第27話 火の灯りにて集う者たち
火が燃え尽きる頃には、広場の人々もばらばらと解散し始めていた。
けれど、ノアとカイはしばらくその場を動けなかった。
「……これ、ほんとに正義なのかな」
カイがぽつりとこぼした。
その横顔には怒りではなく、深い混乱が浮かんでいる。
「信じる形が、人を焼くことなんて……それは、もう呪いだ」
ノアが答えた声には、わずかな震えがあった。
二人は広場を後にし、裏通りへと抜けた。
表通りのざわつきとは対照的に、石畳の裏通りはひんやりとしていて、さっきまでの熱が嘘のようだった。
「……この町、しばらく滞在する?」
カイが問う。
ノアは少し考えた末、頷いた。
「港は入口だ。情報は、出入りする商人たちの中に混ざってる。……それに、ウサマの痕跡も、あるかもしれない」
二人はまず、港近くの酒場へと足を運んだ。
夕暮れ前の時間帯。まだ混雑する前の、ほどよいざわつき。
だが、酔客の言葉の端々には、今日の処罰の話題、そしてその裏にある不穏な噂が紛れ込んでいた。
「どこの誰が告げ口したんだろうな……」
「いや、あいつの婆さんが怪しかったって話だ。なんか薬草使ってたって」
「案外、浄化されたってことで、町がちょっと安心したかもよ……」
――やっぱり、氷の紋章が動いたんだよな?
――最近、森に炎が灯ったって話もあるらしいぜ。
――炎は夜に動いている……
心の声の断片が、ノアの中でざわめいた。
それらは情報であると同時に、この町に浸透している恐怖の濁流そのものでもあった。
カイはビールを一杯注文しながら、帳場の老婆と話していた。
「……あんたら、旅人かい? このあたりで魔女狩りなんて、もう何年ぶりだかねぇ……」
「ずっとなかったんですか?」
ノアが思わず身を乗り出す。
「そりゃそうさ。ここらじゃ昔、南の森の魔女ってのがいてね……女の姿をしてたって話だけど、実際に見た奴はいない。けど、それから何十年も、魔女の話なんて消えてたのにさ……」
「……それが、どうして急に?」
「上の方が変わったんでしょ? 神の名のもとに、ってやつがね。氷の印を掲げた人たちさ……あたしは信じちゃいないけど」
老婆は、グラスを拭く手を止めずにそう言った。
(上の方……)
ノアはその言葉を反芻した。
シーランド王国の中で、なにかが変わった。
それは法や制度ではなく、もっと空気のようなもの。
誰もそれを明言しないが、皆がそれに従っている。
(それに抗ったら、火が待っているのか……)
ウサマがこの土地に来ていたなら、彼もきっと、何かを感じていたはずだ。
夜に炎は動く。その言葉を聞いて、ノアは、決めた。
港の喧騒が静まりはじめた頃、ノアとカイは再び外套の襟を立てて宿を出た。
夜のルザーンは、昼とは違う顔をしている。
明かりが少なく、通りには潮気と炭の匂いが混じっていた。
灯りの消えかけた屋台、魚市場の残骸、軒下で火を囲う老いた漁師たち。
そのすべてが、どこか息を潜めているようだった。
「……静かだね」
カイが、いつもの調子で話しかける。
「え? あ、うん。……静か、だね……」
ノアの言葉に、カイは目を細めた。
「考えごとしてた?」
「いや、ちょっと、うん……。カイ、あっちの方に行ってみよう?」
二人は石畳を歩きながら、夜市の残り香を抜けていく。
そして、路地の先、港とは反対側。古い教会跡を改装した建物の前で、ノアは人々の気配、というより心の声を感じた。
明かりのない入り口。
けれど、扉の前には、薄く開いた隙間と、控えめに掲げられた『火の灯りにて集う者たち』の札。
カイが眉をひそめる。
「これ……なんの集まりだろ?」
「……炎派か、地下教会の合図かもしれない」
「どうする? 入ってみる?」
ノアは一瞬、目を伏せてからうなずいた。
「見るだけ。……声はかけない」
そう言って、扉に手をかけた。
中は、古い礼拝堂を改装した、小さな集会室だった。
蝋燭の明かりがともる中央には、十数人の男女が、円になって静かに座っている。
まるで儀式でも始まるかのように、言葉はなく、ただ紙片の束が火の近くで回されていた。
遠くからそれを見たノアは、微かに眉をひそめた。
「……これ、なんだろう」
紙の端に記された文字。見慣れない構成だったが、なぜか意味は読み取れた。
「妙な書き方だな」
カイが囁く。
「宗教文書か?」
その時、輪の中にいたひとりの老女が、ちらりと視線をこちらに向けた。
その目に、驚きや警戒はなかった。ただ、どこか懐かしさのようなものがあった。
「……旅の方ですか?」
問いかけにカイが肩を跳ねさせるが、ノアは静かに頷いた。
「……迷っています。答えを探していて」
老女はゆっくりと手を差し伸べた。
「では、読み手の席へどうぞ。火は、嘘をつきませんから」
二人は輪の外縁に腰を下ろした。蝋燭の炎がまたたいている。
中央で回されていた紙束をちらと見たノアは、驚きの声を漏らしかけた。
それは、シーランド語とよく似ているが、ヴァロニア語で書かれていた。
「ノア、読める?」
「うん、読めるよ」
ノアは黙ったまま、火のそばで回されている紙束に視線を向け続けた。
ひときわ古びたその束には、詩のような、断罪のような言葉が刻まれていた。
神は聖なる地にはいなかった。
そこにあったのは、飢えた民と、血に濡れた剣だけだ。
それを祝福と呼んだ者たちは、神の名を語った人間だった。
カイが眉をしかめる。
「……こんなこと、書いたやつが生きてるわけない」
ノアは小さく頷いた。
「でも、書き手の癖が普通じゃない。……これ、本当に教えなのかな」
「ノア……?」
ふたりのあいだに、重たい沈黙が落ちた。
老女は目を閉じて語り始めた。
「……その紙に記された言葉は、ある男の信仰の問いです。名は――シュケム。教会では、災いの名とされました」
隣にいた壮年の男が、焼け焦げた羊皮紙を懐から取り出し、ノアの膝に置いた。
「聖地から持ち出された断章です。……今は、こういうのを燃やす時代がまた始まっている」
その声には、諦念が滲んでいた。
ノアは紙をめくる。そこには――
五つの宗派は、五つの民に過ぎない。
それぞれが神を見たと語ったが、見たのは鏡に映った自分自身だ。
それを真実と呼ぶならば、神とは己の選びに他ならない。
「……ノア?」
カイが囁いたが、ノアは返事をしなかった。
心の奥に、鋭い痛みが走っていた。
この文章が、父と、母と、聖地の記憶に重なったからだ。
信仰は、剣になる。
けれど、それは守るためではなく、縛るための剣になることもある――
「……これ、危ないです。誰かに見られたら」
ノアがそう言うと、老女は微笑んだ。
「ええ。でも、真実ってのはいつだって危ないものですから」
そのとき、奥の扉が静かに開いた。
一瞬、空気が変わる。現れたのは、目深にフードを被った女だった。
彼女は老女に耳打ちし、老女はノアたちを振り返った。
「今夜はここまでです。……あなたたちは、気をつけなさい。上の者の目が、旅人に向けられている。特に黒髪に」
カイがぴくりと反応する。
「……僕が、怪しまれてるってことですか」
老女は答えず、ただ静かに立ち上がった。
ノアは手にしていた断章を返そうとしたが、老女は首を振った。
「持っていきなさい。読む者に届いた言葉は、もう燃やしても意味がないから」
蝋燭の灯が一つ、また一つと、吹き消されていった。




