第4話 七度目の夏、声は目覚める
あれから、七度目の夏が過ぎた。
聖地の石畳は、あの日と同じように陽に焼けて、風は今日も乾いている。
白い石の城壁に朝の陽が差し始めていた。
聖地オス・ローの門前。【天国の扉】と呼ばれるその入口に、一人の女が現れた。
黒い外套、真っ直ぐな黒髪、背筋の伸びた立ち姿。
その姿は決して派手ではない。だが、門を守る者たちは、彼女がただの巡礼者ではないと即座に悟った。
その背後には、従者の姿も、兵もいない。ほんの数名の書記官らしき者を連れているだけ。
女は門の前に立ち止まり、しばし城砦の壁を見上げた。
聖地の守りの象徴ともいえる、岩のアーチが影を落としている。
やがて彼女は、扉の前に立つ。
【天国の扉】――。
それは、どんな者であれ、頭を下げなければ通れない場所だった。
剣を持つ者も、冠を戴く者も、ここでは地にひざをつく。
――それが、この地の掟。
門兵たちが緊張した面持ちで様子をうかがう中、女は静かに片膝をつき、頭を垂れた。
空気が変わる。誰も声を出さない。
その所作は、威圧ではなく、理解と敬意に満ちていた。
「入れよ」
低い声が背後から響く。
門の横手から現れたのは、聖地の地下施設を管理する男――ソル。
彼は左目を細め、片手で門の側面を軽く叩いた。
ギィ、と木の扉がわずかに開く。
女は立ち上がり、静かに頭を下げる。
そして、扉の向こう側、聖地の中心部、政庁へと歩を進めた。
「久しぶりね、ソル」
口を開いたのは女の方だった。
扉を閉めていた男――ソルは、何も言わずに頷いた。
「ここが変わらず続いていて、安心したわ」
「オレは、あんたが変わってて、安心したぜ」
ソルの言葉に、女はふっと鼻で笑った。
政庁の会議室に、乾いた足音が響く。
長机の奥にいた数名の長老たちが、一斉に立ち上がる。
その中心に立つ黒髪の女に、誰も声をかけようとはしなかった。
ソルは無言のまま、会議室の壁際にある長椅子に腰を下ろす。
女は長机の端に歩み寄り、立ったまま言葉を継ぐ。
「私はアーラン・アル・ファールーク。ラシーディア評議長として、この地に報告と協議に来た」
その名に、小さなどよめきが起こる。
まさか、この地に、彼女が自ら足を運ぶとは思っていなかった者も多い。
「今回の目的はただひとつ。北の地より持ち込まれたと聞いている」
ソルの指先がぴくりと動いた。
「かつて神魔や魔女と呼ばれたような力と重なる記述を含むともされる、未確定の草稿。原典は未確認だが、仮称として伝わっている名は――」
アーランは静かに言葉を置く。
「――『シュケム論』」
政庁の空気が、一瞬で凍りついた。
アーランの言葉に、聖地の政庁内に緊張が走る。
「それが事実であるなら、ラシーディアはその調査と記録の再編に協力する。聖地との連携を、再び強めたい」
それは宣言であり、問いでもあった。
誰も、すぐには答えなかった。だがその沈黙の中で、ソルの表情は変わらなかった。
「我がラシーディアの地で、禁書の写しが出回ったという情報があった」
アーランの声は静かだったが、確かに空気が変わった。
「その出処が聖地であるという可能性を、我々は見過ごすわけにはいかない」
「『シュケム論』は、随分前に、ヴァロニアで禁じられたはずだが」
老人の一人が顔をしかめた。
彼は復興当初から聖地の評議を担ってきた重鎮であり、口調には威圧がこもる。
「それは既に破棄された知識だ。危険な神秘思想と誤認されかねない記述が多い、焚書すべき代物だ」
別の評議員が、同調するように言った。
「魔女の記憶、神魔の伝承――そのような言葉を直接含むわけではないが、触れた者の幾人かが、実際に命を落としている。それは偶然ではなく、あの記述群に内在する何かが、人を蝕む証左と見るべきだ」
アーランはわずかに目を細めた。
「――だからこそ、その『何か』が何なのかを知るべきだと私は考えている」
その言葉に、場内がざわついた。
「評議長殿は、神魔という存在を肯定されるおつもりか? あれはただの象徴概念ではなく、破滅を呼ぶ異端ですぞ」
「否定はしません。ですが、封じ込め、見なかったことにすることが、最善だとは限らない。力とは、理解しなければ制御できない」
アーランの眼差しは、誰の顔も見ず、宙を見ていた。
「私の祖国では、『心の声を読む者』に関する古い言い伝えが、近年になって再び語られ始めている。それは魔女と呼ばれた存在とは異なる。……あるいは、神の記憶に触れた者なのかもしれない――そんな解釈もあります」
その一言に、場がしんと静まり返った。
「評議長。失礼ながら、それはまるで……神魔の存在を認めろという宣言に聞こえます」
「そう聞こえるとしても、私はその是非を語るつもりはありません」
アーランの声に、わずかな熱がこもった。
「私が問いたいのは、ただ――知ろうとせずに排除することが、果たして正義かということです」
誰も、すぐには返せなかった。
政庁の窓の外は、日差しが真上から降り注いていた。
* * * * *
市場の裏路地を抜け、白い城壁に沿って坂を風のように駆け上る。
額の汗を拭ったウサマは、手に持った報酬袋を腰の革紐にくくりつけた。
朝から街角の修繕仕事を手伝い、ようやく昼前に解放されたばかりだった。
十五歳――エブラ信仰ではちょうど成人とされる年だが、まだ少年の匂いを残す肩幅と声。
ゆるく波打った黒髪と黒い瞳、東大陸の血を引く顔立ちは、この光に溶け込むにはどこか影が濃かった。
ウサマは政庁の門へ続く石階段に足をかける。
どうしても確かめたいことがあったのだ。
――西大陸の国から、アーラン評議長が来ているという噂。
街の水売りが言っていた。「ハリーファと、幼なじみだったらしいぜ」と。
父の名が唐突に出てきた時、胸の奥が不穏にざわついた。
二年前に、父と母は、行き先も帰る時期も告げずに一緒に旅立った。死んだのではない。文字通り、旅に出たのだ。
きっと長子の兄は、その事情を知っているのに、二人の事は何も言わない。
だから、自分で確かめるしかなかった。
目の前にあるのは、聖地オス・ローの象徴【天国の扉】。
誰であれ、ここを通るには頭を下げなければならない――それがこの地の掟。
名前こそ荘厳だが、実際はすごく小さな潜戸だ。
中に入るのは、小さいころ、父親に付き添ってきていた時以来だった。
「……大丈夫だ。もう、子どもじゃないんだから」
そう呟きながら、ウサマは一歩、門の内側へ身を沈めた。
――ゴツン。
「……いってぇ……」
思わず額を押さえる。思ったより成長した背丈のせいで、扉の上の壁に頭をぶつけた。
天国の扉の低さに文句は言えない。ここでは誰もが頭を下げるのだ。
ある意味、無理やり、だ。下げなければ通れないんだから。
そういえば、父もここを潜る時、いつも頭をぶつけていたのを思い出した。
顔見知りの門兵の一人が「背ぇ、伸びたな」と苦笑した。
ウサマは何も言わず、軽く会釈だけして足を進めた。
中庭を抜け、政庁裏手の石畳に腰を下ろす。
正面から入っては通されなかったので、いつものように、ソルを待つことにした。
政庁に、アサドの姿は見えない。多分、今は医館で薬草選別をしているはずだ。
(兄さんの知らないこと、確かめたい)
ほんの少しの優越感と、幼い反抗心。
そして――心のどこかに、少し不安もあった。
朝から続く、街のざわめき。
普段は穏やかなこの一角も、今日はどこか空気が張り詰めていた。
やっぱり、あの黒髪の女……きっと、ただの使者じゃない。
気づけば指先で小石を弄びながら、政庁の白壁を眺めていた。
両親の帰還時期のこと。そして、政庁に来ているという女評議長――アーランとハリーファの噂。
ソルに聞いて確かめたい。
そう思った瞬間だった。
――ズン、と頭の奥に何かが落ちたような感覚があった。
目の裏側。鼓膜の向こう。
誰かが「内側に入ってきた」ような……そんな異様な重さ。
(王制を否定した女が、今さら聖地の秩序に口出しとはな)
それは、声ではなかった。
けれど――確かに「聞こえた」。
ウサマは息を止めた。音のした方を振り返る。
だが、誰もいない。近くには通る者すらいない。
(またあの黒髪の女か……気に入らん)
二度目だ。
確かに頭の奥に流れ込んできたのは、言葉のかたちをした思考だ。
そしてようやくウサマは気づいた。
これは、人の口から出た声ではない。
誰かの心の中の声だった。
(ソルが黙っているのがまた不気味だ……何か知っているな、あれは)
三つ目の声が入ったとき、ウサマは無意識に膝を抱えた。
怖いとは思いたくなかった。けれど、体が勝手に拒絶していた。
この場所に居てはいけない。
それなのに、動けなかった。
(評議長の口から『神魔』の名が出るなんて……本気なのか?)
(……ードが死んでいなければ、今ごろは違う政権だった)
(禁書の写本が本当に存在するなら、議会外で処理すべきだった)
会議室の向こうでは、まだ誰かが話している。
けれど、声を発していないはずの誰かの「本音」が、次々と押し寄せてくる。
ウサマは目を閉じ、呼吸を整えようとした。
だが、流れ込んでくる誰かの内側は止まらなかった。
(……ティマ皇女……あれは、確かに……)
(魔性の色で囚われていた奴隷皇子……)
(魔女は、ハリーファ皇子と、その女奴隷と共に追放されたはず)
その名が出た瞬間、ウサマの全身から血の気が引いた。
どうしてここにいないはずの父親の名前が出てくるのか。
しかも、魔女? 皇子?
ふと、政庁の高窓が見えた。
その向こうに、あの黒髪の女の目があった。
女評議長だ。
彼女の目は、まっすぐウサマの方を見ていた。それは何かを知っている目だった。
(まさか、この地で再び、あの血に出会うとは)
その最後の声を聞いた瞬間、ウサマはどうにか立ち上がったが、足が動かずただ立ち尽くしていた。
陽の角度が代わり、政庁裏の通路には、少し影が伸びていた。
石の壁に寄りかかっていたウサマの前に、議会を終えソルとアーランが現れた。
ソルの姿を見て少し安堵する。
さっきウサマと目が合った、この評議長という女の人はものすごく偉い人だ。
ウサマは、とっさに身を低くした。
その仕草を見たソルが、吐き捨てるように言う。
「おい、こら。立て。ここが何処だか忘れたのか?」
そう、ここは神の前では皆等しくある、聖地オス・ローだ。
ウサマが慌てて立ち上がると、その様子をアーランが見つめる。
そして、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……この子が、ハリーファとジェードの子……?」
ソルが、ふっと鼻を鳴らすように何かを制した。
「……ハリーファと、アデル……な」
その言い方には、淡い釘と、さりげない守りが込められていた。
アーランはその言葉に、軽く目を伏せて応じる。
「……ええ。失礼」
それ以上は、何も言わなかった。
(そうだったわ。ジェードは魔女ではなく、人として死んだのね)
ウサマは、また聞こえてくる心の声も聞きながら、ただ立ち尽くしていた。
母の名を呼ばれた。それも、自分の知らない名前で。
今のやりとりの意味は、よくわからなかった。
けれど、どこか奥深くに刺さるような、ざらついた感触だけが残った。
「おい、坊主」
ソルがゆっくりと振り返り、片手をポケットに入れたまま言った。
「悪ぃな。大人の昔話は……ちょっと、めんどくせぇんだ」
ウサマは何も言えなかった。
アーランの目が、静かに自分を見つめていた。
優しくも、鋭くもない。
ただ、何かを知っている者の眼差しだった。
(この子、顔立ちはあの頃のハリーファに似ている。ジェードの面影もある。だけど、ファールークの血統はほとんど感じられない)
心の声が聞こえてきた。
アーランは一歩だけウサマに近づき、問いかけた。
「名は?」
「……ウサマ、です」
「いくつ?」
「十五……」
「そう。ウサマ。高貴な獅子、良い名ね」
彼女はその名を、小さく反復した。
「名前を持つというのは、大切なこと。名は、時に運命を縛る。けれど、あなたはそれに縛られずにいて。あなたはもう成人で、既に自由なのだから」
ウサマには、その言葉の意味がすぐには理解できなかった。
ただ、自分の名を見ず知らずの誰かに肯定されたことが、妙に胸に残った。
「……行くぞ、評議長」
ソルがそっけなく言い、先に歩き出す。
アーランは踵を返し、ウサマに背を向けながら、ひとことだけ残した。
「あなたを見ていると、あなたの母を思い出すわ」
その言葉にウサマは、息を詰めた。
母さん……?
自分は、何を知らないままでいたのか――
それを知るために、歩かなければならない道がある気がした。
政庁の扉が閉まる音が、静かに響いた。




