第47話 交錯の町モレス
《断章Ⅷ:名と居場所》
名とは、語られぬ時に最も重くなる。
誰でもない者のまま、歩き続けよ。
いずれ、その歩みが、名になる。
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潮風が、乾いた石畳にぬるくまとわりついていた。
港町モレス。シーランド東岸の中規模都市。
かつては漁村だったというが、今は交易と巡礼で栄える雑多な町だ。
旅人と商人、密偵と亡命者。誰が何者でも、立ち止まることを咎められない。
氷でも炎でもない。だからこそ、この町には様々な人間たちが集まる。
ノアは、港の坂を登りながら、無言のまま空を見上げていた。
鉛色の雲が海のほうから流れてきていて、空気の匂いがかすかに変わった。
「……雨、降るかな?」
ノアがぽつりと呟くと、隣のカイが微かに笑った。
「好きになったの? 雨が」
「うん」
「雨が降る前の臭いって、確かにあるけどさ。僕には、今、向こうで、魚が焼けてることしか分からないよ」
笑いながらそう返すカイの目にも、疲れがにじんでいた。
長い山越えと、氷派の影をすり抜けて、ようやく、二人は港町にたどり着いた。
「まず宿を探そう。表通りより、一本奥のほうが良いかも」
カイの提案にうなずいて、ノアは荷の紐を握り直した。
モレスには、かつて思想家たちが隠れていたという古い噂がある。
『シュケム論』の写本を最初に手に入れた者が、聖地から来た『青衣の若者』だったという話も、ここに残っていた。
広場では、巡礼祭の準備が進んでいた。
天蓋の下で楽器を調律する者、神酒を並べる者、声を張り上げて祈りを繰り返す者。
けれどそのどれもが、どこか義務的で、熱を欠いているように見えた。
「……空気が、重いな」
ノアがぼそりと言うと、カイが声を落とす。
「炎も氷も、ここでは素性を隠す。名を名乗る者が、いちばん危うい町だよ」
ノアは小さくうなずいた。
ふたりは広場を横切り、裏路地に入った。
石壁に囲まれた静かな一角に、古い看板が風に揺れている。
「……この宿でどう?」
カイが立ち止まった。看板には、『月と書棚亭』という名が彫られていた。
「……皮肉だね」
「何が?」
「月と書棚は、女と思想。……今までの旅で、見たものが、詰まってる気がする」
「でも、どっちにも名札はついてないよ?」
ノアは小さく笑った。リナリーとシュケム論、いや、ヴィンセントか、と。
「それが、この町らしいってことかな」
「だったら、なおさらここにしよう」
扉を開けたその瞬間、海の匂いと紙のにおいが混じった風が吹き抜けた。
モレスの空の下で、二人の旅が、次の幕へと進みはじめた。
* * * * *
馬車が町の門をくぐると、潮風に混じって、何とも言えない匂いが鼻をかすめた。
干した魚と焼き立てのパン、香油と汗、そして――人の匂い。
生きた人間がたくさんいる場所の、濁って、森の中とは真逆のにおいだった。
「……ここが、モレス。ほんとにすごい人なのね……」
エルセラはカーテンを押し開け、小さなため息とともに窓の外を見つめた。
石畳の広い通りを、商人たちの荷車が行き交っている。
酒場の軒先では男たちが賭けに興じ、旅人たちは腰に剣をさげ、寺院の鐘が遠くで鳴っていた。
「港町の空気というのは、独特ですね。お体は……大丈夫ですか?」
馬車の向かいに座るアンナが、控えめに問いかける。
「うん。もう、薬も効いてるし。今日は歩けると思う」
「それは何よりです。……では本日は、午後の祈祷と広場の視察だけにとどめましょう」
アンナの表情はいつも通り静かだったが、口調にはどこか緊張が混じっていた。
それもそのはずだ。
王女が、初めて町の民の中に姿を現す――それは小さな儀式でもあった。
エルセラは頷いて、扉が開けられるのを待った。
外に出ると、陽射しが眩しかった。
潮風が、金髪をさらりと撫でていく。
はじめて人の中に立つ、自分の影が、石畳に伸びていた。
「……あたしも、ちゃんと自分で立ってる」
思わずこぼれた言葉を、誰も聞いてはいなかった。
ただ、通りを歩く誰かが、ほんの一瞬、彼女に目を向けただけ。
王女としてではなく、ただの旅人のように。
それだけで、少しだけ自由になれた気がした。
巡礼祭の準備が進む広場では、祭衣の子どもたちが列をなして祈祷歌を練習していた。
その声を聞きながら、エルセラはふと、人波の向こうを見た。
――黒い髪。
あの肩幅。懐かしいあの背中。
「……ウサマ?」
思わず足が止まりかける。
けれど、振り返ったのは、知らない男だった。
違う、とわかっているのに、胸が少しだけ痛くなった。
アンナがすぐに横に立つ。
「どうかなさいましたか?」
「……ううん、なんでもない。人がたくさんいて、ちょっと見間違えただけ」
エルセラはかぶりを振って、再び歩き出した。
人の中へ。光と喧騒の中へ。
この町で、何かがある予感がした。
忘れかけていたあの名前が、どこかで呼ばれているような気がした。




