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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第4章 嘘の名前

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第27話 火の灯りにて集う者たち

 火が燃え尽きる頃には、広場の人々もばらばらと解散し始めていた。

 けれど、ノアとカイはしばらくその場を動けなかった。

「……これ、ほんとに正義なのかな」

 カイがぽつりとこぼした。

 その横顔には怒りではなく、深い混乱が浮かんでいる。

「信じる形が、人を焼くことなんて……それは、もう呪いだ」

 ノアが答えた声には、わずかな震えがあった。

 二人は広場を後にし、裏通りへと抜けた。

 表通りのざわつきとは対照的に、石畳の裏通りはひんやりとしていて、さっきまでの熱が嘘のようだった。

「……この町、しばらく滞在する?」

 カイが問う。

 ノアは少し考えた末、頷いた。

「港は入口だ。情報は、出入りする商人たちの中に混ざってる。……それに、ウサマの痕跡も、あるかもしれない」


 二人はまず、港近くの酒場へと足を運んだ。

 夕暮れ前の時間帯。まだ混雑する前の、ほどよいざわつき。

 だが、酔客の言葉の端々には、今日の処罰の話題、そしてその裏にある不穏な噂が紛れ込んでいた。

「どこの誰が告げ口したんだろうな……」

「いや、あいつの婆さんが怪しかったって話だ。なんか薬草使ってたって」

「案外、浄化されたってことで、町がちょっと安心したかもよ……」


――やっぱり、氷の紋章が動いたんだよな?

――最近、森に炎が灯ったって話もあるらしいぜ。

――炎は夜に動いている……


 心の声の断片が、ノアの中でざわめいた。

 それらは情報であると同時に、この町に浸透している恐怖の濁流そのものでもあった。

 カイはビールを一杯注文しながら、帳場の老婆と話していた。

「……あんたら、旅人かい? このあたりで魔女狩りなんて、もう何年ぶりだかねぇ……」

「ずっとなかったんですか?」

 ノアが思わず身を乗り出す。

「そりゃそうさ。ここらじゃ昔、南の森の魔女ってのがいてね……女の姿をしてたって話だけど、実際に見た奴はいない。けど、それから何十年も、魔女の話なんて消えてたのにさ……」

「……それが、どうして急に?」

「上の方が変わったんでしょ? 神の名のもとに、ってやつがね。氷の印を掲げた人たちさ……あたしは信じちゃいないけど」

 老婆は、グラスを拭く手を止めずにそう言った。

(上の方……)

 ノアはその言葉を反芻した。

 シーランド王国の中で、なにかが変わった。

 それは法や制度ではなく、もっと空気のようなもの。

 誰もそれを明言しないが、皆がそれに従っている。

(それに抗ったら、火が待っているのか……)

 ウサマがこの土地に来ていたなら、彼もきっと、何かを感じていたはずだ。

 夜に炎は動く。その言葉を聞いて、ノアは、決めた。




 港の喧騒が静まりはじめた頃、ノアとカイは再び外套の襟を立てて宿を出た。

 夜のルザーンは、昼とは違う顔をしている。

 明かりが少なく、通りには潮気と炭の匂いが混じっていた。

 灯りの消えかけた屋台、魚市場の残骸、軒下で火を囲う老いた漁師たち。

 そのすべてが、どこか息を潜めているようだった。

「……静かだね」

 カイが、いつもの調子で話しかける。

「え? あ、うん。……静か、だね……」

 ノアの言葉に、カイは目を細めた。

「考えごとしてた?」

「いや、ちょっと、うん……。カイ、あっちの方に行ってみよう?」

 二人は石畳を歩きながら、夜市の残り香を抜けていく。

 そして、路地の先、港とは反対側。古い教会跡を改装した建物の前で、ノアは人々の気配、というより心の声を感じた。

 明かりのない入り口。

 けれど、扉の前には、薄く開いた隙間と、控えめに掲げられた『火の灯りにて集う者たち』の札。

 カイが眉をひそめる。

「これ……なんの集まりだろ?」

「……炎派か、地下教会の合図かもしれない」

「どうする? 入ってみる?」

 ノアは一瞬、目を伏せてからうなずいた。

「見るだけ。……声はかけない」

 そう言って、扉に手をかけた。

 中は、古い礼拝堂を改装した、小さな集会室だった。

 蝋燭の明かりがともる中央には、十数人の男女が、円になって静かに座っている。

 まるで儀式でも始まるかのように、言葉はなく、ただ紙片の束が火の近くで回されていた。

 遠くからそれを見たノアは、微かに眉をひそめた。

「……これ、なんだろう」

 紙の端に記された文字。見慣れない構成だったが、なぜか意味は読み取れた。

「妙な書き方だな」

 カイが囁く。

「宗教文書か?」

 その時、輪の中にいたひとりの老女が、ちらりと視線をこちらに向けた。

 その目に、驚きや警戒はなかった。ただ、どこか懐かしさのようなものがあった。

「……旅の方ですか?」

 問いかけにカイが肩を跳ねさせるが、ノアは静かに頷いた。

「……迷っています。答えを探していて」

 老女はゆっくりと手を差し伸べた。

「では、読み手の席へどうぞ。火は、嘘をつきませんから」

 二人は輪の外縁に腰を下ろした。蝋燭の炎がまたたいている。

 中央で回されていた紙束をちらと見たノアは、驚きの声を漏らしかけた。

 それは、シーランド語とよく似ているが、ヴァロニア語で書かれていた。

「ノア、読める?」

「うん、読めるよ」

 ノアは黙ったまま、火のそばで回されている紙束に視線を向け続けた。

 ひときわ古びたその束には、詩のような、断罪のような言葉が刻まれていた。


   神は聖なる地にはいなかった。

   そこにあったのは、飢えた民と、血に濡れた剣だけだ。

   それを祝福と呼んだ者たちは、神の名を語った人間だった。


 カイが眉をしかめる。

「……こんなこと、書いたやつが生きてるわけない」

 ノアは小さく頷いた。

「でも、書き手の癖が普通じゃない。……これ、本当に教えなのかな」

「ノア……?」

 ふたりのあいだに、重たい沈黙が落ちた。

 老女は目を閉じて語り始めた。

「……その紙に記された言葉は、()()()の信仰の問いです。名は――シュケム。教会では、災いの名とされました」

 隣にいた壮年の男が、焼け焦げた羊皮紙を懐から取り出し、ノアの膝に置いた。

「聖地から持ち出された断章です。……今は、こういうのを燃やす時代がまた始まっている」

 その声には、諦念が滲んでいた。

 ノアは紙をめくる。そこには――


   五つの宗派は、五つの民に過ぎない。

   それぞれが神を見たと語ったが、見たのは鏡に映った自分自身だ。

   それを真実と呼ぶならば、神とは己の選びに他ならない。


 「……ノア?」

 カイが囁いたが、ノアは返事をしなかった。

 心の奥に、鋭い痛みが走っていた。

 この文章が、父と、母と、聖地の記憶に重なったからだ。


   信仰は、剣になる。

   けれど、それは守るためではなく、縛るための剣になることもある――


「……これ、危ないです。誰かに見られたら」

 ノアがそう言うと、老女は微笑んだ。

「ええ。でも、真実ってのはいつだって危ないものですから」

 そのとき、奥の扉が静かに開いた。

 一瞬、空気が変わる。現れたのは、目深にフードを被った女だった。

 彼女は老女に耳打ちし、老女はノアたちを振り返った。

「今夜はここまでです。……あなたたちは、気をつけなさい。上の者の目が、旅人に向けられている。特に黒髪に」

 カイがぴくりと反応する。

「……僕が、怪しまれてるってことですか」

 老女は答えず、ただ静かに立ち上がった。

 ノアは手にしていた断章を返そうとしたが、老女は首を振った。

「持っていきなさい。読む者に届いた言葉は、もう燃やしても意味がないから」

 蝋燭の灯が一つ、また一つと、吹き消されていった。



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