第44話 The Name of the White Rose
午後の陽が傾き、【赤の間】の窓辺に斜めの光が差し込んでいた。
壁には王家の系譜図が掛かり、棚には分厚い書物と羽根ペン、貴族の肖像画が並ぶ。
けれどその荘厳な空間の中で、エルセラは珍しく机にうつ伏していた。
「……お腹、痛い……」
低くつぶやきながら、背中を丸めて手でお腹をさする。
月のものが始まったばかりで、頭も身体も重たかった。
張りつめていた気力も、この血の数日間だけはどこかへ抜けてしまう。
「始めても良いですか? エルセラ様」
声をかけたのは、炎派の女官アンナだった。
いつも通りの丁寧な所作で、机の隅に一冊の薄い帳面をそっと置く。
けれどその表情はどこか、慎重だった。
「本日は、少しだけ、貴女ご自身の系譜についてお話してもよろしいでしょうか」
「……うん。ちょっと、……かなり、辛いけど……大丈夫」
エルセラは顔を上げ、頬杖をついたまま答えた。
「貴女の母君、リナリー様は、もともとヴァロニア王家の姫君であられます。現ヴァロニア王ギリアン陛下のご姉君です」
「うん、それは知ってる。前の王様と結婚して、シーランドに来たんだよね」
「はい。ローラン陛下とのご結婚は、政略というより盟約でした」
「ヴァンデ条約、だったっけ? その時、お母様は、今のあたしと同じ歳くらいだったんだよね」
「そうです。ですが、その三年後、陛下が崩御なされて、リナリー様は一時、ヴァロニアへ帰還なさいました」
アンナの声は丁寧で、まるで石碑を読むようだった。
「しばらくの間、ご兄弟のもとで静養と称されて。そして再び、シーランドへ戻られました。その後に、貴女をお身籠りになったのです」
エルセラの指が、帳面の端をぴたりと止めた。
話で聞くより、その期間が長いことにエルセラは気付いていた。リナリーは、九年近く祖国に戻っており、その後、三十四歳の時にエルセラを生んだ計算になる。
アンナは続きを淡々と語った。
「貴女はご出生直後、女官のセラフィナという女性に託されました。彼女は貴女を修道院に連れて行き、およそ一年間、密かに育てたとされています。その後、貴女をお迎えに上がったのが……もうひとりの侍女――ベナという名の侍女です。リナリー様がヴァロニアから連れてこられた、信頼の厚い方だったようです。ベナが貴女を引き取り、それからは各地を転々としながら、身を隠すように育てた……と記録されています」
帳面が閉じられた音が、赤の間に静かに響いた。
けれど、沈黙は長く続かなかった。
「それ……間違ってる」
エルセラは低く、だがはっきりと言った。
顔を上げると、その瞳には迷いがなかった。
「ベナって、きっと、ママのことよ。ママは侍女じゃなくて魔女。名前もベナじゃなくて、ファティマ。あたしを育ててくれた、世界一可愛いママの名前よ」
アンナの目が、わずかに見開かれる。
だがすぐに表情を引き締め、静かにうなずいた。
「……なるほど。その方がどういう存在であったとしても、貴女を守り、育ててくださったことに変わりはありませんね」
「うん。ママは、あたしがママの本当の子じゃないって、ちゃんと話してくれていたし、あたしにいつも言ってたの。『誰の子かじゃなくて、どう生きたいかを選びなさい』って。……自分で、自分の未来を決めるんだって」
それは、幼い頃から繰り返し聞いてきた言葉だった。
痛みや不安や憧れが入り混じる年頃の心を、真っすぐに支えてくれた言葉。
だが――。
「……でも、やっぱり知りたいの。お母様のことも」
そう続けたエルセラの声には、微かな揺れがあった。
机の上に広げられた家系図の空白が、彼女を静かに見返しているかのようだった。
「……それに、お父様のことも、知りたい」
アンナは答えなかった。
「アンリ陛下とあたしは、父親は違うのよね……」
ただ、ゆっくりと、エルセラの前に帳面を押し戻しながら、低く言った。
「いずれ……リナリー様ご自身から、お話があるでしょう」
「……」
「その日まで、どうかお心を強く。貴女は、もう選ばれるだけの王女ではありません。この国の未来を担う選ぶ者として、法的にも成人し、身体も大人として備わりつつあります。……月の兆しは、その証。後は心が備われば、貴女はもう、次の王を選べる器なのです」
エルセラは、お腹をさすりながら、そっと目を閉じた。
胸の奥に、ふと、ある記憶が浮かんだ。
あれは、いくつの時だっただろうか――
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――冬の夜、炉の前で、ママとふたりきりだった夜のこと。
「ねえ、ママ。赤ちゃんって、どうやってできるの?」
ファティマは、驚きも照れもなく、湯を注ぎながら微笑んだ。
「女の子の身体の奥には、月の泉があるの。毎月ちょっとずつ、命の準備をしてくれる場所。そこに誰かと、気持ちを通わせて、命の種が届くと――ぽん、と花が咲くのよ」
「ぽんって……そんな簡単なの?」
「ううん、ぜんぜん簡単じゃない。痛いし、怖いし、命をふたつ分くらい燃やす感じ。でも、その人を、本当に大事だって思えたとき、怖いだけじゃなくなるのよ」
「ママも……産んだの?」
ファティマは少し黙って、炎の揺らぎを見つめていた。
「……ええ。でも、その子はもう、遠くへ行ったわ。でも、あの時の痛みだけは、いまでもちゃんと覚えてる。痛かったけど、ちゃんと自分で産みたいって思ったから、後悔はしてないわ」
(ママの子どもは、もう遠くへ行った。……でも、ママの中には、ちゃんと残ってるんだ)
その夜、何故か、少し悔しくなって、ママの腕に寄り添った。その時に感じた体温は、今も覚えている。
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(……あたしは、誰の子なんだろう。ママの子? お母様の子? どっちでもなくて……どっちでも、あるのかな)
小さくつぶやいた。
「……あたし、ちゃんと選べるかな……」
その言葉はまだ、問いの形をしていた。
コンコン、とノックがあり、使用人の女が薄いお茶の入ったティーカップをそっと置いていった。
香りが立ちのぼる。懐かしい、あの独特の香り。
(……ママの、鎮痛薬のハーブティーだ)
エルセラは静かに一口だけすすると、目を伏せたまま、ぽつりとこぼした。
「ねえ、アンナ。……生理が終わったら、どこか外に出かけてみたいな。少しだけでもいいから」
アンナが、目を細めた。
「お気持ちの変化は、とてもよい兆しです。でしたら、もうすぐモレスの港町で、市の巡礼祭がございます。民衆の様子をご覧になるのも、王女として有意義かと」
「うん。人の中に混じってみたい。ママは、いつも人を近くで見てたから」
「では、生薬が効いたころに、準備を進めましょう」
エルセラは頷いた。
その目に、どこか遠くを見つめる光があった。




