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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第4章 嘘の名前

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第32話 君を守る剣となり

《断章Ⅶ:言葉の力》

言葉とは剣である。

だが、誰の手にあるかで、祝福にも呪いにもなる。

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 階段を降りきると、そこは静まり返った小さな地下室だった。

 ノアは手にしていた小型ランタンを掲げ、淡い光で空間を照らす。石壁に囲まれたその部屋は、かつて学びと思想が息づいていた場所の名残をとどめていた。

 焦げた羊皮紙の破片、傾いた棚、割れたインク壺。散乱する遺骸たちが、焼き払われた過去を物語っている。

 部屋の中央には、壊れた印刷台がひとつ。ノアは、すぐに気づいた。

 焼き損ねた紙束が、壁の隅に押し込まれるように残されている。火の跡はない。

 息を殺し、ノアはゆっくりと歩み寄る。手に取ったそれは粗末な羊皮紙だったが、間違いなかった。

 かすれた筆跡で書かれた一節――それは、禁書『シュケム論』のものだった。



   自由とは、恐れからの解放である。

   信仰とは、服従ではない。



 震える指先で、ノアはさらにページを繰る。断片的とはいえ、確かな思想の火種が、ここに残されていた。

「……あった! これだよ……!」

 声に出したその瞬間――

 階段の上で、硬い靴音が鳴った。

「誰だ!」

 怒声が響き、松明の炎がちらついている。剣を抜く音とともに、氷派の兵士たちが一斉に降りてくる。

 ノアは咄嗟に身を引いた。が、彼らは容赦なく突入してきた。

「伏せろ!」

 カイの声が響いた。

 カイはノアの前に躍り出て、細身の剣を抜き放つ。

 ひと閃。鋼が火花を散らし、迫る刃を弾いた。

 金属音が、地下室に鋭く響く。

 もう一人の兵の腕を薙ぎ払うように斬り払う。

 カイの剣に、迷いはなかった。彼はただ、ノアを守るためだけに、そこに立っていた。

 ノアは紙束とランタンを胸に抱え、彼の背中を見上げた。

 ――強い。

 闇の中でもわかる。剣の軌道、足さばき、すべてが洗練されていた。

 王に仕える騎士の血は、確かにカイの中に流れていた。

 だが、敵の数が多すぎる。

(くそっ、きりがない!)

 カイの心の声が、ノアに伝わった。

 ノアは周囲を見回し、崩れた棚の奥に小さな隙間を見つけた。

「……こっちだ!」

 かつての通用口だったのだろう。ノアはカイの腕を引いた。

「逃げよう!」

 カイは即座に頷き、ノアを先に押し出す。

 最後まで敵を食い止めてから、素早くその後を追った。

 二人は地下工房の裏口から、夜霧に沈むベルダールの闇へと飛び出した。





 石畳の濡れた路地を、ふたりは駆け抜ける。

 霧が視界を奪い、背後では追手の足音が響いていた。

 ノアは紙束を抱え、足をもつれさせながらも必死で走る。

 隣では、カイが振り返りもせず、無言で並走していた。

 やがて、廃屋の裏手へ転がり込むように身を投げ、ようやく足を止めた。

「……っ、はぁ、はぁ……」

 ノアは肩で息をしながら、カイを見た。

 汗が顔を伝い、外套は泥に汚れている。だが、剣を握る手は揺るがない。

「……ありがとう、カイ」

 ノアが息を整えながら呟く。

 カイは肩をすくめ、小さく笑った。

「礼なんていいよ。無事で何より」

 その笑みは、少しだけ誇らしげだった。


 そのとき、霧の向こうに人影が現れた。

 黒い外套をまとった女が、無音の足取りで近づいてくる。

 ノアとカイは即座に身構えた。

 だが、女はゆっくりと手を上げた。敵意はない、という合図だろう。

「あなたたち、逃げるのに、手を貸してあげましょうか?」

 涼やかな声が、霧を滑る。

 外套の胸元には、炎の刺繍。氷の印とは異なる紋章。

「……炎派か」

 カイが低く呟いた。

 女はにこりと微笑む。

「あなたたちがここで捕まっては困るのよ」

 ノアは紙束を胸に抱え直した。

 希望を、思想を、守るために――

 カイがノアを一瞥する。ノアは頷いた。

「……案内してもらおう」

 女は笑みを深め、踵を返した。

「夜明けまでに、ここを離れましょう」

 三つの影が、霧のベルダールを駆け抜けていった。


 女の足取りは澱みなかった。

 迷いも戸惑いもない。まるで、夜の迷宮が地図でもあるかのように。

 ノアとカイはその背を追った。

 交差する路地、水路沿いの抜け道、物置小屋の裏――

 すべて女の導き通りだった。

 氷派の巡回兵が近づくと、女は影に身を沈め、一瞬で気配を消す。

 その手際に、ノアは内心で息を呑んだ。

 ノアは、女が嘘をついていないか、慎重に心を澄ませながら歩いていた。

 この女は、訓練されている。間違いなく、炎派の地下活動員だ。

 ノアには、女の心の声が聞こえていた。

(……彼らを、必ず連れて行かなきゃ。あの方の所に)

 女は、本気で、彼らを守ろうとしている。

 ノアは、静かに息を吐いた。

 だが、隣のカイは違った。

 カイは、冷ややかな視線で女の背を見据えていた。

 手は剣にかけずとも、警戒の意は明らかだった。

 カイは、神聖なる血統を重んじるヴァロニアの騎士だ。氷派の系統であるギリアン王に忠誠を誓った家の長子。

 炎派を『敵』として育った者にとって、心を許す理由などない。

 カイの心もノアには届いていた。

(……信じるな。これは罠かもしれない。僕らが必要なのは、あいつらの正義じゃない)

 カイから、今まで感じたことのない、剣のように鋭く冷たい思考だった。

 だがノアは、その声を否定しなかった。

 信じるか否かは、自分で選ぶものだ。

 ノアは何も言わず、ただ静かに歩いた。




 やがて、古い屋敷の裏手にたどり着いた。

 使用人が使う小さな鉄の扉を、女が指で叩く。

 コツ、コツ、コツ、コツ、コツ。――五回。

 直後、内側で錠が外れる音が響いた。

 女は二人を振り返る。

「……ここから先は、あなたたち次第よ」

 ノアには、その笑みが偽りでないとわかった。

 だが、カイの目にはまだ霧がかかっている。

 その警戒は消えない。

(……敵か味方か、まだわからない。……信じるのは、ノアだけだ)

 その心も、ノアには聞こえていた。

 ノアはカイと目を合わせた。

 信じろとは言えない。

 けれど、ただ、視線で伝える。

 一緒に行こう、と。

 紙束を胸に抱きしめ、ノアは静かに扉の向こうへと踏み出した。

 たとえ見えている景色が違っても、信じる道を、ともに。

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