第28話 北へ向かう言葉たち
夜が深まり、宿の窓には港町の灯がちらついていた。
粗末な部屋に置かれた二つの簡素なベッド。片方にノアが腰を下ろし、もう片方にはカイが寝転がっていた。
「……なんか、眠れる気がしない」
カイが天井を見たまま呟く。
ノアは無言で、手の中の紙束を見つめていた。
さっき、あの老女から渡された断章。もう何度、同じ行を読んだか分からない。
「なあ、あれって……本当に、危ないもんだったのかな」
カイの声は、軽く見せかけて、どこか不安げでもあった。
「うん……危ない、と思う」
ノアはゆっくりと答えた。
「言葉なのに、心の奥にまで届く。しかも、届いたら最後、信じたくなるんだ。……それが一番、危ない」
「……信じたくなったの?」
「……少し」
ノアは視線を落とした。
「なんだか……信じるって、怖いことなんだって思い知らされた気がする。父さんも、母さんも、信じることで何かに縛られてた……。聖地で見てきたのも、そんな大人たちばっかりだった」
「ノアも、縛られてた?」
「……縛られてたよ」
小さな声でそう言ったノアは、紙を畳んでそっと枕の下に滑り込ませた。
「誰かの決めた『正しさ』の中に閉じ込められて、ずっと迷ってたんだ」
しばらく沈黙が流れた後、カイが体を起こし、ノアを見た。
「でもさ。迷ったからこそ、そこから抜け出そうって思えたんじゃないの?」
「……カイは、なんであの場で逃げなかったの?」
「逃げたかったよ。でも……ノアが先に動かなかったから。ああいう時、先に動く方が負けみたいじゃん」
ノアは思わず吹き出した。
「変な理屈……」
「僕の中では『正義』なんだよ」
カイはふっと笑い、ベッドに背中を預けた。
「でもさ。紙切れ一枚で、世界の見え方が変わるって、ちょっと怖くない?」
「うん、怖い。でも……だからこそ、知って良かったとも思う」
ノアはベッドに横になりながら、天井を見上げた。
「ウサマは、こういうのを読んだら、何を思うんだろうな……」
「ウサマって、信じるタイプ?」
「……いや、まず疑う方かな。でも、強いから、信じた時は、その重さも……多分、すごいと思うんだ」
短い沈黙が落ちた。
潮の音が遠くでくぐもって聞こえてくる。
「ねえ、カイ」
「ん?」
「……明日、もう少し先まで行こう。この街を出て、この紙の続きを探す旅にしよう」
「ウサマのことは?」
「多分、ウサマは同じ道のどこかにいると思う」
「じゃあ決まりだ」
カイはあくびをしながら、布団に潜り込んだ。
そのあと、静けさが戻る。
それは、明日への旅路の入り口だった。
港町ルザーンの朝は、昨夜の炎の匂いをわずかに残して始まった。
空はまだ曇りがちで、波打ち際では貨物船の水音と、浜の叫び声が交じり合っていた。
「……昨夜のこと、記録しておく?」
宿の簡素な朝食を取りながら、カイが聞いた。
ノアは、首を横に振った。
「あれは、誰かに見られたら危ない……」
宿の帳場に、昨夜の老婆の姿はなかった。
代わりにいた若い従者が、ちらりとふたりを見て、「あんたたち、昨日の……」と呟きかけて、何も言わずに視線を逸らした。
妙な緊張が、町全体を包み込んでいた。
火刑の影は、静かに、人々の目に焼き付いていた。
「まず、聞き込みからだね」
カイが歩きながら言う。
「続きを探すって言っても、どこに向かえばいいか……」
「商人だ。旅人より、地元の商人のほうが耳が広い」
ノアは通りを見渡しながら、港に面した市場の一角へと向かった。
そこでは、薬草や香料、古布、羊毛などが所狭しと並んでいる。
売り手は町の者だが、買い手には、内陸から来たらしい者や、さらに南からの流れ者も混じっていた。
ノアは、香草を選ぶふりをしながら、周りの心の声に集中した。
ざわつきの中から、「炎」「魔女」「黒髪」、そんな単語を拾っていく。
――あれは北の森から来たんだってよ。
――手遅れになるよ?
――夜にしか現れない。
――黒髪の魔女を助けないと。
ノアが心の声の方に顔を向けると、荷車の後ろにいた白髪の老婆が、黒い木箱に薬草を詰めていた。あの人の声だ。
「カイ、一緒に来て」
カイを引っ張って、老婆のいる荷車の後ろに回る。
「あの……、ここでキルカの粉が買えるって聞いて。なければフェリザンでも……」
黒髪を金色に染める薬草の名を伝え、語尾をわざと小さくした。自分の後ろには黒髪のカイを立たせて。
老婆は痩せて小柄だが、瞳の奥に知恵を持っているようだった。
――また黒髪の子か……
しばらく沈黙してから言った。
「……焚き火の中に入ってきた子がいたよ、二月前に。名を言わなかったが、黒い目をしていた」
「……その人は、どこへ?」
「北の森の方へ向かったよ。……魔女に会わなきゃならないって」
――この街の黒髪は、みんな北へ逃げていってる……
ノアは喉の奥がかすかに震えた。
「ありがとう……」
二人は、老婆のそばを離れた。
背後で、カイが静かに息を吐いた。
「……さっきの、ウサマのことかな?」
ノアは頷いた。
「わからないけど、ウサマは、多分、魔女を探してると思うんだ」
「ジェードおばさんじゃなくて?」
「……」
アデルも、ウサマも黒髪だ。そして、今、目の前にいるカイも。それを口にしても良いのか、ノアにはわからなかった。
(僕が、おばさんの魔女狩りの話を、ノアにしたせいだ……)
しばらく、風に吹かれる薬草の匂いと、遠くの波音だけが二人の間にあった。
そしてカイが、小さく言った。
「もしかして、魔女も、断章と関係ある?」
「……うん。禁書の続きを探すことと、ウサマを探すことは、きっと同じ道に繋がってる」
ノアはそう言って、空を見上げた。
雲はまだ厚かったが、少しだけ光が差してきていた。
「……行こう、カイ。北の森の魔女に会いに」
カイが肩をすくめ、苦笑する。
「南の森の魔女じゃなくて、今度は、北の森の魔女か……シーランドって魔女ばっかりなんだな」
ノアも笑った。
「それでも、ウサマはそこに行った。きっと……何かを知りたかったんだ」
「じゃあ、僕たちも、知りに行こう」
カイは言った。
それは、まだ名もない目的地への宣誓だった。




