗って流れる。

「……すごいな」

 人の波、匂い、音――世界そのものが息づいているようだった。

 カイは、手にした小さな籠を見下ろした。

 乾燥果実、パン、チーズ。そして、薄緑の林檎。

(一旦、ノアのところに戻ろう)

 カイは布袋を抱えた老婆をよけ、炙った魚を売る屋台を横目に歩く。

 どこか懐かしい匂いが混じっていた。

 その時だった。

「……ウサマ!!」

 鋭い声とともに、腕を掴まれた。

 まるで、人込みで迷子になった弟を引き戻すような、優しい力で。

「ん?」

 カイが驚いて振り返ると、少女だった。

 金の髪。蒼とも翠ともつかない瞳。

 顔立ちは少し幼く、どこかで会った気もする。

 少女は、真剣にこちらを見つめていた。

 けれど、その目は、カイの瞳を見た瞬間に曇った。

「あっ……違う……。ごめんなさい……人違いだったみたい」

 少女は顔を伏せ、頭を下げると、すぐに踵を返して人波に紛れた。

 赤いリボンだけが、雑踏の中にしばらく揺れていた。

 カイは呆然と、その名を繰り返した。

「え? ウサマって……」

 それは、ノアの探している弟の名。

 東大陸では聞きなれない、西大陸の名前のはずだ。

(なんで、この町で……?)

 籠を脇に抱えたまま、カイは少女の姿を追って駆け出した。

 広場の隅、葡萄棚の下、噴水のまわり――

 だが、もう少女の姿はどこにもなかった。

 夕陽が路地の向こうを赤く染めている。

 笛の音と太鼓の音が、風にのって消えていった。




 ……まだ帰ってこない。

 部屋に一人きりになってから、もうどれほど時間が経っただろう。

 ノアはベッドの上で身を起こし、窓の外に目を向けた。

 空はすでに群青に沈み始め、鐘の音と太鼓の拍子が遠くから聞こえてくる。

 夕暮れの喧騒が、まるで海のように揺れている。

 耳を塞いでも、街の声が胸の奥にざわめいた。

 楽しげな群衆、焦る商人、酔いどれの告白、そして、誰かの、孤独。

 誰もが何かを語り、求め、走っている。

 それなのに、自分だけが取り残されたような気がした。

 ノアはゆっくりと呼吸を整え、立ち上がった。

(カイ……遅いな……)

 自分を気遣って、何か買ってくるだけのはずじゃなかったか。

 少し遅すぎる気がしてきた。

 氷派の声も聞こえる中、カイに何かあったのではないかと、不安になる。

 やっと、この町のうるささにも慣れてきた。

「……探しに行こう」

 風が吹き抜ける階段を降り、宿を出ると、夜の市が鮮やかに広がっていた。

 露店には灯火が灯り、通りには踊り子と見物人が入り混じっている。

 ノアは人混みの中を進みながら、何度もカイの名を心の中で呼んだ。

 その時だった。

 港の方へ続く坂道の先――

 ひとりの青年が荷を担いで歩いている後ろ姿が見えた。

 ゆるく波打つ黒髪。端正な後ろ姿。旅に慣れた、あの背中。

 向かう先は港の船着き場だ。遠目に貨物を積み込んだ船が見える。

(カイ――!?)

 思わず声が漏れた。

「……カイ!!」

 人混みの中で叫んだノアの声に、誰も振り返らなかった。

 その青年は、真っ直ぐに、誰かと言葉を交わす様子もなく、船のタラップを登っていく。

 そして、その黒髪の青年は、そのまま大きな積荷を担いで船の中へ姿を消した。

「……待って……カイ!」

 ノアが足を踏み出しかけたそのとき、反対側から駆け寄る声がした。

「ノア!」

 振り返ると、カイがいた。

 心配そうな顔で、肩で息をしながら駆け寄ってくる。

 ノアは、驚きよりも、その姿にほっと息をついた。

「ねぇ、どうしたの? 僕が、君を置いていくわけ、ないだろ」

 カイの声を聞いた瞬間、緊張の糸がほどけた。

 カイは肩で息をしながら、そっとノアの腕を取った。

「……遅いよ、君……」

 ノアの苦笑に、カイもようやく笑みを返した。

「ごめん。それより、もう大丈夫なの?」

「うん。だいぶ、ここの……空気に慣れてきた」

 桟橋には潮の香りとざわめきが満ちていた。

 港にカンカンと鐘の音が響き、船乗りたちが怒鳴り合う声が飛び交った。

 縄を解く者、最後の荷を滑り込ませる者。

 何人かの男が、船の側面を手で押しながら舷側に声をかけ、「押せ、押せ! あと少しだ!」と息を合わせていた。

 掛け声とともに縄が解かれ、帆が風を孕みながら、船はゆっくりと岸を離れてゆく。

「実は、ちょっと……人混みの中で、不思議な子に会って……その子を追いかけてたんだ」

 その言葉に、ノアが目を細めた。

「……君も?」

「え?」

「さっき、君に似た人を見かけたんだ。港の船に積荷を運んでた。でも、君じゃなかった。声をかけても気付かなかったんだ。……あの船だった」

 桟橋を離れていった船をノアは指差す。

 カイは息を飲んだ。

「僕は、さっき、ウサマを知ってる女の子に会ったんだ。……僕を見て、近づいてきて『ウサマ』って……。でも人違いだって、すぐ謝って消えた」

 ノアの目が細くなる。

「じゃあ……」

「船に乗ったのが、本当に、ウサマだったかもしれない」

 しばし、二人は黙って船を見つめていた。

 波の彼方、帆の影が遠ざかっていく。

 もう届かない距離で、それでもノアの心だけが、ウサマを追いかけていた。

「ウサマ、本当に、この街に……来てたのかもしれない」

 二人はしばし立ち尽くしたまま、港の向こうに消えていった船の影を見つめていた。



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