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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第4章 嘘の名前

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第30話 道を迷った者へ

《断章X:名と声》

名は記されずとも、祈りは届く。

声は残らずとも、選びは継がれる。

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 森の中は、外の世界とまるで空気が違っていた。

 踏み込んだ途端、空気が一段冷たくなる。

 風もないのに、木々がわずかに揺れている。

 ノアは立ち止まり、目を閉じて耳を澄ませた。

 鳥の声、木の軋み、どこか遠くで水の流れる音――

 そのどれもが、言葉ではないけれど、語りかけてくるようだった。

「……森の中って、こんなに音が多いんだね。巡礼の道の木立とは全然違う……」

「街より喋ってる、って感じがするな」

 都会育ちのカイが、肩を竦める。

 木漏れ日はいつしか途切れ、森の影が色濃くなっていく。

 少し先に、炭のように黒ずんだ小さな石が、道の端に転がっていた。

 そのすぐ横に、何かが灰のように散っている。

「……ここ、何かが燃えた跡だ」

 ノアがしゃがんで、指先で灰をすくう。

 香のような匂いがした。甘く、すこし焦げくさい。

 ふたりはもう一度、森の奥を見つめた。

 そこには、ただ緑の濃淡だけが広がっていた。

 でも、確かに気配があった。

 誰かが、何かが、こちらの存在に気づいているような沈黙。

「……進もう」

 ノアが言った。

 カイは頷き、歩き出す。

 そして、二人は、森の闇の奥へと足を踏み入れた。

 森の奥へと進むにつれ、地面にはところどころ踏みならされた痕があった。

 雨の後にもかかわらず、草が倒れている。誰かが、確かにここを通った形跡だ。

「……ここ、人が歩いた跡だ。最近かな」

 ノアが指さした先には、小さな獣道のような分岐がある。

 その奥を進むと、空気が微かに変わった。

 湿気の中に、焚き火の匂い。それも、新しいものが混じっている。

 やがて、木々がわずかに開けた場所に出た。

 そこには、古びた石造りの小屋があった。

 苔むした屋根、崩れかけた石壁。だが、扉は新しい木板で補強されている。

「……誰か居るかな?」

 カイが小声で言った。

 ノアは扉の前で立ち止まり、そっと手を伸ばす。

 だが、鍵はかかっていなかった。

 きぃ、と木がきしむ音とともに扉を開ける。

 中には、焚き火の跡があった。炉ではなく、床石の上に直焚きされたものだ。

 煙の匂いはまだ微かに残っている。

 棚には乾かした薬草の束、古い薬壺、窓際のテーブルには古びた本と石の置物。

 天井にも干したラベンダーが吊るされていた。

 ノアはテーブルの上に忘れられた布を手に取った。

 縁に、刺繍がある。薄くなってはいたが、小さな鳥の模様が施されていた。

「……この部屋、似てる……」

 ノアが呟く。

「何に……?」

「……僕の家の、母さんの仕事部屋。違うんだけど、何か……似てる」

 ノアはそう言って、布をそっと畳んで、元の場所に置いた。

 カイは窓から外を見ながら言った。

「森で薬草、布に鳥の刺繍……女の人の隠れ家だったのかな」

 部屋には、もうひとつ気になるものがあった。

 壁の奥、小さな棚の上に置かれていた書き置き。

 本の一ページが破られ、その裏に黒のインクで文字が書かれていた。




   迷って、ここにもどってきたのなら、母ではなく、父のところへ向かいなさい




 ノアは、手を止めた。横からカイも覗き込む。

 優しさと決意の混じった、女性の筆致だ。だが、そこに母の字の癖はなかった。

 アデルからたくさんの事を教わったノアは、母のちょっと子どもっぽい字も覚えている。

「ここにいた人が書いたのかな……」

 ノアの声が、森の静けさに吸い込まれていった。

「……なんだか、魔女の呪符みたいだね」

 横からのぞき込むカイが言った。

(何て書いてあるんだろ?)

 その心の声に、ノアははっと気が付いた。

 思わずカイを見つめる。

 カイには、この字が読めていないのだ。

「……カイ、これは、ファールーク語だよ……」

「ファールークって、ファールーク皇国? 確か、そこ滅んだよね? 君、読めるの?」

「うん。ウサマも、読める」

「何て、書いてあるの?」

「迷って、ここに戻ったのなら、母ではなく、父のところに行けって、書いてある」

「ウサマもここに来たのかな? 確か、ウサマの目的は、母親探しだよね」

 残された痕跡は少なかったが、そこにウサマの気配は、確かに残っていた。

 ノアは、手紙を手に取った。

 そこには、ファールーク語でたった一行書かれているだけ――

 しかし、その筆致は柔らかく、優しさと決意が混ざっていた。

 もちろん、ウサマの字でも、父の字でも、母の字でもない。

 誰だろう……。

 まるで、祈りのような文字だった。

「……これ、誰かが、大切な人に残した手紙だと思う。でも、なんでファールークの文字何だろう……」

 ノアがそっと呟いた。

 そして、その紙を裏返した瞬間、ノアは息を止めた。

 黒インクで刷られた、整然とした文章。

 インクのにじみ、文字の形、紙の質。明らかに印刷されたものだった。

「……カイ、これ、本のページだ」

 ノアが目を凝らす。

 裏には、こんな言葉が記されていた。



   五つの宗派は、五つの民に過ぎない。

   各々が神を見たと語り、見たのは己の心の鏡だった。

   それを真実と呼ぶならば、神とは選びであり、名ではない。



 ノアは目を見開いた。

 あの断章――『シュケム論』の一節と酷似している。

「……これ、禁書だ……」

「その裏に、手紙?」

 カイが眉をひそめた。

「うん……きっと、どこかにあの本があって、それを破って、使ったんだ」

 ノアは震える声で言った。

「でも……それがどこで刷られたのか、それが分かれば、辿れる」

「この紙が来た場所に行けばいいってことだな」

 カイの声が低くなる。

 紙の端には、鉛筆のようなかすれた記号があった。



  Berdahl Verlag

  No.46



「……ベルダール印刷所……、これは製本番号かな?」

「わからないけど、何かの印だ」

 言いながら、ノアは紙をそっと元の場所に戻した。

「これは……置いていこう」

「え?」

 カイが首をかしげる。

「多分、これは誰かのために残されたものだよ。旅の途中で迷った誰かが、ここに戻ってきた時に。その人の為にって」

 そう言ってノアは、荷から自分の記録帳を取り出した。

 細くて硬い鉛筆を手に取り、紙の一文字ずつを、正確に、静かに写し始める。

 表に書かれた手紙も、裏の印刷文も――

 丁寧に筆写していく。

「……うわ。うまいな。職人じゃん」

 カイが思わずつぶやく。

「転写、昔からやってたから」

 ノアは少しだけ照れくさそうに笑った。

 書き終えると、紙をそっと元の場所に戻し、記録帳を閉じた。

「誰が書いたかも、誰に宛てたかも分からないけど……届けようとした気持ちも、ちゃんと記しておきたかった」

 その声には、静かな誓いのようなものが宿っていた。

 ふたりは、再び森の道へと足を踏み出した。



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