第41話 男の魔女
翌朝、ウサマは村の隅にある薬草小屋を訪ねた。
昨日、女が「会っておいで」と勧めた相手――その人物の住まいだった。
小屋からは、かすかに薬の焦げるような匂いが漂っている。
ウサマはひとつ息を吸い、扉を押した。
中には、一人の男がいた。
長い黒髪を無造作に垂らし、顔の下半分を白い面布で覆っている。
黒い麻布の衣に身を包み、背中をこちらに向けたまま黙々と作業していた。
鍋の湯がくつくつと泡立ち、刻まれた香草が刃先から器へと落ちていく。
「……入れ」
振り返らずに放たれたその声は、やや高く、それでいて落ち着いていた。
ウサマは戸口に立ったまま、ためらいがちに口を開く。
「……あんたが、ムゥリ?」
「ああ。そう呼ばれてる」
言葉に重さも軽さもなかった。
ウサマはそっと室内に足を踏み入れ、囲炉裏の前に腰を下ろす。
しばらく無言の時間が流れる。
湯の苦い匂いが、鼻の奥をじんと刺した。
「……あんた、本当に……男なのか?」
聞いた瞬間、自分の問いが少し無神経だったと気づいた。
けれど、ムゥリは刃の手を止めることなく答えた。
「どう見える?」
「……女の魔女だと思ってた」
「なら、それが答えだよ」
刃が再び香草を刻む。音が静かに響く。
「魔女って、女だけだと思ってた」
「そう教わるからな。都合のいい話さ。魔女は欲望の象徴――とくに、女の。それが世の中の普通の物語なんだよ」
言葉は淡々としていたが、その奥には何かが沈んでいた。
「契れるのは、処女だけ。……そう言うだろう?」
ウサマは頷いた。
「でも、処女ってなんだと思う?」
「……え、体のこと? じゃなくて……?」
「そう。心さ。誰のものにもなっていないこと。心も誰にも触れられていないこと。俺は、そうだった。誰にも愛されたことがなかった。誰にも触れられなかった。ただ、それだけ」
その言葉に、怒りも誇りも感じられない。
ウサマには、まるで、湯の湧く音と同じくらいに響いた。
「……それで、契ったのか」
「ああ。女じゃなくてもな」
ウサマはしばらく黙っていたが、ふと、聞いてみたくなった。それは、ちょっとした興味本位だった。
「悪魔ってさ……女の姿だった?」
沈黙が落ちた。
ムゥリは一拍置いて、答えた。
「いや。男だったよ」
「……じゃあ、男同士で……?」
言った直後、ウサマは息をのんだ。
それは、問いではなく、戸惑いに近かった。
ムゥリは、火を見ていた。
「そうだね。そういうことになる」
それだけだった。
けれど、その静けさが、ウサマの胸に鋭く刺さった。
聖地では、全ての性別を受け入れているはずだった。
しかし、聖地で生まれ育ったウサマの心にも、当たり前や普通という感覚がどこかに残っていた。それが、今ようやく崩れ始めた。
「……戻れないんだよな。魔女になったら」
「ああ。人間としての生は終わる。子は持てず、血も絶える。ただ、願いのために生き延び続けるだけだ」
ムゥリは顔を上げた。
その目は、濁っていなかった。
静かで、透き通っていた。
「それでも……俺は、生きてる」
ウサマは囲炉裏の火を見つめながら、ぽつりと尋ねた。
「……後悔してないのか?」
ムゥリは、少しだけ笑った。
その笑みには、寂しさと、どこかぬくもりがあった。
「わからない。でも、今こうして、お前と話せてるのが、少し嬉しいんだ。魔女ってのは、基本的にずっと一人だからさ」
ウサマは息を呑んだ。
その言葉は、胸の奥に静かに沈んでいった。
「……俺の母も、契った。でも、完全な魔女じゃなかったらしい」
ムゥリは、視線をそっとウサマに向ける。
「それがどういう意味か、知りたいのか?」
「……うん」
ムゥリはゆっくりと立ち上がり、火の向こうを指さした。
「契らなかった者たちの墓がある。魔女になれなかった者。あるいは、選ばなかった者。お前にとって、それが何を意味するのか、見てくるといい」
その声は、静かで、どこまでもまっすぐだった。
「……選ぶってことは、何かを捨てるってことだ。それでも、知りたいのなら、村の北の丘に行け」
翌朝、ウサマは早く目を覚ました。
薬草小屋の前にムゥリの姿はなく、囲炉裏の火種だけがまだ赤く残っていた。
ウサマは言われた通り、北の丘へ向かった。
雪が薄く残る小道を登ると、広く開けた丘に出た。
そこには名もない木の十字が、風に晒されながらいくつも並んでいた。
誰かに命じられたわけでもなく、誰かのために力を使ったわけでもない者たち。
魔女にも、魔女になりきれなかった者にもなれず、ただここで終わった命。
(……選べなかったんじゃない。選ばなかったんだ)
土に手をつけて、ウサマはそっと言った。
「……選ぶって、簡単じゃないな」
母は選んだ。
父も、選んだ。
じゃあ、自分は?
迷いはまだある。
でも、少しだけわかった気がした。
「俺は、生きる。そして、死ぬ。誰のためでもなく、自分のために」
風が吹いた。
その言葉は、土に溶けていった。
ウサマは立ち上がった。
もう一度、墓標を見渡し、歩き出した。
この旅の続きを。
母の答えを知るために。
そして――自分自身を、選ぶために。




