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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第4章 嘘の名前

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第29話 沈黙と雨の道

《断章Ⅲ:神と人間》

神は裁かない。

裁くのは、神を語る人間である。

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 朝もやが晴れきらぬ頃、ノアとカイは北へと向かった。

 潮の匂いを背に、二人はゆるやかな丘を越え、小さな街道を踏みしめていた。

 やがて、雲が低く垂れこめてきた。風がひんやりと湿っている。

「……これ、降るかもな」

 カイが空を仰いだその直後、空気にぽつりと冷たい粒が触れた。

「……ん? 何? 今の」

 ノアが立ち止まって、不思議そうに、地面を見つめる。

 さらに一滴、また一滴。足もとがまだら模様が広がってゆく。

 水が服を打ち、髪を濡らしはじめた。顔にも雨が伝う。

「ノア……まさか、君、雨初めてなの?」

「……これが、雨、なんだ……」

 ノアは空を見上げた。

 『約束は雲、履行は雨』と、聖地では言われていたが、それが本当に天気のせいなのかは分からない。

 ノアは、雨で少しずつ身体が冷えていく感覚に、何か不思議なものを感じた。

 やがて雨足は強くなり、ふたりは近くの森沿いに建つ小さな建物へと駆け込んだ。


 そこは教会だった。石造りの礼拝堂。鐘楼のない、簡素な構造。

 扉の上には、氷の紋章が刻まれていた。

「……ああ、やっぱりか」

 カイがうんざりした顔をして、小声でつぶやく。

(神学校と一緒か……)

 中には、老いた修道女と、数人の信者がいた。皆、黙って祈りを捧げている。

 その姿は一見、敬虔に見えたが、ノアはすぐに感じ取った。

 声がない。

 祈りが、言葉を持っていなかった。

「……この祈り方、母さんとは違う……」

 ノアが囁く。

「これは、氷派の礼式だよ。ヴァロニアの神学校もこれさ。音を封じるタイプ。ノアのお母さんとうちの父上はヘーンブルグ出身だから、同じクライス信仰でも灯信派ってやつだと思うよ。だから、祈る時、声に出しても良いはず」

 カイが肩をすくめて、説明っぽく語る。

 二人は祭壇の奥に置かれた石板をちらと見た。そこには、筆で記された祈りの句が一行だけ書かれていた。



『沈黙は、秩序の証し。声を捨てよ、心を鎮めよ』



 ノアの胸の奥に、冷たいものが流れた。

 祈りとは、本当に声を捨てるものなのだろうか。

 黙礼だけしてふたりは席を外した。雨はまだやまないが、居心地の悪さがそれ以上だった。

「……なんか、祈りが檻みたいだった」

 教会を出てから、ノアがぽつりとつぶやいた。

「うまいこと言うね」

 カイはノアの言葉を褒める。

「祈りは、どんな形でも良いんだ。けど、その形は、人に決められるものじゃないと思う……」

「あぁ、歌ったりとか?」

「そうだよ」

 ノアは袖を絞りながら笑った。

「この、水が空から落ちてくるのって、不思議だね。雨をずっと見ていたい」

 カイも笑った。

「よし、じゃあ初めての雨を祝って、次の村まで濡れて行こう!」

 二人は濡れながら道を歩き出した。

 誰に聴かせるでもなく、カイが楽しそうな音階の鼻歌を歌う。

 空はまだ灰色だったが、ノアの瞳にはその色すら鮮やかに映っていた。




 午後になって、雨がようやく上がった。

 街道沿いの木々には水滴が残り、道の脇に咲いた白い小花が、静かに揺れていた。

「そろそろ、集落があるはず」

 カイが地図を確認しながら言う。

 二人が辿り着いたのは、小さな丘のふもとに寄り添うようにして建つ、名のない村だった。

 民家は十軒にも満たず、畑と井戸と、木組みの鐘楼が一つ。

 村人たちは雨がやんでも家の中でひっそりとしていた。

 ここにも、声がない。

 子どもの笑い声も、家畜の鳴き声も。

 村の小さな教会に立ち寄ると、そこには一人の神父がいた。

 年老いたその男は、二人を見ると、一瞬だけ目を細めたが、歓迎のそぶりを見せることはなかった。

「旅人かね」

「はい、北へ向かっているところです」

 ノアが丁寧に礼をしながら答える。

(北に? 黒髪……。こいつらも魔女の家に行くつもりか……?)

「この先は森だ。……道は荒れているし、……今は、騒がしい。やめておけ」

 神父は短くそう言った。

「騒がしいって……何がですか? 噂って、北の森の魔女ですか」

 カイがあえて踏み込むと、神父は少しだけ口元をゆがめた。

「……噂というものは、時に火よりも早く広がる。そして、人の恐れに火を点けるものだ」

(昔、この村にも、一人いた。外れに住む女。病や傷の手当てに、私も何度か頼った。……だが、あれはもう、昔の話だ)

「……昔は、火を点けるのは魔女の火じゃなくて、村人の祈りだったんだがね」

 神父が、ほんの小さく呟いた。

「祈り、ですか」

 ノアが問い返すと、神父は目をそらして、椅子の背に深く腰を下ろした。

「もう行きなさい。若いうちに信じすぎると、燃え尽きる」

 カイは神父の視線が、自分の黒髪に向けられたことを感じていた。

 けれど、口にしなかった。

 ノアが代わりに礼を言い、教会を後にする。

「……あの人、多分、氷の紋章持ってたね」

「うん。話の調子で分かった」

「でも、北の森の魔女の話は、否定しなかった」

 ノアは歩きながら言った。

「どこかで、ほんの少しは信じてるのかもね。怖さも、希望も」

 二人はその小さな村を後にした。



 丘を越えれば、いよいよ森の境界が見えてくる。

 名もなき村を離れてしばらく歩くと、道はゆるやかに登り始めた。

 背後の空にはまだ重たい雲が残っていたが、木々の間に差し込む光が徐々に深さを増していく。

 やがて、二人の前に現れたのは、森の境界だった。

 それは、ただの木立ではなかった。

 まるで森そのものが壁のように、外の世界と切り離された別の空間であることを示していた。

 入り口には、折れかけた木製の標識が立っていた。




   『布告』

  本森一帯は、王家神祀保有地に指定されしことにより、民の立ち入りを禁ず。

  狩猟・薬採・火焚き、並びに逗留・祈願・歌唱の一切を禁令とし、違反者には封印の処置が科される。

  この地に神を求むるなかれ。ここに祈りを立てることなかれ。

    ――王家神政庁・巡視局




 カイがそれを見て、ふっと鼻で笑った。

「……火も祈りも禁じるって、もう生きるなって言ってるようなもんだな」

「きっと、恐れてるんだよ……」

 ノアは静かに返した。

「氷の王家。シーランドも、ヴァロニアも、クライス信仰の神に選ばれた家系は、どっちも一緒か」

(僕とっては、ノクシアルとしての義務か、宿命か……)

 カイは独り言のように呟くと、ため息をついた。

 道はそこから土に変わり、湿り気を帯びていた。

 二人は、森の境界へと歩み出した。

 空気が変わる。ここから先は、誰かの気配が棲む世界だった。


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