第45話 『光』と影
――僕は、誰の駒にもならない。
ずっと、そう決めていた。
けれど、決めていたはずなのに……また、少しだけ揺らいだ。
「ルーク・ノクシアル」
リナリーの口から本当の名前を呼ばれたとき、
胸の奥にしまっていた何かが、軋むような音を立てた。
あの人は、僕のことなんて見ていなかった。
でも、今度はホープじゃない。
見ていたのは、ヴィンセント。
母の血筋と、顔がほんの少し似ているというだけの、過去の幻。
僕は、誰かの代わりなんかじゃない。
……そう言い切れるようになるまでに、どれだけの時間がかかっただろう。
ノアと出会って、初めて少しだけ呼吸がしやすくなった。
一緒に笑ったり、対等に話し合ったりしながら、
僕はようやく、自分の足で立っていると思えるようになった。
今、ラーナの山を下りる。
目的は――禁書、伯父の論文かもしれない。
でも、本当はきっと、それだけじゃない。
自分の意志で歩くこと。
仕えろと言われたわけじゃない。
命令されたわけでもない。
でも、心のどこかで、あの人に見定められたような気がしている。
だから僕は、選ぶ。
誰のものにもならず、
――僕自身として、旅に出る。
夜の風が、木の葉をかすかに鳴らしていた。
そこはラーナ砦と呼ばれる、炎派の拠点だった。
その炎派の隠れ家の一室。
机の上には、ベルダールで手に入れた紙片が広げられたまま、ランプの光がそこを照らしている。
ノアは窓辺に座り、黙って空を見上げていた。
扉が軋みを立てて開いたのは、日が沈みかけた頃だった。
「……遅かったね」
ノアがそう言ったのは、怒りでも詮索でもなかった。
カイは、ゆっくりと扉を閉めた。
そして、何も言わずに対面の椅子に腰を下ろす。
二人の間に、静寂が落ちた。
向かいに座るカイは、思慮深い表情を浮かべ、ノアの方を見ようとしない。
けれど、その胸の奥に渦巻くもの――言葉にならないもの――すでに全部、ノアには聞こえてきた。
リナリーに呼び出され、一人で会ったこと。
偽りの身分ではあるが、『従者ノア』を譲ってほしいと言われたこと。それも全てに好条件を出して。
『従者ノア』を炎派の象徴に仕立てる意図まで、隠すことなく、語られたこと。
そして、カイがそれをどう受け止め、迷い、今ここに来たのか。
全部、聞こえた。
それでもノアは、ただ黙っていた。
確か、初対面の時も、同じようなことをした。行きつく先を見る為に。
カイの口から、どんな言葉が出てくるか、もしくは、このまま黙ったままなのかを知りたかったから。
長い沈黙の果て、カイが息を吐いた。
「……あの女に、言われた。ノアを譲ってくれって。『名も無き言葉』として、新しい炎派の象徴にするためにって。……きっと君がヴィンセントに似てるから、伯父の再来みたいにするつもりだと思う……。だから、僕は、勝手に、断った……」
「え……」
それを聞いてノアは、カイを見た。心の声と偽りなく、同じ言葉。
その瞳は、驚きでも怒りでもなかった。
「ノア、ごめん。最初は……この話、このまま言わないでおこうかと思ってた。誰かの代わりだなんて、君が傷付くと思って。でも……、本当は、そうじゃなくてさ。断った理由は、僕が、君と離れたくなかったからだ。どうするかを選ぶのは、君なのに……」
カイの喉がわずかに動いた。
ノアはゆっくりと頷いた。
「ありがとう。……話してくれて。僕は――」
そこまで言って、言葉を切った。
そして、まるで堰が外れたように、ぽつりと続けた。
「……君のこと、好きだと思ってたけど。やっぱり、それが間違いじゃなかったって、思えた」
予想していたのとは違う答えに、カイは目を見開いた。
ノアは長年、語られないまま聞こえてしまうことに苦しんできた。
だからこそ、カイが語ってくれることが、ノアにとって何よりの癒しだった。
「……僕の方こそ、ごめん……カイ」
(やっぱり、この力の事……君には言えない)
しかし、ふたりの間に流れる静寂は、さっきよりもあたたかかった。
暖炉の火が、部屋の天井に揺れている。
カイは火を見つめながら、ぽつりと声を落とす。
「……明日、ここを出よう」
ノアは荷物を整えながら、特に驚いた様子もなくうなずいた。
「リナリーの言葉、気にしてる?」
「気にしてないって言ったら、嘘になるかな」
カイは苦笑して、天井を仰いだ。
「でも、命令されたわけじゃない。……そう聞こえるように言うのが、あの人のやり方だ」
ノアは火のそばに腰を下ろし、黙って聞いていた。
その目は、カイの横顔をじっと見ていた。
「……君が、行きたいんだよね?」
カイはふっと笑った。
「うん。僕が、行きたい。……それだけで、いいかな?」
ノアはそれに対して何も返さず、静かに暖炉の脇に鉄の棒を置いた。
だがその沈黙は、拒否でも疑いでもなかった。
しばらくして、ノアが小さく呟いた。
「……伯父さんのこと、もっと知りたいんだね」
「うん。でも、全部知ったところで、僕が彼になるわけじゃないけど」
カイは目を伏せ、火が揺れるのを見つめる。
「僕は、僕のままでいたいんだ」
ノアは、ほんのわずかに口元を緩めた。
それから静かに、言った。
「それでいいよ。……君は、君だよ」
薪がぱちんと音を立てる。
その夜、彼らの言葉は多くなかった。
ノアには、沈黙しているカイの心の中が伝わってきた。
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あの謁見の後。
カイは、ノアとは別に、リナリーの書斎へ呼ばれた。
冬の陽が、窓辺に立つ彼女の髪を淡く照らしていた。
『従者ノア』を譲って欲しいと言われた、その後も、リナリーとの話は続いた。
「ノクシアル。そなた、伯父であるヴィンセントに、会ったことはあるのか?」
「いえ。幼い頃は、母親がそれを許しませんでしたので」
「あれの妹は、母として賢明なようだ」
「リナリー様は、ヴィンセント卿を、ご存じなのですか?」
リナリーは、目を細めてカイを睨む。
「……色々とな」
カイが知っているのは、ギリアンとの争いで、リナリーはヴィンセント相手に破れたこと。そして、シーランドに嫁ぐ前は、二人が婚約関係だったこと。
「……シーランドにはヴィンセントの名が、今も残る村があるそうだ」
その声に、カイは眉をひそめる。
「伯父が、ヴァロニアから出たとは聞いていません」
「ああ、知っている。でも、人の名は、書かれた言葉と一緒に歩くものだ」
リナリーは、静かに振り返った。
「アムブルグと言う村には、ある禁書を写した者たちがいた。誰が最初に手にしたのか、記録は残っていない。だが、写本の余白にこうあった――『ヴィンセントの証』と」
リナリーの言葉が、どこまでが真実なのか、カイには分からなかった。
「それは、彼のあの言葉のことですか?」
「そう。『シュケム論』と呼ばれる思想。焚書の後も、写された断片がヴァロニアの外へ流れた。……あの狂人の名と一緒にな」
リナリーの声は、静かだった。だが、内側に何か鋭いものを隠していた。
「あの男がそこへ行ったわけではない。しかし、誰かが奴の名を記した。まるで、導いたのは奴だとでも言うように」
リナリーの蒼い瞳は、じっとカイを見ていた。
「私が知っているのは、それだけだ。行くも、行かぬも、そなたが決めること。私はそなたの主ではないし、これは命令でもない」
カイはしばらく黙っていた。
そして、政治の怪物に問いかける。
「僕がそこへ行ったら、何を見つけられるとお思いなのですか?」
「……それは、そなた自身の問いにしかならないな」
リナリーはかすかに笑った。
「だが、言葉の跡を辿る者は、たいてい自分の心を持っていかれる。過去でも未来でもなく、今のそなたが何を見るかが全てだ」
その微笑みは、温かくも冷たくもあった。
「……僕を、伯父の影に立たせようと?」
リナリーはそれには答えず、ほんのわずかだけ微笑んだ。
「影は、光がなければ生まれない。ルーク・ノクシアル、そなた自身の『光』が何なのか、それを探せば良かろう」
それだけを残して、リナリーは書斎を去っていった。
カイは、部屋に残された静寂の中で、自分の心がざわつくのを感じていた。
言葉にされなかった圧力。期待。恐怖。そして、知りたいという欲求。
(……それでも、行くと決めたのは僕だ)
小さく息を吐き、机の上に置かれていた古い地図に目を落とす。
ルーク・ノクシアルの『光』がどこにあるのかは、まだ分からない。
でも、行かなければ見えないものがある。それだけは確かだった。




