第33話 君が正しいと思うもの
《断章Ⅰ:信仰とは》
信仰とは、心を縛るものではない。
神を恐れる者よ、まず己の自由を問え。
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炎派の女に連れてこられた所は、かつて小貴族の城として栄えた石造りの屋敷だった。
今や風雨に晒され、崩れかけた塔と蔦に覆われた壁だけが、往時の名残を留めていた。
だが、その内部には、今も使われる地下通路といくつかの部屋が残されている。そこが、炎派の隠れ家のようだった。
ノアとカイは、無言の案内役に導かれながら、鉄の扉をくぐる。
中庭には焚き火の残り火がほのかに揺れ、廃墟となった城にかすかな人の気配を伝えていた。
武装した者たちが、影の中でじっと佇んでいる。氷派の兵ではない。彼らは、隠された炎の印を胸に抱く者たちだった。
ノアは警戒を抱きながらも、心を澄ませて周囲の気配を探る。
(……炎の女王を王座へ)
(……復讐を果たす、その日まで)
燃えるような誓い。だがその奥底には、怯えと焦燥も混じっていた。
隣を歩くカイの心も、ノアには聞こえている。
(……油断するな。誰も信用するな)
それでも、カイは剣を抜かず、静かにノアの背を守っていた。
案内役の女が城の奥、崩れた階段を抜けて大広間へと導いた。
そこで待っていたのは、ホープと同世代と思しき男だった。
目は鋭く、言葉以上に多くを測る男のようだった。
「ようこそ。君たちが噂の旅人か」
穏やかな声の奥には、鋼のような緊張が漂っていた。
(ルザーン港からの報せ通り……。ヴィンセントに似た風貌の青年と、黒髪の青年。禁書を探す、二人組の若者――間違いない)
ノアは黙って胸元の紙束に手を添えた。
「禁じられた書を求めて国を渡るとは。随分と無謀だな」
男は苦笑しつつも、その目に興味の色を滲ませた。
「だが、我々にとっては好都合でもある」
ふたりを見つめながら、男は静かに問う。
「君たちは、どちら側だ?」
炎か、氷か。あるいは、どちらにも属さぬ第三の者か。
名を問われるより重い問いだった。
ヴァロニア王家に仕えるカイの家は、氷派のはずだ。
ノアは、カイの心の警戒を感じ取りながら、一歩前に出て答えた。
「僕は、誰かの旗の下に立つために来たんじゃない」
言葉は静かだが、迷いはなかった。
「正しいと思うものに力を貸す。それだけだ」
短く、だが芯の通ったその言葉に、広間の空気が微かに揺れた。
男は口角を上げる。
「……なるほど。では、今は『自由』意思を尊重しよう」
周囲の兵たちがざわつくが、男は手を上げて制した。
「君たちには、その『正しさ』を見極める機会を与えるとしよう」
案内役が再び前に出て、静かに言った。
「今夜はここでお休みを。明日、お二人をリナリー様のもとへお連れします」
その名が発せられた瞬間、空気がひやりと張り詰めた。
カイも、ノアも、それぞれの思いを胸に黙って頷いた。
――すべての始まりと終わりを握る女。その出会いは、すぐそこまで迫っていた。
仮眠部屋に案内されたノアとカイは、
重たい木の扉をくぐり、小さな石造りの部屋に入った。
部屋には、粗末な寝台が二つ。その上に毛布と、かろうじて火の残る暖炉があるだけだった。
それでも、外の冷たい空気に比べれば、ここは天国のようだ。
ドアの向こうから、鍵がかけられる音が聞こえた。
(……まあ、当然か)
ノアは内心で苦笑した。
信用されていないのはわかっている。
それでも、追われる身にとっては、寝床があるだけで十分だった。
カイが、寝台にどさっと腰を下ろした。
外套を脱ぎ、剣だけは手元に置いたまま、カイはぽつりとつぶやく。
「……やっと、座れた」
緊張を解いたその声に、ノアは少し安心した。
地下印刷所で剣を抜いた瞬間から、カイがずっと緊張を解かなかったことに、ノアは気が付いていた。
「……なあ、ノア」
カイが、少し顔を上げた。
「さっき言ってた、リナリー……って、知ってる?」
「……確か、シーランド王国のアンリ王の母親、だよね?」
(ノアって、ホントに、何でもよく知ってるんだな)
心の声も聞こえた。
「うん、それに、ギリアン陛下の姉君だ。でも、本当に、本物かな? まさか、ここで、そんな大物に会うことになるなんて……」
「カイ、君、大丈夫なの? 身元とか、家名とか……」
ノアが気遣うと、カイは寝台に腰かけたまま、腕を組んで天井を見た。
「……正直、あんまり大丈夫じゃない、かもしれないな。僕らが生まれる前だけど、ヴァロニアでは陛下とリナリー殿下で、王位を巡る内戦があってさ」
「うん、それも聞いたことあるよ」
「ギリアン陛下が勝ったんだけど、その所為でリナリー殿下は、ノクシアル家やヴィンセント卿のこと、相当憎んでるはずだ。人質にされるか、すぐに殺されても、おかしくないくらい……」
ノアは青褪めた顔で沈黙する。
ふうっと息をつき、カイは髪をかきあげて笑いだした。
「ってことは……やばいのは、僕じゃなくて、ノアの方じゃない?」
「えっ、なんで僕が?」
ノアが振り返ると、カイはに少し口角を上げた。
「だって君さ、あのヴィンセントに……血も繋がってないのに、母上が倒れたくらい似てるんでしょ?」
「……」
「僕なんか甥だけどさ、黒髪だし、多分あんまり似てないから、言わなきゃ気付かれないよ。それに比べて君は、まるで幽霊が歩いてるみたいに似てる」
ノアは火をつつきながら肩をすくめた。
「……確かに、知っている人は、みんな『似てる』って言うね……」
「マジで、斬られるかもよ? 『貴様、ヴィンセントか!』って」
カイがふざけたように言うので、二人は少しだけ笑い合った。
その笑いには、わずかな緊張と連帯感があった。
しばらくして、カイが呟くように言う。
「ノア、さっきのさ、……正しいものに力を貸すって。……本気で言った?」
ノアは、暖炉の前にしゃがみ、くすぶる火をそっとかき立てながら、答えた。
「うん。本気だよ」
火が、ぱちりと音を立てた。
ノアは火を見つめたまま、続けた。
「僕は、どこの国にも属していない。でも、たとえ、誰の旗の下にいようと、……親が誰とか、どこに生まれたかとかじゃなく、自分の正義も、自分で選びたいんだ」
カイは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……うん、やっぱり、ノアはノアだな」
気負いも皮肉もない、素直な声だった。
カイは、寝台にごろんと倒れ込み、天井を見上げながら言った。
「僕はさ、正しいものとか、まだよくわからない。でも――」
(親が誰とか、どこに生まれたかとかでもなく……か)
天井を見上げたまま、カイはぽつりと続けた。
「今は、ノアが選ぶ道に、僕もついてくよ。僕は、自分の目で見たものを、信じるために」
「……ありがとう、カイ」
ノアは、静かに答えた。
火の音が、ぱちぱちと暖かく響いた。
それは、この城のどこよりも小さな灯りだった。




