第11話 七年越しの再会
リエンテ郊外、夕暮れのノクシアル邸。
石門の前で、アサドは馬を降り、名を告げるでもなく門を叩いた。
「ご用件は?」
番兵の声は硬い。
見慣れぬ旅人、それも騎士階級に見えない青年が、直接ノクシアル侯を訪ねる理由など、そうそうない。
「……知人の名を頼りに来ました。ノクシアル侯に、伝えていただきたいことが」
門番が目を細めて見返した。
「これを」
アサドは、ホープの筆跡を真似た、偽物の手紙を見せた。
しかし、それを見るより前に、脇から老兵が顔を覗かせ、ふと口を開いた。
「……おや……その目元……まさか、兄様では……」
「兄様?」
「いや、失礼。……奥様のお兄様、若かりし頃のヴィンセント様に、よく似ておられるんです。まるで、肖像画から抜け出したように……」
また、ヴィンセントの名が出た。
「……いえ、私は、ヴィンセント、という人物ではありません」
アサドはあっさりと答えた。
門番は困惑気味に老兵へ目配せする。
「……ではラシェル様にご確認を?」
「それは……やめた方がいい。姫様は……兄上の話が出ると、いまだに、少し……」
老兵は言葉を濁しながら、小さく首を横に振った。
どこか遠くを見るような視線には、古い記憶の痛みがにじんでいた。
アサドは少し迷ってから、静かに答えた。
「ノア、と名乗っています。……ですが、本当の名前はアサドと言います」
アサドが目を向けると、門番は確認するように言葉を重ねた。
「侯爵様から、アサドという者が現れたら、すぐ通すようにと、前もって命じられておりました。……ノアとは、別名ですか?」
「はい。……本当の名前は、アサドです」
門番と老兵は同時に頷き、重い扉を開いた。
「ノクシアル様にすぐ取り次ぎます。どうぞ、お入りください」
ゆっくりと開かれていく格子門の先――
アサドは、かつてウサマが足を踏み入れた同じ道を、確かな足取りで進んでいった。
石畳の回廊を抜けた先、アサドは緑の庭園を歩いていた。
庭には小さな噴水があり、咲きはじめた白薔薇の蕾が、夕暮れの風に揺れている。
誰かの気配が近づいてきた。
靴音は落ち着いていて、けれど確かに、急いでいた。
「……やっぱり、君だったか」
黒髪の騎士が、夕陽の逆光の中から現れる。
ホープ・ノクシアル。
かつて聖地で「姉を探していた男」は、この屋敷の主だった。
その声に、アサドは静かに頭を下げた。
「お久しぶりです。ノクシアル侯爵様……」
「……いや、ホープでいいよ。君には、そう呼ばれたい」
その一言に、アサドの目がわずかに和らぐ。
ホープは近づき、目の前のアサドの姿をまっすぐ見つめた。
「七年前の、あの子だろう?」
「はい。あの時、僕を案内人に選んでくれて……ありがとうございました」
ホープの胸に、記憶がよみがえる。
何かを守っていた少年の瞳。
ジェードという女の人を探していると告げたときの、不安そうな顔。
そして今、目の前にいる彼は――
(もうぼくより背も高い。……それに、ヴィンセントにやっぱり似ている)
「……ずいぶん、大人になったな。君があの時のアサドか。ウサマの、兄だな」
その名を出されたとき、アサドの背筋が微かに動いた。
「ウサマが、ここに、来ましたか……?」
「来ていた。偶然だったけど……いや、もう偶然とは言えないかもしれないな」
ホープの声に、かすかな苦笑が混ざる。
「君の弟は、自分のことをレオンと名乗っていた。母親を探している、とも」
アサドは息をのむこともなく、頷いた。
「僕は弟の後を追って、ここに来ました。……弟が母を探していると聞いたから」
「アデルだね――」
その名を言うホープは少し辛そうに見えた。
ホープは、アサドの眼差しをまっすぐに受け止めながら、言った。
「……中へ入ろう。君に見せたいものがあるんだ。君の弟が、忘れていったものだ」
アサドは微かに目を伏せ、
「……はい」とだけ返事をして、ホープのあとに続き屋敷へと入っていった。
アサドはホープに連れられ、彼の書斎へやってきた。
重たい扉が軋む音を立てて閉じたあと、書斎には静かな空気が戻った。
ホープは、棚の上からひとつの包みを取り出し、テーブルの上に置いた。
「……君の弟が、ここに泊まっていった夜、部屋に忘れていったものだ」
包みの中にあったのは、革の鞘に収められた一本の短剣だった。
飾り気もなく、恐らく高級品でもない、庶民が使うものだ。
アサドはその鞘を見た瞬間、肩を落とした。
「こんな大事なものを忘れるなんて。それは……母の短剣なんです。二年前、母が旅に出るときに、僕が受け取りました。……でも、弟が出て行く気配があったので……こっそり、鞘の内側に紙を入れたんです」
ホープは、ふと眉を寄せた。
「……あれだろ?」
アサドは頷き、まっすぐホープを見る。
「はい。昔、聖地でお会いした時……僕に紙を渡してくれましたよね。名前と住所を書いた、小さな羊皮紙です。……あれを、弟に渡すつもりで……」
ホープは驚きもせず、しばらく黙って短剣を見つめた。
やがて、鞘の隙間からそっと紙を引き抜く。
「でも……弟さんは、この紙の存在には気づいていなかったんじゃないかと思う」
「え?」
「ここに来たのは、あの紙を見たからじゃない。それに彼は、レオンと名乗った。誰かの助言でそう名乗っていたらしい。君の名も、母の本名も、一言も出さなかった。……この短剣の中に紙が入っていたなんて、まるで気づいていなかったと思うよ」
アサドは目を伏せる。
兄として、渡したものが渡らなかった悔しさというより――弟がその紙を必要としないほど迷っていたことに気づかされたようだった。
ホープは革鞘の焼き印に目をやる。
「……この印、J.D.は見覚えがあってね」
アサドは顔を上げた。示された革鞘には、薄く消えかけたイニシャルが入っていた。
「……これが何か?」
「それは、その短剣の持ち主のイニシャルなんだ」
ホープの言うとおりだとしたら、Jはジェードの頭文字なのだろうか。
ではDは? アサドは母の過去のことを何も知らない。
「ジャック・ダーク。それが、君の母、アデルの父親の名だ」
「……僕は、母の父の名前を知らないんです。何も、教えられていませんでした」
ホープは静かに頷いた。
「……君の祖父にあたる人物だ。残念だけど、彼はもうこの世には居ない」
アサドは息を呑んだ。
短剣をそっと手に取り、焼き印の上に親指を重ねた。
「……じゃあ、これは……本当に家族の形見なんだ」
アサドの言葉に、ホープは小さく微笑んだ。
「そして、そのアデル……君の母は、ぼくの双子の姉でもある」
しん、と空気が止まったようだった。
夕陽の光が窓から差し込み、机上に影を落とす。
アサドは、しばらく何も言わなかった。
だがその沈黙は、動揺よりも静かな確認だった。
「……そうでしたか」
ただ、それだけを言った。
十歳の時、ハリーファからアデルの本当の名前を聞いた時から、アサドは既にわかっていた事だった。
だが、ホープの口から聞くことができて、ようやく胸の中に落ちて来た。