第20話 受け継がれた輪郭
ふと、森の空気が変わった。
焚き火の煙が止まり、葉擦れの音が遠のいていく。
風がないのに、木々がざわりと震えた。
ウサマは何の前触れもなく背筋に冷たいものを感じ、思わず立ち上がった。
「……?」
そのとき、戸口の外から軽やかな足音がした。
地面を滑るような、草を踏んでいるはずなのに音のない歩み。
そして、扉がノックもなく、音を立てずに開いた。
そこに立っていたのは黒髪の女だった。
まっすぐに伸びた艶のある黒髪。
硝子のように澄んだ、けれどどこかくすんだ翠の瞳。
まつ毛は長く、頬にはうっすらと紅がさしている。
整った異国の顔立ち。けれど、ウサマにとっては、懐かしい西大陸の風貌だった。
誰が見ても、彼女を美しいと思うだろう。いや、それ以上に、思わず、手を伸ばしたくなるような、儚さと強さを同時にまとう美しさだった。
無垢で、気まぐれな、そして抗いがたい力を纏っている。
まるで、人の形をした何かのように。
「ただいま、エルセラ」
その声はやわらかく、どこか歌うようだった。
「ママ! おかえり!」
エリーがぱっと駆け寄り、ほとんど同じ背丈の女性に抱き着いて頬にキスをする。二人は年齢もそう違って見えない。
その動きはあまりに自然で、さっきまで魔女について話していた少女とは思えなかった。
ウサマはしばらく、何も言えなかった。
エリーの姿を目で追ってしまっている自分に気づいて、視線を逸らす。
「……あなたが、噂の旅人さんね?」
魔女が、こちらを見た。
目が合った瞬間、全身の毛穴が一斉に開くような感覚が走る。
読まれているわけではない。
でも、見られていることそのものが、耐え難い。
それでも、声は平静を装って出た。
「……俺は――レオンです」
「……そう、レオン?」
魔女は一歩近づき、微笑んだ。
その笑みが、ウサマには見透かした笑みに見えた。
「……レオン、この人が、ママよ」
エリーが少し緊張した声で言うと、ウサマは無言で頷いた。
魔女はウサマの前まで歩み寄ると、その傷にふと目を落とした。
「……そう。これが挨拶だったのね」
ウサマは皮肉めいた笑みを返したが、魔女の声には怒りも驚きもなかった。
ただ、少し愉しげな響きが混ざっていた。
「ママ、あたしのせいなんだけど、ほんとに、そんなつもりじゃなかったの。……でも、ちょっと傷が深くて」
エリーが小声で訴えると、魔女はふんわりと微笑んで彼女の頭を撫でた。
「大丈夫よ、エルセラ。血が出ただけで、命までは取ってないもの」
「でも……縫った方がいいかも。ね? ママがやってくれる?」
エリーがそう頼んだとき、ウサマは魔女の瞳が一瞬だけ鋭く細まったのを見逃さなかった。
「わたくしが?」
魔女はゆっくりと首を傾げ、ウサマの瞳をじっと見つめた。
「それは違うわ。これは彼の傷でしょう?」
「え……?」
「傷を負わせたのは、エルセラ。でも、その傷を受けたのは、あなただから――治すのも、あなたの役目」
ウサマは思わず言葉に詰まった。
言い返そうとする間もなく、魔女はすでに棚の奥に手を伸ばし、曲がった小さな縫い針と、細い麻糸の束を差し出していた。
「エルセラ、準備を。燻した香と、熱した鉄。それと、ミルクスローの粉を少し」
「……は、はーい……」
エリーがぱたぱたと動き出す。
ウサマは戸惑いながら、針と糸を受け取った。
その針先は、予想以上に鋭く冷たかった。
「……俺、やったことないけど」
「最初はみんなそうよ。でも、ちゃんとできるわ。それに、あなたには、それくらいの痛みが必要でしょ?」
その言葉に、ウサマは一瞬、顔を上げた。
魔女は笑っていた。
けれど、その笑みに込められた意味は、ウサマにはまだ読めなかった。
魔女は部屋の隅にある古びた棚の引き出しから、手鏡を取り出した。
「これで見ながら、やってみて。少し傾けて、光が入るように」
ウサマは受け取った鏡をそっと膝に乗せ、炉の火のそばへ移動した。
ゆらぐ灯が鏡の面に映り、淡く自身の顔を照らす。
そこに映ったのは――
血の滲む頬と、黒い髪。
気まずさを押し隠すような眉の動き。
そして、その目の奥にわずかに浮かぶ、焦りとも、困惑ともつかない表情。
ウサマは一瞬、目を細める。
髪の色も、質も、父とは違う。
けれど、その輪郭の線。
目のかたち、鼻筋、無意識に結ばれる唇――
やっぱり似ている。
父に。
そして、兄に。
自分は、確かにあの人の息子なのだと、鏡を通してようやく実感した。
視線を落とすと、針と糸が手の中にあった。
震えはない。けれど、どこか手が重かった。
そのとき、ふと横からの視線を感じて、顔を上げる。
魔女が、何も言わずにこちらを見ていた。
その瞳には、暖かさも冷たさもない。
ただ、すべてを知っている者の静けさだけが、そこにあった。
……魔女は気づいてる。
名乗ってもいないのに。まだ何も言っていないのに。
けれどこの人は、最初から――
「縫うなら、今のうちよ。傷が熱いうちの方が通りがいい」
魔女が、まるで何も見ていないふうに言った。
ウサマは深く息を吐き、鏡をもう一度見つめ直す。
「……わかった」
糸を通し、針を火にかざす。
その動作の間、鏡の中の自分がまっすぐこちらを見ていた。
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ノアとカイ小話
【第5話】僕の剣と君の手
夜も更けて、野営地に静けさが戻っていた。焚き火の火はまだ絶えず、赤い灯がじわりと薪の芯を焦がしている。
その火を囲んで、ノアとカイはそれぞれの荷を広げていた。
カイは剣を膝に乗せ、布で丁寧に刃を磨いていた。石と油で手入れされた剣は、月明かりをぼんやりと反射している。
「……君、ほんとに道具を扱うの、上手いよね」
ふと、カイが手を止め、ノアの手元を見つめた。
ノアは、荷の中から薬草を仕分けていた。乾いた葉や実を慎重に包みに分けるその手は、静かに動きながら、どこか美しい所作だった。
「……君の手は、傷じゃなくて、染みが多いんだね」
カイがぽつりと呟いた。
ノアは手を止めて、自分の手の甲を見下ろす。
たしかに、刃物の痕は少ない。けれど、指先には細かい染料の滲みや、草の色が薄く染まっていて、ところどころ、紙の粉や墨が入り込んだような跡もある。
「……薬草と、染料と、写本の汚れ、かな」
ノアの声は淡々としていたが、なぜか照れくさそうでもあった。
カイは興味深そうにその手を見つめた。
「写本って……絵も描けるの?」
「うん。母さんの仕事を手伝ってたから。記録の転写とか、地図の写しとか、薬草図鑑の絵とかも。小さい頃からずっと」
カイは思わず感嘆の息を漏らした。
「すごいな……僕なんか、剣と馬以外はまともに教わってないのに」
ノアは小さく笑った。
「でも、君の剣、すごく手入れが行き届いてる。あれ、ちゃんと愛されてるって顔してるよ」
カイは一瞬驚いて、それから照れくさそうに頬をかいた。
「……そりゃまあ、大事だからね。自分の剣は、いつだって信用できる相棒だから」
ノアはふっと目を細めた。
「僕の手が何かを治すなら、君の剣は何かを守る。……違うけど、どっちも、同じくらい大切なんだと思う」
「……うん。きっと、そうだね」
その夜、焚き火を挟んで、ふたりの武器が語られる。
一方は刃の光を宿し、一方は草の香りを染み込ませた指先で――
まだ誰も知らない未来の中、確かにふたりの間に、静かな信頼が芽生えていた。