第39話 十字の墓標
翌朝、ウサマは食料を探しに森へ向かおうと、外に出た。
冷たい朝の空気が頬を打つ。霧は薄れ、まだ淡い灰色の光が森の木々をぼんやりと照らしていた。
家の裏手で、ふと足を止める。小さな丘のふもとに、草むらの中に埋もれるように、木で作られた素朴な十字の墓標がいくつも並んでいた。
草が風に揺れて、墓標の影がかすかに動いていた。
積もりきらない霜が、十字の木にうっすらと白く張りついていた。
どれも名前はなく、色もかすれ、木の端は風雨に削られて丸くなっている。
ウサマは、しばらく黙ってそれを見つめていた。
……あの子は、この十字のすべてを見送ってきたんだろうか。
やがてウサマは、静かに口を開いた。
「……よく、ここまで全部……一人で、やってきたんだな」
口から出た言葉は、慰めでも、同情でもなかった。
ただ、一人きりで命を見送り続けてきた魔女への、まっすぐな敬意だった。
その次の日の夜。
二人で夕食を食べ終え、ウサマは床で寝ようと毛布に包まったところだった。
「お前、……さっさと、ここから出て行きな」
少女が、低い声で、ぽつりと。
「ここに、長居しちゃいけない」
ウサマは毛布に包まったまま座りなおして、少女に向き合った。
「俺……、母さんは、魔女を探してると思うんだ」
「ここから、もっと北の雪の中に、魔女の村がある。そこへ行っておいで。そこに、あんたが探してる魔女がいるかもしれない」
窓の外、夜霧の向こうに、墓標の影が浮かんでいる。誰も語らず、記憶にも残らなかった名もなき命たち。
ウサマはその姿に、少女の沈黙の理由を悟った。心が読めないのは、情を捨てたからだ。
(俺の墓標を、あの人に立てさせたりしない)
翌朝、空は灰色だった。霧はなおも重く垂れこめ、あらゆる輪郭をあいまいにしている。
支度を終えたウサマが外套の裾を握ると、小屋の奥、炉のそばで壺を磨いていた少女がふと顔を上げた。
「……ありがとう」
その言葉に、少女は無表情で返す。
「礼を言うなら、食い物は全部持っていけ。置いていかれても困る」
少女の声は、いつも通りの無愛想だった。
だがその端に、どこか寂しさのような、霧のような温度が混ざっていた。
ウサマは、ちらりと振り返った。
「……あんたは、俺の母さんのこと、知ってるのか?」
少女のような背中は、わずかに動きを止めた。
けれど、答えは返ってこなかった。
ただ一言。
「……答えは、お前の中にあるよ」
それだけを言うと、少女は何も続けなかった。
ウサマは静かに扉を開け、霧の中へと一歩を踏み出す。
「じゃあ、行くよ。ちゃんと、自分の足で魔女の村に行ってくる」
その背中に、最後の声が届いた。
「……お前の墓は、ここには立てないからね」
それは、少女が贈った最大限の祈りだった。
紫の霧を抜けた先で、ウサマは思わず立ち止まった。
……世界が、変わった。
辺り一面、音を失ったように白い。
地面も、枝も、空のふちまでも、すべてが冷たい白に覆われている。
それは霜ではない。凍てついた砂でもない。
ただ、柔らかく、静かに積もった何か。
ウサマは、おそるおそるその白いものに触れた。
指先に、ひやりとした感触が走る。すぐに溶けて、肌の上で消えた。
「……また、幻覚じゃないよな……?」
ぽつりとつぶやく。けれど、目の前の白はたしかにそこにあった。
風が吹き抜け、髪を揺らす。息が白く立ちのぼった。
「これが……雪……?」
聖地では見たことのなかった、冬という季節。
それはただ冷たく、美しく、少し、寂しかった。
足を踏み出すたび、雪が小さくきゅっ、きゅっと鳴く。
風に舞う粉雪が、まつ毛や外套の肩にふわりと積もる。
鳥の声も消え、森の奥からは枝に落ちる雪の音だけが聞こえてくる。
白い世界の中で、それだけが静かに、時を告げていた。
ウサマは、歩きながら一度だけ振り返った。
(……母さんも、ここを通ったのかな)
淡い記憶と、名も知らない足跡を追いながら歩く。
母がヴァロニア人だというのは、本当なのだろうか。
もしそうなら、母は雪を知っていたのだろうか。
(……こう言うの、教えてほしかったな……)
ウサマの足が、雪をザクザクと踏むたび、音がして、そしてその跡はすぐに、風にさらわれて消えていった。
この道がどこに続いているか、まだわからなくても、ただ前に進んだ。
そして、どの位歩き続けただろうか。
つい先ほどまで、ウサマの世界を覆っていた白銀の景色――降りしきる雪、沈黙に満ちた森、凍える風。
それらが、足元からするするとほどけるように、姿を消していく。
(やっぱり、幻なのか? それともこっちが幻?)
気づけば、周囲を包んでいた冷気は和らぎ、足元の雪も湿った土へと変わっていた。
薬草茶の苦味がいまだに舌の奥に残っていて、不思議とそれが、体を守ってくれているような気がした。
前方に、小高い丘が見え、その斜面には、曲がりくねった小道が一本続いている。
その先に、いくつもの煙突と、緑の屋根が並んでいた。
木と石で作られた家々。軒先にぶら下がる無数の薬草。赤い布が巻かれた柱。奇妙な印の刻まれた扉たち。
そこは、今までに見た、どの村にも似ていなかった。
「……ここが、魔女の村……」
つぶやいた声は、どこかへ吸い込まれるように、すぐに消えた。
辺りには、人気がなかったが、確かに視線を感じた。どこかから、誰かが見ている。
ただ、その気配に敵意はなかった。
ウサマは、ゆっくりと歩を進めた。
足元の土は、柔らかく、ぬかるみ始めていた。
村の中心には、枯れかけた噴水があり、その傍らに、人の背ぐらいある作りかけの彫像が置かれていた。
その彫像の上に、一匹の猫が座っている。
黒く艶のある毛並み。静かに揺れる長い尾。瞳は琥珀色で、まるで何百年も前からここにいるかのように、……ふてぶてしい。
ウサマは思わず立ち止まって呟く。
「……お前、ソルおじさんのとこにいたやつじゃないよな……?」
猫は、瞬きをひとつしただけで、じっとこちらを見つめた。
まるで、人の心を読んでいるかのような眼差しだ。
(いや、たしか、あいつは、もう死んじゃったよな……)
やがて、猫はくるりと背を向け、北の小径へと視線を向けた。
彫像の上から、尾だけをぱたぱたと振った。
――この道を行け、と。
ウサマは、黒猫相手に、黙って頷いた。
その瞬間、自分が『外のもの』ではなく、『入ることを許されたもの』になったのだと悟った。
魔女の村は、口を開かない。
だが、全てを見ている。
風が、懐かしい薬草の匂いを運んできた。
ウサマはその香りに包まれながら、村の奥へと、もう一歩、踏み出した。




