第29話 沈黙と雨の道
《断章Ⅲ:神と人間》
神は裁かない。
裁くのは、神を語る人間である。
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朝もやが晴れきらぬ頃、ノアとカイは北へと向かった。
潮の匂いを背に、二人はゆるやかな丘を越え、小さな街道を踏みしめていた。
やがて、雲が低く垂れこめてきた。風がひんやりと湿っている。
「……これ、降るかもな」
カイが空を仰いだその直後、空気にぽつりと冷たい粒が触れた。
「……ん? 何? 今の」
ノアが立ち止まって、不思議そうに、地面を見つめる。
さらに一滴、また一滴。足もとがまだら模様が広がってゆく。
水が服を打ち、髪を濡らしはじめた。顔にも雨が伝う。
「ノア……まさか、君、雨初めてなの?」
「……これが、雨、なんだ……」
ノアは空を見上げた。
『約束は雲、履行は雨』と、聖地では言われていたが、それが本当に天気のせいなのかは分からない。
ノアは、雨で少しずつ身体が冷えていく感覚に、何か不思議なものを感じた。
やがて雨足は強くなり、ふたりは近くの森沿いに建つ小さな建物へと駆け込んだ。
そこは教会だった。石造りの礼拝堂。鐘楼のない、簡素な構造。
扉の上には、氷の紋章が刻まれていた。
「……ああ、やっぱりか」
カイがうんざりした顔をして、小声でつぶやく。
(神学校と一緒か……)
中には、老いた修道女と、数人の信者がいた。皆、黙って祈りを捧げている。
その姿は一見、敬虔に見えたが、ノアはすぐに感じ取った。
声がない。
祈りが、言葉を持っていなかった。
「……この祈り方、母さんとは違う……」
ノアが囁く。
「これは、氷派の礼式だよ。ヴァロニアの神学校もこれさ。音を封じるタイプ。ノアのお母さんとうちの父上はヘーンブルグ出身だから、同じクライス信仰でも灯信派ってやつだと思うよ。だから、祈る時、声に出しても良いはず」
カイが肩をすくめて、説明っぽく語る。
二人は祭壇の奥に置かれた石板をちらと見た。そこには、筆で記された祈りの句が一行だけ書かれていた。
『沈黙は、秩序の証し。声を捨てよ、心を鎮めよ』
ノアの胸の奥に、冷たいものが流れた。
祈りとは、本当に声を捨てるものなのだろうか。
黙礼だけしてふたりは席を外した。雨はまだやまないが、居心地の悪さがそれ以上だった。
「……なんか、祈りが檻みたいだった」
教会を出てから、ノアがぽつりとつぶやいた。
「うまいこと言うね」
カイはノアの言葉を褒める。
「祈りは、どんな形でも良いんだ。けど、その形は、人に決められるものじゃないと思う……」
「あぁ、歌ったりとか?」
「そうだよ」
ノアは袖を絞りながら笑った。
「この、水が空から落ちてくるのって、不思議だね。雨をずっと見ていたい」
カイも笑った。
「よし、じゃあ初めての雨を祝って、次の村まで濡れて行こう!」
二人は濡れながら道を歩き出した。
誰に聴かせるでもなく、カイが楽しそうな音階の鼻歌を歌う。
空はまだ灰色だったが、ノアの瞳にはその色すら鮮やかに映っていた。
午後になって、雨がようやく上がった。
街道沿いの木々には水滴が残り、道の脇に咲いた白い小花が、静かに揺れていた。
「そろそろ、集落があるはず」
カイが地図を確認しながら言う。
二人が辿り着いたのは、小さな丘のふもとに寄り添うようにして建つ、名のない村だった。
民家は十軒にも満たず、畑と井戸と、木組みの鐘楼が一つ。
村人たちは雨がやんでも家の中でひっそりとしていた。
ここにも、声がない。
子どもの笑い声も、家畜の鳴き声も。
村の小さな教会に立ち寄ると、そこには一人の神父がいた。
年老いたその男は、二人を見ると、一瞬だけ目を細めたが、歓迎のそぶりを見せることはなかった。
「旅人かね」
「はい、北へ向かっているところです」
ノアが丁寧に礼をしながら答える。
(北に? 黒髪……。こいつらも魔女の家に行くつもりか……?)
「この先は森だ。……道は荒れているし、……今は、騒がしい。やめておけ」
神父は短くそう言った。
「騒がしいって……何がですか? 噂って、北の森の魔女ですか」
カイがあえて踏み込むと、神父は少しだけ口元をゆがめた。
「……噂というものは、時に火よりも早く広がる。そして、人の恐れに火を点けるものだ」
(昔、この村にも、一人いた。外れに住む女。病や傷の手当てに、私も何度か頼った。……だが、あれはもう、昔の話だ)
「……昔は、火を点けるのは魔女の火じゃなくて、村人の祈りだったんだがね」
神父が、ほんの小さく呟いた。
「祈り、ですか」
ノアが問い返すと、神父は目をそらして、椅子の背に深く腰を下ろした。
「もう行きなさい。若いうちに信じすぎると、燃え尽きる」
カイは神父の視線が、自分の黒髪に向けられたことを感じていた。
けれど、口にしなかった。
ノアが代わりに礼を言い、教会を後にする。
「……あの人、多分、氷の紋章持ってたね」
「うん。話の調子で分かった」
「でも、北の森の魔女の話は、否定しなかった」
ノアは歩きながら言った。
「どこかで、ほんの少しは信じてるのかもね。怖さも、希望も」
二人はその小さな村を後にした。
丘を越えれば、いよいよ森の境界が見えてくる。
名もなき村を離れてしばらく歩くと、道はゆるやかに登り始めた。
背後の空にはまだ重たい雲が残っていたが、木々の間に差し込む光が徐々に深さを増していく。
やがて、二人の前に現れたのは、森の境界だった。
それは、ただの木立ではなかった。
まるで森そのものが壁のように、外の世界と切り離された別の空間であることを示していた。
入り口には、折れかけた木製の標識が立っていた。
『布告』
本森一帯は、王家神祀保有地に指定されしことにより、民の立ち入りを禁ず。
狩猟・薬採・火焚き、並びに逗留・祈願・歌唱の一切を禁令とし、違反者には封印の処置が科される。
この地に神を求むるなかれ。ここに祈りを立てることなかれ。
――王家神政庁・巡視局
カイがそれを見て、ふっと鼻で笑った。
「……火も祈りも禁じるって、もう生きるなって言ってるようなもんだな」
「きっと、恐れてるんだよ……」
ノアは静かに返した。
「氷の王家。シーランドも、ヴァロニアも、クライス信仰の神に選ばれた家系は、どっちも一緒か」
(僕とっては、ノクシアルとしての義務か、宿命か……)
カイは独り言のように呟くと、ため息をついた。
道はそこから土に変わり、湿り気を帯びていた。
二人は、森の境界へと歩み出した。
空気が変わる。ここから先は、誰かの気配が棲む世界だった。




