第24話 それぞれの扉
ウサマは裏口を蹴るように開け放ち、夜の森へエルセラの手を引いて飛び出した。
明かりは、木々の隙間からまだらに落ちる月の光だけだった。
足元の枝や根が容赦なく絡みついたが、息を整える暇も、振り返る余裕もなく、走った。
背後からは怒鳴り声が聞こえていた。
「捕らえよ! 魔女の娘を逃がすな!」
「森の南へ向かった! 包囲を展開しろ!」
「黒髪の少年も共犯と見なす! 拘束許可を得ている!」
その言葉が、夜の森に広がっていく。
まるで、自分たちの罪が宣言された呪文のように、木々へ染みていくのが分かった。
エルセラは黙っていた。
ただ、唇をかみしめて、必死にウサマの後を追っていた。
裾が濡れ、転びそうになりながらも、一歩も遅れなかった。
やがて、ウサマが斜面を下りきったところで、ふいに足を止めた。
「……こっちじゃないか」
月を見て、耳を澄ます。
夜鳥の声の位置、風の流れ。敵は、東から回り込んでくる。
ふと、森の奥に、焚き火の匂いが微かに残っているのを感じた。
「……いたはずなんだ、さっきの、フードの女。……ここを出たって言ってなかった。なら――」
その時だった。
(少年! こっちだ!)
茂みの向こうから、誰かが現れた。
黒いフード。
そして、手には燃えていない松明と、鉄の杖。
さっきの女だった。
「お待ちしておりました、王女様」
女は穏やかにそう言って、ウサマとエルセラに視線を向けた。
「急いで。森を抜けた先に馬車があります。護衛は残っていませんが、道は用意しました。……あとは、あなた方の選択だけです」
エルセラは、動けなかった。
「……どうして、来てくれたの……?」
「王家の血が、追われる前にお迎えせよ、との命を受けて」
「でも……あたし、王女なんかじゃ……」
言いかけて、口が止まった。
エルセラの髪は、まだ染め直して間もない黒だった。
けれど、ウサマには、火に照らされたその髪の奥に、かすかに金が滲むのを見た気がした。
ウサマは小さくうなずいた。
「……行こう。今は森の家には、戻れない」
エルセラも、震える足を一歩前へ踏み出す。
森が夜を抱えたまま、また彼らの背を押した。
エルセラの旅が、始まった。
木々の間を抜けると、小さな林道に、黒い幌の付いた馬車が一台、ひっそりと待機していた。
御者の姿はない。だが、扉は開けられ、灯りの点ったランタンがぶら下がっている。
「お急ぎを。ここからは、馬が道を覚えています」
フードの女が、静かに促した。
二人は無言のまま乗り込み、扉が閉まると、すぐに馬車はゆっくりと動き出した。
ガタゴトと揺れる車輪の音が、森の夜気の中を刻む。
窓の外には、木々の影が流れていく。
誰も追ってこないはずなのに、胸の鼓動はしばらく静まらなかった。
やがて、森の道が終わると、石畳が始まった。
しばらくして、古い塔屋付きの離れ屋敷の門の前で馬は歩みを止めた。
二人は馬車を降り、少し開いたままの門の隙間から中に入る。
屋敷の扉の前でウサマは立ち止まった。
エルセラの手が、名残惜しそうにウサマの袖をつかんだ。
「……一緒に来ないの?」
その声に、ウサマは静かに笑った。
「俺、まだママに聞く一つの質問が残ってる。それにさ、……あんたの王座に、俺なんか要らないだろ?」
エルセラは少しだけ口を開きかけて、何かを言いかけたが、やがてそれを飲み込む。
代わりに、小さな包みをポケットから取り出した。
「……これ、読んでも読まなくてもいい。でも、君があたしのこと、思い出してくれたらって……」
包みは、小さく折られた一枚の羊皮紙だった。
「手が震えてたから、字が少し汚いかも」
そう言って、彼女は少しだけはにかんだ。
ウサマは受け取り、何も言わずにうなずいた。
「……じゃあ、ちゃんと待ってて。あたしが呼べる立場になったら、また迎えに行くから」
「その時には、本当の名前で呼んでくれよ」
「……うん。ウサマ」
ふたりはそれ以上何も言わなかった。
エルセラは振り返らずに扉を開けた。
黒い髪が、もう一度揺れて、そして屋敷の中に消えた。
中で、迎えの従者に案内されたエルセラが通されたのは、天井の高い石造りの広間だった。
中央に長椅子。壁に重い織物。
そして、窓辺で佇んでいた一人の女が、ゆっくりと振り返った。
その姿を見たとき、エルセラの体が自然と強ばった。
金の髪。蒼い瞳。白磁のような肌。
大人の、まだ自分にはない、完成された美が、そこにはあった。
「……そなたが、エルセラか?」
その声は、低く澄んでいてよく通る。
けれど、どこか冷たい秤のような印象があった。
「……ええ、そう呼ばれてるわ」
「そうか。私を恐れもせず、名乗りもきちんとできる。礼も立ち居振る舞いも、ファティマにしては上出来だ」
育ての母の名を呼ばれ、エルセラの眉がぴくりと動いた。
「……あなたは?」
「私は、リナリー・フォン・シーランド。王母であり、そなたの母。そして、王座を継ぐ者を育てる女」
その一言に、エルセラの呼吸が止まる。
言葉は唐突だった。あまりに真っ直ぐで、容赦がなかった。
「信じられないのも無理はない。だが、その瞳がすべてを語っている。それに、そなたには選ぶ権利がある。『王』となるか、それとも『魔女の娘』のまま終わるか」
エルセラは、今までにないほど黙った。
けれど、その胸の中には、確かに答えたい何かが芽吹きはじめていた。
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ノアとカイ小話
【第9話】ヴィンセントに似てる?
夜風が涼しくなったころ、ふたりは焚き火の側に座り、黙って火の揺らめきを見つめていた。
カイがふと、手にした枝で地面をなぞるように言った。
「……君さ、ヴィンセントに似てるって言われない?」
ノアは、眉を少しだけ動かして、カイの方を見た。
「……言われたよ。ホープ様にも、ノクシアル邸の従者にも……関所でも。君の……伯父さん、だった人だよね」
「うん。父上の親友でもあったって、母さんは言ってた。……でも、家の中じゃほとんどその名を出さない。あの人の話をすると、空気が変わるんだ」
「実は……僕を見て、君のお母さん、倒れちゃって……」
「……え? 本当に?」
カイは少し間を置きながら言葉を選ぶ。
「母上が言ってた。ヴィンセントは、母上のお兄さんで、ギリアン王の幼馴染、腹心の友だったって。……あんまり多くは話してくれなかったけど、悪魔みたいな人だったらしい」
「悪魔……?」
ノアは目を見開き、カイの方を見た。
カイは声を低くして続ける。
「そう。頭脳は明晰、不敗の元帥、王族にも頭を下げない、恐ろしいほどの変人。そして美しい男」
「……うーん、じゃ、やっぱり、僕は似てないな」
「……君は、一度、鏡をゆっくり見た方が良いんじゃないかな?」
カイは笑いながらも、少し寂しげな色を帯びていた。
「神学校ではさ、問題児だとか、そもそも伯父の名前を出しちゃいけない雰囲気だった。……多分、先生たちはヴィンセントのこと、良く思ってなかったんだろうね」
「でも、誰かが嫌ってるってことは、それだけ何かを変えようとしてたってことかもしれない」
「君……やっぱり、ヴァロニア人とはものの見方が違うね」
「そう? かな?」
カイがちらりとノアの横顔を見た。
「僕、昔、神学校でこっそり論文を読んだことがあって、そこにヴィンセント・フォン・ラヴァールの名があったんだ。ぼろぼろの写しだったけど……」
風が枝葉を揺らす音が、ふたりの間に流れた。
「……それが原因で、彼自身が滅びたって噂もある。ヴィンセントは」
カイは、手の中の枝をぽきりと折った。
「……父上も母上も、伯父について何も教えてくれないけど。本当に、魔女王の剣だったのかな? 僕には、彼が剣よりも、ペンを持っていた印象があってさ。思想家、だったんじゃないのかな。……きっと、世界の何かを変えたかった人」
焚き火がぱちりと鳴った。ふたりの言葉の余韻だけが、ゆっくりと夜に溶けていく。
火がぱち、と小さく爆ぜた。沈黙が数拍続いたあと、ノアが静かに言った。
「……じゃあ、僕たちが、彼の変えようとした世界……全部、見ながら旅をしようよ」
「うん……それ、いいね」
二人の影が、焚き火の揺らぎの中で少しだけ重なった。
ヴィンセントという、かつて世界の片隅に吹いた嵐の記憶が、今、ふたりの足元にも静かに舞い始めていた。




