第26話 海風と嘘の名前
大陸を背に渡ってきた三晩の航海が、ようやく終わった。
塩と鉄のにおいが、鼻を刺す。
霧を含んだ海風が、港の石畳を這うように吹き抜けていた。
朝靄の向こうに、帆船の帆がいくつも並び、灰色の空にゆるくたなびいている。
波打ち際に並ぶ小舟を越えて、荷役たちが甲板から樽を下ろしている。
潮に濡れた足元の木製スロープを踏みしめながら、
ノアとカイの二人は、薄い外套を羽織り、荷をまとめた革袋を担いで桟橋を歩いていた。
ついさっきまで乗っていた帆船が、背後で静かに風に揺れている。
到着したのは、シーランド南岸の商業港ルザーン。
軍港ではないが、ここ数年、シーランド氷派の管理下に置かれ、入国管理と魔女の検閲が強まっている町だ。
「……海の国って、こんなに重たい空気なのか」
カイが、小声で言った。
「潮のせいじゃないと思う。……見張ってる、こっちを」
ノアがつぶやいたまま、歩を緩めずに前へ進む。
船を降りたばかりの旅人たちは、いったん検問所の列に並ばされる。
木製の柵と兵士の影。書類に印を押す音と、時おり怒号のような声が混じる。
「名前、出身地、旅の目的を」
「魔女との関わりは?」
「証明できるものはあるか?」
そんな問答が、ほとんど呪文のように繰り返されていた。
二人の順番が近づく。
カイはちらりとノアを見る。
「名前、どうする?」
「……ノア。旅の名だし、もう馴染んできたから大丈夫」
「……僕も、カイ、で通すよ。ノクシアルの名は出さない。……シーランドじゃ、ヴァロニアのご贔屓なんて目を付けられる」
「了解」
カイが、目を伏せたまま一歩前へ進む。
「名前は?」
「カイ。出身は、ヴァロニア国境の村です」
「……どの村だ?」
「ヘーンブルグ領のクラン。――黒髪が多い村です」
カイは一瞬だけ言葉を選んだあと、はっきりと答えた。
係官の目が、じっと彼の黒髪を見つめる。
「黒髪、ね……ヴァロニアでは珍しいが、あのあたりなら……」
係官はひとつうなずいたが、次にノアを見て首をかしげた。
「その弟は? 随分と色素が違うが?」
「……異母弟です。母は村に来た移民でした。ノアは、あちらの血が濃いだけで」
カイの言葉に、ノアも小さくうなずいた。
「……東の医師を訪ねて、妹の薬を求めに。紹介状はないですが、噂を頼って」
再度そう補足すると、係官はもう一度ふたりの顔を見比べてから、無言で書類に印を押した。
「……通れ。次!」
二人は柵を抜け、無事に港町の石畳に足を踏み入れる。
周囲を見回せば、石造りの建物が並び、通りには商人や兵士、子どもたちの声が交錯していた。
「ふう……通ったな」
カイが安堵の吐息を漏らす。
「……シーランドに入った」
ノアが、深く吸い込んだ海風に目を細めた。
この先に、自分の問いがあるかもしれない。
そして、旅のどこかで置いていった、ウサマの足跡も。
宿はすぐに見つかった。港に近い、石畳の小路に面した古びた屋根の家。
ノアとカイは二階の部屋を借り、荷を置いたばかりだった。
「……なあ、なんか広場がざわついてない?」
窓辺に立ったカイが、外を見下ろして言った。
人の流れが、港の中心広場――鐘のある台座のほうへ集まりはじめている。
鐘が鳴ったのは、ほんの数刻前だ。
港町に暮らす人々の中には、それが何を意味するかをよく知っている者もいた。
ノアには、人々の心から、その意味が伝わってきた。
「処罰かもしれない……」
ノアがつぶやいた。
「行ってみる?」
「……うん……」
二人は宿を出て、広場へと向かう。
すでに人の輪ができていた。
中央には、粗末な木製の台座と、その上に跪かされた若い女。
麻布をかぶせられてはいるが、裸足で、両手は縄で縛られていた。
「……南の森の魔女だって?」
「あれは隣村の娘だって聞いたぞ。馬に乗ったまま町を抜けようとしてたところ……呪符が見つかったんだと」
「呪符なんて、護符と何が違うってんだよ……」
ざわつく群衆の中で、ノアの耳には心の声が次々と押し寄せてきた。
――怖い。
――見なきゃよかった。
――彼女が何をしたって言うの。
圧が強い。
押し寄せる恐怖と責任逃れの言葉が、ノアの意識を溺れさせる。
「ノア? どうしたんだ? 大丈夫か?」
「……うるさい……みんな、叫びすぎてる……」
ノアは目を閉じ、耳を押さえた。だが、そんなことをしても声は頭に直接聞こえていた。
そのとき、広場の反対側から、氷の騎士団の指揮官らしき男が現れた。
鎧は銀。胸には氷の意匠。
周囲の人々がざっと道を開ける。
「――証拠は充分に揃った。呪具、禁書の一頁、召喚文。名を失った女よ。これより、神の名のもとに火をもって清める」
その言葉と同時に、薪が積まれる。
「まさか……本当に、焼くのか……」
「火刑……時代が戻ったってことか……」
ノアは言葉を失っていた。
この世界の正義が、ただの恐怖で回っていることを、目の前に見せつけられた気がした。
ふと、隣にいたカイが動いた気配がした。
「……カイ」
剣を握っているカイの左手を、ノアは掴んで抑えた。
「……抜かないよ。ただ、目を逸らすなって思っただけだ」
(これが、氷の秩序……)
二人は群衆の隅に立ち尽くしていた。
麻袋を外された女の髪は黒かった。
火が点けられたとき、女の声が一瞬だけ、空気を裂いた。
叫びではなく、祈りの言葉だった。
ノアは、心を澄ませた。
彼女の心は、聞こえた。
──助けて! 生きたい! 誰も、悪くないのに!
痛切な声だった。
ノアは目を閉じた。
この国では、もう始まっている。
信仰の名のもとに、異端を焼く時代が。
その中で、自分の力は、どこまで通じるのか。
港町の空が、灰に染まり始めていた。




