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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第6章 風の行方

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第47話 交錯の町モレス

《断章Ⅷ:名と居場所》

名とは、語られぬ時に最も重くなる。

誰でもない者のまま、歩き続けよ。

いずれ、その歩みが、名になる。

------------------------------------------------------------



 潮風が、乾いた石畳にぬるくまとわりついていた。

 港町モレス。シーランド東岸の中規模都市。

 かつては漁村だったというが、今は交易と巡礼で栄える雑多な町だ。

 旅人と商人、密偵と亡命者。誰が何者でも、立ち止まることを咎められない。

 氷でも炎でもない。だからこそ、この町には様々な人間たちが集まる。


 ノアは、港の坂を登りながら、無言のまま空を見上げていた。

 鉛色の雲が海のほうから流れてきていて、空気の匂いがかすかに変わった。

「……雨、降るかな?」

 ノアがぽつりと呟くと、隣のカイが微かに笑った。

「好きになったの? 雨が」

「うん」

「雨が降る前の臭いって、確かにあるけどさ。僕には、今、向こうで、魚が焼けてることしか分からないよ」

 笑いながらそう返すカイの目にも、疲れがにじんでいた。

 長い山越えと、氷派の影をすり抜けて、ようやく、二人は港町にたどり着いた。

「まず宿を探そう。表通りより、一本奥のほうが良いかも」

 カイの提案にうなずいて、ノアは荷の紐を握り直した。

 モレスには、かつて思想家たちが隠れていたという古い噂がある。

 『シュケム論』の写本を最初に手に入れた者が、聖地から来た『青衣の若者』だったという話も、ここに残っていた。


 広場では、巡礼祭の準備が進んでいた。

 天蓋の下で楽器を調律する者、神酒を並べる者、声を張り上げて祈りを繰り返す者。

 けれどそのどれもが、どこか義務的で、熱を欠いているように見えた。

「……空気が、重いな」

 ノアがぼそりと言うと、カイが声を落とす。

「炎も氷も、ここでは素性を隠す。名を名乗る者が、いちばん危うい町だよ」

 ノアは小さくうなずいた。

 ふたりは広場を横切り、裏路地に入った。

 石壁に囲まれた静かな一角に、古い看板が風に揺れている。

「……この宿でどう?」

 カイが立ち止まった。看板には、『月と書棚亭』という名が彫られていた。

「……皮肉だね」

「何が?」

「月と書棚は、女と思想。……今までの旅で、見たものが、詰まってる気がする」

「でも、どっちにも名札はついてないよ?」

 ノアは小さく笑った。リナリーとシュケム論、いや、ヴィンセントか、と。

「それが、この町らしいってことかな」

「だったら、なおさらここにしよう」

 扉を開けたその瞬間、海の匂いと紙のにおいが混じった風が吹き抜けた。

 モレスの空の下で、二人の旅が、次の幕へと進みはじめた。




*   *   *   *   *




 馬車が町の門をくぐると、潮風に混じって、何とも言えない匂いが鼻をかすめた。

 干した魚と焼き立てのパン、香油と汗、そして――人の匂い。

 生きた人間がたくさんいる場所の、濁って、森の中とは真逆のにおいだった。

「……ここが、モレス。ほんとにすごい人なのね……」

 エルセラはカーテンを押し開け、小さなため息とともに窓の外を見つめた。

 石畳の広い通りを、商人たちの荷車が行き交っている。

 酒場の軒先では男たちが賭けに興じ、旅人たちは腰に剣をさげ、寺院の鐘が遠くで鳴っていた。

「港町の空気というのは、独特ですね。お体は……大丈夫ですか?」

 馬車の向かいに座るアンナが、控えめに問いかける。

「うん。もう、薬も効いてるし。今日は歩けると思う」

「それは何よりです。……では本日は、午後の祈祷と広場の視察だけにとどめましょう」

 アンナの表情はいつも通り静かだったが、口調にはどこか緊張が混じっていた。

 それもそのはずだ。

 王女が、初めて町の民の中に姿を現す――それは小さな儀式でもあった。

 エルセラは頷いて、扉が開けられるのを待った。

 外に出ると、陽射しが眩しかった。

 潮風が、金髪をさらりと撫でていく。

 はじめて人の中に立つ、自分の影が、石畳に伸びていた。

「……あたしも、ちゃんと自分で立ってる」

 思わずこぼれた言葉を、誰も聞いてはいなかった。

 ただ、通りを歩く誰かが、ほんの一瞬、彼女に目を向けただけ。

 王女としてではなく、ただの旅人のように。

 それだけで、少しだけ自由になれた気がした。



 巡礼祭の準備が進む広場では、祭衣の子どもたちが列をなして祈祷歌を練習していた。

 その声を聞きながら、エルセラはふと、人波の向こうを見た。


 ――黒い髪。

 あの肩幅。懐かしいあの背中。


「……ウサマ?」

 思わず足が止まりかける。

 けれど、振り返ったのは、知らない男だった。

 違う、とわかっているのに、胸が少しだけ痛くなった。

 アンナがすぐに横に立つ。

「どうかなさいましたか?」

「……ううん、なんでもない。人がたくさんいて、ちょっと見間違えただけ」

 エルセラはかぶりを振って、再び歩き出した。

 人の中へ。光と喧騒の中へ。

 この町で、何かがある予感がした。

 忘れかけていたあの名前が、どこかで呼ばれているような気がした。



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