第36話 選びに行く者
冷たい霧が、北の森のすべてを覆っていた。
その中を、ウサマは黙って歩いていた。
枯れ葉を踏む音だけが、足元に残る。
肌を刺す空気。
湿った土の匂い。
どこまでも続く、森の音。
だが、その音の中に、森ではない息遣いを感じた。
ウサマは立ち止まった。
背の高いシラカバの木の陰に、人影があった。
それは、女だった。
黒髪をぼさぼさに乱し、薄汚れた外套をまとい、裸足に近い足で、よろよろとこちらに近づいてくる。
女は、こちらに気づいたのか、かすかに目を細めた。
だが、威嚇する様子はなかった。
「……お前、……氷の者か?」
女は、かすれた声で言った。
その口調は、どこか上品だった名残を感じさせるが、今はもう、疲れきったただの旅人のようだった。
ウサマは、警戒を解かないまま、数歩だけ後ろに下がった。
女は、それを見て、かすかに笑った。
「……ああ、よかった、違うのね……」
女の外套の裾には、泥がこびりついていた。
手には傷。顔にも、打撲の跡がうっすらと残っている。
ウサマは、慎重に言葉を選んだ。
「……どうしたんだ?」
女は、肩をすくめた。
「逃げてるのよ。――魔女にされてしまったから」
かすかな自嘲が、声に滲んだ。
ウサマは、じっと女を見た。
心を読むまでもない。
この女は、魔女ではない。
ただ、追われ、傷つき、彷徨っているだけだ。
女は、木の根元に座り込んだ。
「……あんたは、どこ行くの?」
ウサマは、一瞬だけ迷ったが、答えた。
「……北へ。魔女の村を、探してる」
一緒に連れて行くべきか迷っていると、女はぼんやりとした目でウサマを見た。
「――魔女なんて……、いいもんじゃ、ない」
女は、静かに言った。
「本物でも、偽物でも……魔女になったら、もう、戻れない」
ウサマは、心の奥が、微かに軋むのを感じた。
女は、それ以上何も言わなかった。
ただ、冷たい地面に身を預けるように座り続けていた。
ウサマは、何かを言いかけて、やめた。
言葉は、森の中に飲み込まれていった。
数歩、後ずさる。
女は、ただ遠くを見るようにして、かすかに呟いた。
「……さっさと、行きな……」
それが、別れの言葉だった。
ウサマは、背を向け、霧の中へ歩き出した。
背後で、女の姿はすぐに見えなくなった。
ただ、その声だけが、耳の奥に残った。
――魔女になったら、もう、戻れない。
森は、なおも冷たく静かだった。
だが、空気が、どこかおかしい。
ウサマは、歩きながらふと立ち止まった。
木々の間を吹き抜ける風に、金属のかすかな軋みを感じた。
すると、誰かの心のざわめきが、聞こえた。
(……逃げた女を捜せ……)
(……黒髪の子供もいたはずだ)
ウサマは、目を細めた。
遠くない。
すぐそこに、複数の気配がある。
エルセラを追ってきた奴らと同じだ。
白い外套。剣と短弓。
そして、秩序の名のもとに、魔女狩りを行う者たちの『声』。
ウサマは、息をひそめ、木立の陰に身を滑り込ませた。
まだ見つかってはいない。
だが、時間の問題だ。
心を、もっと深く澄ませる。
――何人いるんだ?
(……黒髪の子供なら、すぐ……)
(……逃げた女も……かもしれない)
三人だ。
それぞれ、森の中を散開しながら、獲物を探している。
ウサマは、無意識に拳を握った。
戦うか? 逃げるか?
その時だった。
ふと、心の奥で、何かが震えた。
周囲の兵士たちの心の声が、より鮮明に聞こえてきたのだ。
ただのざわめきではない。
まるで、彼らの思考が、すぐ耳元でささやかれているかのように。
(……このあたりに、匂いが残ってる)
(……足跡も、新しい)
ウサマは、ぎゅっと歯を食いしばった。
わかる。次に彼らがどう動くかが、読める。
これは、ただの勘じゃない。
ウサマ自身の力だ。
心を読む力。
森の影に溶けながら、ウサマは素早く判断した。
今なら、左の斜面を降りれば、見つからない。
足音を殺し、木立をすり抜けた。
追跡者たちは、気づかない。
心の声が、まだ違う方向を指している。
ウサマは、霧の中を駆けた。
枝が顔をかすめ、泥が靴を濡らす。
だが、止まらない。
……もっと早く……もっと遠くへ。
冷たい空気が、肺を焼く。
獣のように静かに、走った。
そして、森の中の朽ちた橋を越えた時、追跡の気配が、完全に遠ざかった。
ウサマは、大きく息を吐き、膝に手をついた。
額から、汗がしたたり落ちる。
だが、その胸の奥には、恐怖とは違うものがあった。
自信とも少し違う、確信が生まれた。
自分には、できる。
この異能力を使えば、誰にも捕まらない。
だが同時に、心のどこかで、冷たい予感もあった。
この力は、一体何なんだろう?
魔女の血?
神魔の血?
ウサマの中で、それはまだ答えを持たないまま、静かに芽吹いていた。
そして、魔女のばーちゃんは、心を読まないようにしろと言っていた。
冷たい風が、森を吹き抜ける。紫色の霧があたりに広がり始めた。
ウサマは、視界の悪い中、再び歩き出した。
誰にも支配されず、誰にも捕まらず。
ただ、母を探すために。
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森を抜けた先に、小さな丘があった。
紫の霧が、そこだけ薄れている。
ウサマは、疲れた足を引きずるようにして、静かに登っていった。
霧の向こうの空は、鈍い灰色。風は止み、世界は息を潜めている。
丘の頂には、裂けた幹とねじれた枝を持つ、一本の枯れた大樹が立っていた。
その根元に、二人の姿があった。
長身で、金の光を帯びた髪の男。
黒髪と漆黒の瞳をもつ、静かな女。
……その姿は。
探し続けた、父と母――ハリーファとアデル。
ウサマは、思わず歩みを止めた。
声をかけることもできず、ただ、二人を見つめる。
二人は何も言わない。ただ、そこに立ち、ウサマを見つめ返していた。
怒りも、悲しみもない。
けれど、その瞳の奥に、深い慈しみと痛みが滲んでいた。
ウサマは、震える声で、やっと言葉を絞り出した。
「……母さん、父さん……どうして、行ったんだよ」
風が、返事の代わりに吹き抜けた。
けれど、彼の胸に届いた気がした。
(――選ぶためだ)
それは、声ではなかった。
だが、はっきりと、心に刻まれた。
(――あなたたちに、未来を残すために)
アデルが、静かに微笑んだ気がした。
ウサマは、胸の奥で何かが軋むのを感じた。
「……でも……残された俺たちは、どうすればいいんだよ」
涙のようににじんだ声は、空に消えた。
ハリーファが、そっと手を差し出した。
だが、その手は空を掴んだまま止まった。
見えない壁が、父と子のあいだにあった。
……時が止まったようだった。
ウサマの内側に、誰の声とも知れぬ言葉が、静かに湧きあがった。
――進め。
――選べ。
――誰のためでもない、自分のために。
ウサマは、ぎゅっと目を閉じた。
そして、静かに目を開ける。
そこにはもう、誰もいなかった。
ただ、霧の丘の上に、枯れた大樹がひとつ、風もなく立っていた。
ウサマは、深く息を吸った。
胸の中に残ったぬくもりが、まだそこにあった。
孤独は消えない。けれど、空虚ではない。
彼は、再び歩き出した。
母を探すために。
そして、自分自身を見つけるために。
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