第3話 名前を聞いてはいけない
逃げるように、金髪の少年――アサドはその場を去った。
足音だけが耳に残る中で、胸の奥には妙なざらつきが残っていた。
アサドにとって、人は二種類いる。
心の声が聞こえる人と、聞こえない人。
ホープ・ノクシアルは前者だった。
彼がただの騎士ではなく、ヴァロニアの王家に仕える者だということ。
そして、オス・ロー政庁の政務官室に住みついている怪しげなおじさんの正体――
本人の口からではなく、他人の心からすべてを知ってしまった。
空には真昼の光が広がっていた。
家の前に立ったアサドは、呼吸を整えて扉を押す。
そこには、いつもと変わらぬ母アデルの姿があった。
書見台に向かい、淡々と文字を写している。黒髪が静かに垂れ、横顔はどこか夢の中にいるようだった。
その姿を見て、アサドはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「母さん……父さんは、いつ帰ってくる?」
「おじさんの依頼で出かけたわ。おじさんに聞いてみたら?」
母は顔を上げず、さらりと答える。
彼女は、後者だ。
そしてアサドのことを、その力ごと受け入れている、唯一の存在だった。
「どうしたの? また何か聞こえたの?」
その言葉に、アサドは小さく首を横に振る。
今、おじさんのところに行っても、さっきの騎士と話をしているはずだ。
翌朝、アサドは【天国の扉】の奥にある、地下水路のある整備区画へと向かった。
朝の風はひんやりとしていたが、石の下はすでに熱を帯び始めている。
泥水の跳ねる音が響く中、全身泥まみれで作業していたのは、オス・ローの地下整備技師、ソルだった。
年齢不詳、多分父と同じくらい。右目を眼帯で覆い、黒い肌に無精髭。
口は悪く、態度も適当。けれど妙に人望がある。
アサドはこの男のことを、正体不明で危なそうな大人として見ていた。
「アサドか。珍しいな、お前が中に来るなんて」
ソルはツルハシを地面に突き立て、汗をぬぐった。
「おじさん……父さんは、いつ戻りますか?」
「ああ? 二週間後だ。……急ぎの用か?」
アサドは首を横に振ったが、目は離さなかった。
このおじさんも後者だ。
母や妹弟と同じで、心の声が一切聞こえないタイプだ。
昨日のホープ・ノクシアルから読み取ったことで、ソルの素性も想像以上に危険だとわかってしまった。
「じゃあ、ちょうど休憩だ。聞くだけでも聞いてやるよ」
そう言って、ソルは地面に座り込み、泥だらけの手をぶらぶらさせながら言った。
しばらくの沈黙の後、アサドは低い声で言った。
「……実は、オス・ローにヴァロニアの騎士が来てて」
「ああ? 来た来た。昨日な」
「何しに来たんですか?」
「お前には関係ねぇ話だよ」
ソルの返答はぶっきらぼうで、表情もいつもどおりだった。
けれどアサドはその目の動き、息の間、微細な顔筋の緊張を読み取ろうと必死だった。
「……その人、ジェードっていう人を、探してるって言ってましたか?」
「ジェード? 何の話だ?」
ソルは片眉を上げて返す。眼帯の下の目は見えないが、視線を遮るようにそらした気がした。
「その人の双子の姉で、黒髪だって」
「黒髪なんて、ここにはいくらでもいるだろ」
さらりとした口調。だが、それはアサドにとってはごまかしの常套句に聞こえた。
ここで自分の持っている手札を出す。
「……僕、父さんが夜中に、母さんのことを『ジェード』って呼んでるのを聞いたことがあるんです」
「…………」
その一言に、ソルは手で顔を覆って、しばらく沈黙した。
やがて、深くため息をついた。
これは、間違いない。何か知っている反応だ。
「急ぎじゃなければ、ハリーファが戻るのを待っとけ。アデル本人には……聞くな。わかったな」
アサドは、黙ってうなずいた。
数日後、ホープ・ノクシアルが聖地を発つという話を耳にした。
アサドはなぜだかいても立ってもいられず、ふらりと門のほうへ足を向けた。
門の前には、すでに荷を積んだ馬と、ひとり立つ騎士の姿。
金髪の少年は、迷わずその背に声をかけた。
「ノクシアル様! お姉さんは、見つかりましたか?」
「……残念ながらね」
ホープは振り返り、微笑んだ。その顔には、どこか疲れたような、それでいて満たされたような表情があった。
「でも、オス・ローに来てよかったよ。君に会えたから」
そう言って、懐からひとつの紙片を取り出した。小さく折りたたまれた羊皮紙。
「これは、ぼくの名前と住所。……もしヴァロニアに来ることがあったら、訪ねてきてほしい。君に、どうしても、もう一度会いたいから」
アサドは戸惑いながらも受け取る。
「どうして……僕に?」
(――やっぱり、似てるな。ヴィンセントに)
ホープは少年の顔をまっすぐ見つめて、言った。
「君は……ぼくの知っている人によく似てるんだ。最初に会った時から、どこか親戚のような気持ちがしてた」
アサドは、その言葉が嘘ではないとすぐにわかった。
ホープの声も、目も、あの時とは違っていた。本当に、信じてもいい人なのかもしれない。
「……わかりました。僕はアサドです。ノクシアル様も、絶対、また来てください。次に来る時までに、必ずジェードって人を見つけておきますから」
ホープは笑ってうなずいた。
その笑顔は、まるで遠い昔から知っていた人に向けるようなものだった。
少年は彼の姿が角を曲がって見えなくなるまで、その場を動けなかった。
懐にしまったメモが、胸の中で重たく、熱く感じられた。
(この紙は……母さんには、まだ見せられない)
家に帰ると、土間には弟のウサマがいた。母の姿はなかったが、弟が妹サライを抱き上げ、激しく振り回して笑わせている。
そして、弟も妹も――後者だった。
黒髪に黒い瞳。誰よりも素直で、誰よりも自由な弟。
アサドはふと、そんな弟の姿を見つめながら思った。
(母さんの、双子の弟……。兄弟って、きっと、かけがえのない存在なんだ)
だからこそ、もし本当に二人が双子の姉弟なら、母にも、あの人と再会してほしかった。
アサドは自分の中に芽生えたその想いに、はっとする。
気づいたときにはもう、体が動いていた。
アサドは家を飛び出し、石畳の坂を下る。風の中を駆けた。
――けれど、間に合わなかった。
門の前に、ホープの姿はもうなかった。
アサドは肩で息をしながら、門の外を見つめた。
どこかで、風の音が鳴っていた。
* * * * *
それから数日後の夕刻。風が涼しくなりはじめた頃――
扉が軋む音とともに、父ハリーファが、ようやく仕事から帰宅した。
年齢は三十一。伸びた金髪は束ねられ、深く澄んだ翠の瞳が、静かに辺りを見渡している。
背が高く、整った輪郭と落ち着いた声。
そして、父の右の頬には、薄く残る十字の古傷。若い頃の戦で負ったというその痕跡は、今では彼の厳格さよりも、むしろ静かな威厳を際立たせていた。
あまり鏡を見ることはないが、アサドは自分が父に似ていると言われることが誇らしかった。
「……ただいま」
ほんのひと言。それだけで、空気が変わる。
家族の歓迎の騒がしさから少し離れて、アサドは父を二階の書き物部屋に誘った。
この部屋は窓が小さく、光も控えめで、家の中でも特に静かな場所。
階下の声がほんのり届く中、軋んだ木の床を踏みしめて、ハリーファがその部屋へと入ってくる。
父と自分だけの、限られた時間。
アサドは顔を上げ、その姿を見つめた。
自分と同じ金髪、同じ翠の瞳――。だが、父の瞳の奥には、自分がまだ持っていない何かがあった。
父親も、――後者だ。全く心の声は聞こえない。
アサドは覚悟を決めて、問いかけた。
「父さん。ジェードって……?」
ハリーファは一瞬、驚いたように眉を動かしたが、すぐに視線を落とした。
(ああ……この話、来たか)
心が聞こえたわけではない、父の顔に書いてある。父はソルよりずっとわかりやすい。嘘がつけない人なのか、そもそも嘘が少ない。
「……アサド。お前には、本当のことを伝えておく」
父は、ゆっくりと静かに語った。
「ジェードと言うのは、アデルの《《本当の名前》》だ。アデルはヴァロニアの出身で、十七歳で死んだことになっている。生きていると知られてはいけないんだ」
アサドは目を伏せたまま、問いかける。
「母さん……命を狙われてる、とか?」
「いや、そんなことはない。仮にそうだとしても、俺が守る。それにアデルだって、そう簡単にやられるような女じゃないだろ」
言葉に、わずかな誇らしさがにじんでいた。
「じゃあ……母さんは、ヴァロニアのお姫様、か何か?」
「……いや、羊飼いだった、と思うが……?」
父の返しに、思わず吹き出しそうになった。
アサドはそっと、懐のメモに手をやった。
それは、小さくて、でも重たい――旅のはじまりを告げる記憶だった。




