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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第4章 嘘の名前

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第28話 北へ向かう言葉たち

 夜が深まり、宿の窓には港町の灯がちらついていた。

 粗末な部屋に置かれた二つの簡素なベッド。片方にノアが腰を下ろし、もう片方にはカイが寝転がっていた。

「……なんか、眠れる気がしない」

 カイが天井を見たまま呟く。

 ノアは無言で、手の中の紙束を見つめていた。

 さっき、あの老女から渡された断章。もう何度、同じ行を読んだか分からない。

「なあ、あれって……本当に、危ないもんだったのかな」

 カイの声は、軽く見せかけて、どこか不安げでもあった。

「うん……危ない、と思う」

 ノアはゆっくりと答えた。

「言葉なのに、心の奥にまで届く。しかも、届いたら最後、信じたくなるんだ。……それが一番、危ない」

「……信じたくなったの?」

「……少し」

 ノアは視線を落とした。

「なんだか……信じるって、怖いことなんだって思い知らされた気がする。父さんも、母さんも、信じることで何かに縛られてた……。聖地で見てきたのも、そんな大人たちばっかりだった」

「ノアも、縛られてた?」

「……縛られてたよ」

 小さな声でそう言ったノアは、紙を畳んでそっと枕の下に滑り込ませた。

「誰かの決めた『正しさ』の中に閉じ込められて、ずっと迷ってたんだ」

 しばらく沈黙が流れた後、カイが体を起こし、ノアを見た。

「でもさ。迷ったからこそ、そこから抜け出そうって思えたんじゃないの?」

「……カイは、なんであの場で逃げなかったの?」

「逃げたかったよ。でも……ノアが先に動かなかったから。ああいう時、先に動く方が負けみたいじゃん」

 ノアは思わず吹き出した。

「変な理屈……」

「僕の中では『正義』なんだよ」

 カイはふっと笑い、ベッドに背中を預けた。

「でもさ。紙切れ一枚で、世界の見え方が変わるって、ちょっと怖くない?」

「うん、怖い。でも……だからこそ、知って良かったとも思う」

 ノアはベッドに横になりながら、天井を見上げた。

「ウサマは、こういうのを読んだら、何を思うんだろうな……」

「ウサマって、信じるタイプ?」

「……いや、まず疑う方かな。でも、強いから、信じた時は、その重さも……多分、すごいと思うんだ」

 短い沈黙が落ちた。

 潮の音が遠くでくぐもって聞こえてくる。

「ねえ、カイ」

「ん?」

「……明日、もう少し先まで行こう。この街を出て、この紙の続きを探す旅にしよう」

「ウサマのことは?」

「多分、ウサマは同じ道のどこかにいると思う」

「じゃあ決まりだ」

 カイはあくびをしながら、布団に潜り込んだ。

 そのあと、静けさが戻る。

 それは、明日への旅路の入り口だった。




 港町ルザーンの朝は、昨夜の炎の匂いをわずかに残して始まった。

 空はまだ曇りがちで、波打ち際では貨物船の水音と、浜の叫び声が交じり合っていた。

「……昨夜のこと、記録しておく?」

 宿の簡素な朝食を取りながら、カイが聞いた。

 ノアは、首を横に振った。

「あれは、誰かに見られたら危ない……」

 宿の帳場に、昨夜の老婆の姿はなかった。

 代わりにいた若い従者が、ちらりとふたりを見て、「あんたたち、昨日の……」と呟きかけて、何も言わずに視線を逸らした。

 妙な緊張が、町全体を包み込んでいた。

 火刑の影は、静かに、人々の目に焼き付いていた。




「まず、聞き込みからだね」

 カイが歩きながら言う。

「続きを探すって言っても、どこに向かえばいいか……」

「商人だ。旅人より、地元の商人のほうが耳が広い」

 ノアは通りを見渡しながら、港に面した市場の一角へと向かった。

 そこでは、薬草や香料、古布、羊毛などが所狭しと並んでいる。

 売り手は町の者だが、買い手には、内陸から来たらしい者や、さらに南からの流れ者も混じっていた。

 ノアは、香草を選ぶふりをしながら、周りの心の声に集中した。

 ざわつきの中から、「炎」「魔女」「黒髪」、そんな単語を拾っていく。


――あれは北の森から来たんだってよ。

――手遅れになるよ?

――夜にしか現れない。

――黒髪の魔女を助けないと。


 ノアが心の声の方に顔を向けると、荷車の後ろにいた白髪の老婆が、黒い木箱に薬草を詰めていた。あの人の声だ。

「カイ、一緒に来て」

 カイを引っ張って、老婆のいる荷車の後ろに回る。

「あの……、ここでキルカの粉が買えるって聞いて。なければフェリザンでも……」

 黒髪を金色に染める薬草の名を伝え、語尾をわざと小さくした。自分の後ろには黒髪のカイを立たせて。

 老婆は痩せて小柄だが、瞳の奥に知恵を持っているようだった。 


――また黒髪の子か……


 しばらく沈黙してから言った。

「……焚き火の中に入ってきた子がいたよ、二月前に。名を言わなかったが、黒い目をしていた」

「……その人は、どこへ?」

「北の森の方へ向かったよ。……魔女に会わなきゃならないって」


――この街の黒髪は、みんな北へ逃げていってる……


 ノアは喉の奥がかすかに震えた。

「ありがとう……」

 二人は、老婆のそばを離れた。

 背後で、カイが静かに息を吐いた。

「……さっきの、ウサマのことかな?」

 ノアは頷いた。

「わからないけど、ウサマは、多分、魔女を探してると思うんだ」

「ジェードおばさんじゃなくて?」

「……」

 アデルも、ウサマも黒髪だ。そして、今、目の前にいるカイも。それを口にしても良いのか、ノアにはわからなかった。

(僕が、おばさんの魔女狩りの話を、ノアにしたせいだ……)

 しばらく、風に吹かれる薬草の匂いと、遠くの波音だけが二人の間にあった。

 そしてカイが、小さく言った。

「もしかして、魔女も、断章と関係ある?」

「……うん。禁書の続きを探すことと、ウサマを探すことは、きっと同じ道に繋がってる」

 ノアはそう言って、空を見上げた。

 雲はまだ厚かったが、少しだけ光が差してきていた。

「……行こう、カイ。北の森の魔女に会いに」

 カイが肩をすくめ、苦笑する。

「南の森の魔女じゃなくて、今度は、北の森の魔女か……シーランドって魔女ばっかりなんだな」

 ノアも笑った。

「それでも、ウサマはそこに行った。きっと……何かを知りたかったんだ」

「じゃあ、僕たちも、知りに行こう」

 カイは言った。

 それは、まだ名もない目的地への宣誓だった。



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