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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第4章 嘘の名前

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第26話 海風と嘘の名前

 大陸を背に渡ってきた三晩の航海が、ようやく終わった。

 塩と鉄のにおいが、鼻を刺す。

 霧を含んだ海風が、港の石畳を這うように吹き抜けていた。

 朝靄の向こうに、帆船の帆がいくつも並び、灰色の空にゆるくたなびいている。


 波打ち際に並ぶ小舟を越えて、荷役たちが甲板から樽を下ろしている。

 潮に濡れた足元の木製スロープを踏みしめながら、

 ノアとカイの二人は、薄い外套を羽織り、荷をまとめた革袋を担いで桟橋を歩いていた。

 ついさっきまで乗っていた帆船が、背後で静かに風に揺れている。


 到着したのは、シーランド南岸の商業港ルザーン。

 軍港ではないが、ここ数年、シーランド氷派の管理下に置かれ、入国管理と魔女の検閲が強まっている町だ。

「……海の国って、こんなに重たい空気なのか」

 カイが、小声で言った。

「潮のせいじゃないと思う。……見張ってる、こっちを」

 ノアがつぶやいたまま、歩を緩めずに前へ進む。

 船を降りたばかりの旅人たちは、いったん検問所の列に並ばされる。

 木製の柵と兵士の影。書類に印を押す音と、時おり怒号のような声が混じる。

「名前、出身地、旅の目的を」

「魔女との関わりは?」

「証明できるものはあるか?」

 そんな問答が、ほとんど呪文のように繰り返されていた。

 二人の順番が近づく。

 カイはちらりとノアを見る。

「名前、どうする?」

「……ノア。旅の名だし、もう馴染んできたから大丈夫」

「……僕も、カイ、で通すよ。ノクシアルの名は出さない。……シーランドじゃ、ヴァロニアのご贔屓なんて目を付けられる」

「了解」

 カイが、目を伏せたまま一歩前へ進む。

「名前は?」

「カイ。出身は、ヴァロニア国境の村です」

「……どの村だ?」

「ヘーンブルグ領のクラン。――黒髪が多い村です」

 カイは一瞬だけ言葉を選んだあと、はっきりと答えた。

 係官の目が、じっと彼の黒髪を見つめる。

「黒髪、ね……ヴァロニアでは珍しいが、あのあたりなら……」

 係官はひとつうなずいたが、次にノアを見て首をかしげた。

「その弟は? 随分と色素が違うが?」

「……異母弟です。母は村に来た移民でした。ノアは、あちらの血が濃いだけで」

 カイの言葉に、ノアも小さくうなずいた。

「……東の医師を訪ねて、妹の薬を求めに。紹介状はないですが、噂を頼って」

 再度そう補足すると、係官はもう一度ふたりの顔を見比べてから、無言で書類に印を押した。

「……通れ。次!」

 二人は柵を抜け、無事に港町の石畳に足を踏み入れる。

 周囲を見回せば、石造りの建物が並び、通りには商人や兵士、子どもたちの声が交錯していた。

「ふう……通ったな」

 カイが安堵の吐息を漏らす。

「……シーランドに入った」

 ノアが、深く吸い込んだ海風に目を細めた。

 この先に、自分の問いがあるかもしれない。

 そして、旅のどこかで置いていった、ウサマの足跡も。


 宿はすぐに見つかった。港に近い、石畳の小路に面した古びた屋根の家。

 ノアとカイは二階の部屋を借り、荷を置いたばかりだった。

「……なあ、なんか広場がざわついてない?」

 窓辺に立ったカイが、外を見下ろして言った。

 人の流れが、港の中心広場――鐘のある台座のほうへ集まりはじめている。

 鐘が鳴ったのは、ほんの数刻前だ。

 港町に暮らす人々の中には、それが何を意味するかをよく知っている者もいた。

 ノアには、人々の心から、その意味が伝わってきた。

「処罰かもしれない……」

 ノアがつぶやいた。

「行ってみる?」

「……うん……」

 二人は宿を出て、広場へと向かう。

 すでに人の輪ができていた。

 中央には、粗末な木製の台座と、その上に跪かされた若い女。

 麻布をかぶせられてはいるが、裸足で、両手は縄で縛られていた。

「……南の森の魔女(ウィッチ)だって?」

「あれは隣村の娘だって聞いたぞ。馬に乗ったまま町を抜けようとしてたところ……呪符が見つかったんだと」

「呪符なんて、護符と何が違うってんだよ……」

 ざわつく群衆の中で、ノアの耳には心の声が次々と押し寄せてきた。


――怖い。

――見なきゃよかった。

――彼女が何をしたって言うの。


 圧が強い。

 押し寄せる恐怖と責任逃れの言葉が、ノアの意識を溺れさせる。

「ノア? どうしたんだ? 大丈夫か?」

「……うるさい……みんな、叫びすぎてる……」

 ノアは目を閉じ、耳を押さえた。だが、そんなことをしても声は頭に直接聞こえていた。

 そのとき、広場の反対側から、氷の騎士団の指揮官らしき男が現れた。

 鎧は銀。胸には氷の意匠。

 周囲の人々がざっと道を開ける。

「――証拠は充分に揃った。呪具、禁書の一頁、召喚文。名を失った女よ。これより、神の名のもとに火をもって清める」

 その言葉と同時に、薪が積まれる。

「まさか……本当に、焼くのか……」

「火刑……時代が戻ったってことか……」

 ノアは言葉を失っていた。

 この世界の正義が、ただの恐怖で回っていることを、目の前に見せつけられた気がした。

 ふと、隣にいたカイが動いた気配がした。

「……カイ」

 剣を握っているカイの左手を、ノアは掴んで抑えた。

「……抜かないよ。ただ、目を逸らすなって思っただけだ」

(これが、氷の秩序……)

 二人は群衆の隅に立ち尽くしていた。



 麻袋を外された女の髪は黒かった。

 火が点けられたとき、女の声が一瞬だけ、空気を裂いた。

 叫びではなく、祈りの言葉だった。

 ノアは、心を澄ませた。

 彼女の心は、聞こえた。


──助けて! 生きたい! 誰も、悪くないのに!


 痛切な声だった。

 ノアは目を閉じた。

 この国では、もう始まっている。

 信仰の名のもとに、異端を焼く時代が。

 その中で、自分の力は、どこまで通じるのか。

 港町の空が、灰に染まり始めていた。



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