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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第5章 魔女の唄

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第43話 証人の名前

 霧は、もうほとんど残っていなかった。

 夜のあいだに小さな風が吹いたのか、干してあった薬草の束が少しだけ傾いていた。

 ウサマは荷を背負い、村の外れに立っていた。

 誰にも見送られずに発つはずだった。

 が――。

「……私は魔女ではないけれど、あなたに伝えたいことがあるの」

 背後から、落ち着いた声がした。

 振り返れば、そこに立っていたのはセラだった。

 外套の襟をしっかりと合わせている。目元には深い静けさが宿っていた。

「ずいぶん前だけど、ジェードとハリーファが、ここにきたわ。ここを出て、ハリーファの母親の、魔女のところへ行くと言っていた」

「うん、俺も、そのつもり」

「じゃあ、その魔女のところに向かうのね。あの人、()()()を守ってくれたの。今も元気かしら?」

 ()()()――ウサマは、誰のことか、すぐにわかった。

「もしかして、セラが、エルセラの、本当のお母さん?」

「いいえ、違うわ」

 その一言だけで、十分だった。

「……あ、そっか。王女って言ってたな……」

 父か母のどちらかが王族――そして、ここではもう語れない事情があること。

「……ありがとう。教えてくれて」

 セラは首を横に振った。

「まだ、全部は教えていないわ。……でも、あなたが行く先で、何かが繋がるなら、それでいいと思って」

 セラは、ふと空を見上げた。

 薄く晴れかけた空の向こう、まだ冬の匂いがしていた。

「ただ、名前を、覚えておいて。セラフィナ・ヴェイル――それが、()()()()()()()()よ」

 その言葉には、誇りというより、静かな決意があった。

 ウサマは深く頷いた。

「もし……エルセラがあなたを必要とする日が来たら、きっと、会わせるよ」

「その時は、私も名を名乗り直すわ。この村で沈黙という仕事を終えたら」

「その言い方、なんか、魔女っぽい」

 セラは、少しだけ笑った。

「魔女ではないわ。白い修道院にいたの。だから、祈らずに黙ることを覚えただけ」

 風がふたりの間を通り過ぎた。

 冷たい風だったのに、不思議と背を押されるような感覚があった。

 ウサマは足元を見て、小道の先へ目を向けた。


 父の母――魔女のばーちゃんで、エルセラのママ。

 けれど、その人の名前を、ウサマはまだ知らない。

 祖母なのに、伝説の中にいるようだった。

 それでも、行かなきゃならないと思うのは、ウサマの中の『人間じゃない部分』が、どこかで引かれているからだ。

 もう、あそこにエルセラはいない。

 ポケットから取り出した手紙は、別れ際にエルセラがそっと渡してくれたものだった。

 紙は少し折れ癖がついていて、震えるような筆跡で言葉が綴られている。




   名前を呼んでくれてありがとう。

   ほんとは、君と同じくらい、誰かに本当の名前で呼ばれるの、怖かったの。

   だから今度は、あたしがあなたの名前を呼ぶ番。

   そうやって、ちゃんと向き合える人になりたい。

   ……できるなら、王女としてじゃなく、女王として。




(……女王として、か。あの子は、あの時に、もう選び始めてたんだ)

 最初に名乗ってくれた時の、あのちいさな躊躇い。

 それをごまかすように笑った顔。

 自分の名を、自分で選び直したエルセラ。

「……俺、行くよ。でも、セラとは……また会うかもしれない」

 背後に応えるように、セラの声が届いた。

「ええ。待っているわ、ここで。行ってらっしゃい、神魔(ジン)の子」

 その声に、ウサマの肩が一瞬だけ震えた。

 だが、振り返らず、歩き出した。


 雪の下には、まだ見ぬ草の芽が眠っている。

 この道のどこかで、父と母もこうして歩いたのだろうか。

 ……その記憶を探すために。

 そして、未来の誰かに渡すために。


 誰にも縛られず、誰の意志でもない、自分の旅を選ぶために。

 遠くから、かすかな鳥の声が聞こえた。




*   *   *   *   *




 森の中は、冬の只中にあった。

 十二月も終わりに近づき、木々の梢には新雪が薄く積もり、枝が重たげにしなっていた。

 足元の凍った落ち葉の上を歩くたび、霜がザクッ、ザクッと硬い音を立てて砕けていく。

 ウサマは、かつてエルセラと魔女のばーちゃんと過ごした家へ向かった。

 霧の抜け道を抜けた先、小さな石積みの家が姿を現した。

 雪の帽子をかぶった屋根。軒先の氷柱が、日差しにきらりと光る。

 ウサマは扉に手をかけた。鍵はかかっていない。

「……ばーちゃん? いる?」 

 静かに軋む音を立てて開け放たれた家の中は、窓も扉も閉ざされ、あの時のような薬草の匂いも、温もりもなかった。

(もう、ここから……出ていったのか?)

 しかし、テーブルの上に、見慣れた文字で書かれた紙片が置かれていた。

 ファールーク語だった。




   迷って、ここにもどってきたのなら、母ではなく、父のところへ向かいなさい




 書かれていたのは、それだけだった。

 短く、冷たい。けれど、たしかに魔女の言葉だった。

 まるで心の奥を見透かしたような筆致だった。

(父さんのところへ? ……どこだよ、それ……)

 ウサマは椅子に腰を下ろし、額を指で押さえた。

 長く家を不在にしては、色んな国に行く父親だった。しかし、仕事が終われば必ず戻ってきたし、オス・ローに居る時はいつも母の傍にいた。

 今だって、絶対に、あの二人は一緒に居るはずだ。

 けれど、父が、どこに向かったかはわからない。

 政庁の会議で、皇子だなんだと聞こえていたので、もしかして、西大陸に行くべきなのか?

「……うーん、全く、わからない」

 西大陸に向かうには、中央の地オス・ローを通らなければならない。

 父の居所は分からないが、ひとつ思い浮かんだのは、ローナが言っていた言葉だった。

『ジェードがさ、子どもが心を読める事を心配していた――』

 神魔の子。

 心を読む力。

 その()()()が誰なのか、ウサマはもう知っている。


(兄さんだ……兄さんも、聞こえてたんだ)


 アサドは、一体いつから、他人の心の声を聞いていたんだろう?

 アサドも、壊れてしまうのだろうか?

(兄さんなら……家にいる。きっと)

 聖地オス・ローの我が家。

 あそこに戻れば、何かがわかるかもしれない。魔女のばーちゃんも、ローナも、みんな言葉を選んでいた。けれど、誰かが兄に会えと言っている気がした。

 兄さんも、人の心が聞こえるなんて。どうして、今まで、ずっと黙っていたのか……。

「……戻ろう。兄さんのところへ」

 ぽつりと呟いたその声は、小さな家の中で静かに吸い込まれていった。

 もう一度、外へ出る。

 風が、枯れ枝をゆらした。

 空は明るくなりはじめていた。遠く、港の方へ続く道が開けている。

 ――船に乗ろう。

 今度は南へ。兄のいる、家へ。

 けれど、その先に何があるのかは、ウサマにもまだ、わからなかった。


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