第43話 証人の名前
霧は、もうほとんど残っていなかった。
夜のあいだに小さな風が吹いたのか、干してあった薬草の束が少しだけ傾いていた。
ウサマは荷を背負い、村の外れに立っていた。
誰にも見送られずに発つはずだった。
が――。
「……私は魔女ではないけれど、あなたに伝えたいことがあるの」
背後から、落ち着いた声がした。
振り返れば、そこに立っていたのはセラだった。
外套の襟をしっかりと合わせている。目元には深い静けさが宿っていた。
「ずいぶん前だけど、ジェードとハリーファが、ここにきたわ。ここを出て、ハリーファの母親の、魔女のところへ行くと言っていた」
「うん、俺も、そのつもり」
「じゃあ、その魔女のところに向かうのね。あの人、あの子を守ってくれたの。今も元気かしら?」
あの子――ウサマは、誰のことか、すぐにわかった。
「もしかして、セラが、エルセラの、本当のお母さん?」
「いいえ、違うわ」
その一言だけで、十分だった。
「……あ、そっか。王女って言ってたな……」
父か母のどちらかが王族――そして、ここではもう語れない事情があること。
「……ありがとう。教えてくれて」
セラは首を横に振った。
「まだ、全部は教えていないわ。……でも、あなたが行く先で、何かが繋がるなら、それでいいと思って」
セラは、ふと空を見上げた。
薄く晴れかけた空の向こう、まだ冬の匂いがしていた。
「ただ、名前を、覚えておいて。セラフィナ・ヴェイル――それが、あの夜の証人の名よ」
その言葉には、誇りというより、静かな決意があった。
ウサマは深く頷いた。
「もし……エルセラがあなたを必要とする日が来たら、きっと、会わせるよ」
「その時は、私も名を名乗り直すわ。この村で沈黙という仕事を終えたら」
「その言い方、なんか、魔女っぽい」
セラは、少しだけ笑った。
「魔女ではないわ。白い修道院にいたの。だから、祈らずに黙ることを覚えただけ」
風がふたりの間を通り過ぎた。
冷たい風だったのに、不思議と背を押されるような感覚があった。
ウサマは足元を見て、小道の先へ目を向けた。
父の母――魔女のばーちゃんで、エルセラのママ。
けれど、その人の名前を、ウサマはまだ知らない。
祖母なのに、伝説の中にいるようだった。
それでも、行かなきゃならないと思うのは、ウサマの中の『人間じゃない部分』が、どこかで引かれているからだ。
もう、あそこにエルセラはいない。
ポケットから取り出した手紙は、別れ際にエルセラがそっと渡してくれたものだった。
紙は少し折れ癖がついていて、震えるような筆跡で言葉が綴られている。
名前を呼んでくれてありがとう。
ほんとは、君と同じくらい、誰かに本当の名前で呼ばれるの、怖かったの。
だから今度は、あたしがあなたの名前を呼ぶ番。
そうやって、ちゃんと向き合える人になりたい。
……できるなら、王女としてじゃなく、女王として。
(……女王として、か。あの子は、あの時に、もう選び始めてたんだ)
最初に名乗ってくれた時の、あのちいさな躊躇い。
それをごまかすように笑った顔。
自分の名を、自分で選び直したエルセラ。
「……俺、行くよ。でも、セラとは……また会うかもしれない」
背後に応えるように、セラの声が届いた。
「ええ。待っているわ、ここで。行ってらっしゃい、神魔の子」
その声に、ウサマの肩が一瞬だけ震えた。
だが、振り返らず、歩き出した。
雪の下には、まだ見ぬ草の芽が眠っている。
この道のどこかで、父と母もこうして歩いたのだろうか。
……その記憶を探すために。
そして、未来の誰かに渡すために。
誰にも縛られず、誰の意志でもない、自分の旅を選ぶために。
遠くから、かすかな鳥の声が聞こえた。
* * * * *
森の中は、冬の只中にあった。
十二月も終わりに近づき、木々の梢には新雪が薄く積もり、枝が重たげにしなっていた。
足元の凍った落ち葉の上を歩くたび、霜がザクッ、ザクッと硬い音を立てて砕けていく。
ウサマは、かつてエルセラと魔女のばーちゃんと過ごした家へ向かった。
霧の抜け道を抜けた先、小さな石積みの家が姿を現した。
雪の帽子をかぶった屋根。軒先の氷柱が、日差しにきらりと光る。
ウサマは扉に手をかけた。鍵はかかっていない。
「……ばーちゃん? いる?」
静かに軋む音を立てて開け放たれた家の中は、窓も扉も閉ざされ、あの時のような薬草の匂いも、温もりもなかった。
(もう、ここから……出ていったのか?)
しかし、テーブルの上に、見慣れた文字で書かれた紙片が置かれていた。
ファールーク語だった。
迷って、ここにもどってきたのなら、母ではなく、父のところへ向かいなさい
書かれていたのは、それだけだった。
短く、冷たい。けれど、たしかに魔女の言葉だった。
まるで心の奥を見透かしたような筆致だった。
(父さんのところへ? ……どこだよ、それ……)
ウサマは椅子に腰を下ろし、額を指で押さえた。
長く家を不在にしては、色んな国に行く父親だった。しかし、仕事が終われば必ず戻ってきたし、オス・ローに居る時はいつも母の傍にいた。
今だって、絶対に、あの二人は一緒に居るはずだ。
けれど、父が、どこに向かったかはわからない。
政庁の会議で、皇子だなんだと聞こえていたので、もしかして、西大陸に行くべきなのか?
「……うーん、全く、わからない」
西大陸に向かうには、中央の地オス・ローを通らなければならない。
父の居所は分からないが、ひとつ思い浮かんだのは、ローナが言っていた言葉だった。
『ジェードがさ、子どもが心を読める事を心配していた――』
神魔の子。
心を読む力。
その子どもが誰なのか、ウサマはもう知っている。
(兄さんだ……兄さんも、聞こえてたんだ)
アサドは、一体いつから、他人の心の声を聞いていたんだろう?
アサドも、壊れてしまうのだろうか?
(兄さんなら……家にいる。きっと)
聖地オス・ローの我が家。
あそこに戻れば、何かがわかるかもしれない。魔女のばーちゃんも、ローナも、みんな言葉を選んでいた。けれど、誰かが兄に会えと言っている気がした。
兄さんも、人の心が聞こえるなんて。どうして、今まで、ずっと黙っていたのか……。
「……戻ろう。兄さんのところへ」
ぽつりと呟いたその声は、小さな家の中で静かに吸い込まれていった。
もう一度、外へ出る。
風が、枯れ枝をゆらした。
空は明るくなりはじめていた。遠く、港の方へ続く道が開けている。
――船に乗ろう。
今度は南へ。兄のいる、家へ。
けれど、その先に何があるのかは、ウサマにもまだ、わからなかった。




