第10話 最初の門
馬の歩みに揺られながら、アサドは東の丘をあとにした。
巡礼の道――誰もが聖地を目指して進むその道を、アサドは逆に進んでいた。
時折すれ違う巡礼者たちは、金髪の青年を不思議そうに振り返り、中には軽く頭を下げる者もいた。
ウサマも、この道を通ったのだろうか。
風はまだ冷たく、春の匂いがわずかに混じる。
村を越え、畑を抜け、やがて黒髪の人々が住まうヘーンブルグ領に入ったとき、周囲の視線が、少しだけ変わる。
フードを外した時、皆が金髪のアサドを振り返る。
黒髪ばかりだった。
しかし、アサドの中に恐れはなかった。
ただ、聖地のぬくもりが遠のいていく感覚だけが、胸に広がっていた。
日暮れには町の宿に泊まり、馬に水と草を与え、食事は簡素なパンと干し肉。
誰かに話しかけられても、必要以上のことは語らない。
だが、礼儀は忘れず、きちんと名を名乗った。
『ノア』と――。
そして旅の数日後、赤と銀の王国旗が風にたなびく関所が見えてきた。
アサドは迷いなく馬を進めた。
旗が揺れる石の塔、乾いた風、旅人の列はまばら。
その中で、アサドは静かに馬を降りた。
関所の塔が近づくにつれ、アサドの手のひらがじんわりと汗ばんでいくのを感じていた。
石造りの門、旅人の列、鋭い視線。
書類の確認所へ歩くその一歩一歩が、何よりも重く感じられた。
「通行許可証を」
「……はい」
アサドは革袋から羊皮紙を取り出し、できるだけ自然な手つきで差し出す。
それは、完璧な許可証だった。
文面、印影、記載日付、署名。すべてを自分で書いた。
整備技師補ノア名義――
かつて政庁で書類整理を手伝っていたとき、控え室で見た本物を、脳裏からそっくり写した。
多分、ソルに頼れば、本物を発行してくれただろう。でも、それはずるいんじゃないかと思った。
緊張を隠し、問答にも答える。
兵士が羊皮紙に目を通している間、アサドは内心でじっと祈る。
どうか、偽物だとバレませんように。
するとそのとき、背後から別の衛士がふと小声で囁いた。
「……あの顔……あの、ヴィンセント卿に似てないか?」
「おい、それは禁句だ。ラヴァール家の話はやめておけ」
「それに、生きてたとしても五十近いんだぞ? あの目元、絵にあったよな……」
アサドは表情を変えなかったが、心の奥が少しざらついた。
その名前――ヴィンセント。
昔、ホープ・ノクシアルの心の声からも聞こえてきた名前だ。僕はヴィンセントと言う人に似ているのか……?
「……通っていい」
兵士は無造作に許可証を返し、道をあけた。
アサドは微かに頭を下げ、馬に戻った。
門を越えたとき、ようやく息を吐く。
……通れた。マズかったら、さすがに止められてたはずだ。
馬の歩みに合わせて、風が頬をなでる。
聖地を離れて初めての越境。
それを成し遂げたのは、ソルの助けでも家族の力でもなく、自分の手だった。
関所を越えた先、道は丘を緩やかに下り、小さな町へと続いていた。
それは、聖地とはまるで違う景色だった。
屋根の赤い瓦は斜めに重なり合い、灰色の石壁にはぶどうの蔓が絡まっている。
小さな窓には布のカーテンが風に揺れ、木製の看板が軒ごとに下がっていた。
道沿いには屋台が出ていて、甘い焼き菓子の香りや、燻製肉の匂いが漂ってくる。
(……色が濃いな)
アサドはそう思った。
建物も、人の声も、服の色も。すべてが少し鮮やかで、重たい。
聖地の砂地に白い石と金属の調和とは違う。
ここには、もっと濃い匂いがする。
通りを行き交う人々は、彼を特別視することはなかった。
金髪に翠の目という外見は、目立ちはしたが、警戒されるような空気ではない。
(それに、誰も、他人に興味を向けていない)
それは聖地のような祈りの空気ではなく、もっと実利的な生活のリズムだった。
アサドは馬の手綱を引いて、ひとまず道沿いの水場で止まる。
少女が水を汲んでいた。
目が合うと、少し驚いたように見つめて、それから小さく会釈して去っていった。
……ほんの些細な、しかし確かに異国の瞬間だった。
(ここで、ウサマは何を見たんだろう)
ふと、風が吹いた。
聖地の風とは違う、少し重たく湿った空気――
遠く、港の気配すら感じる風だった。
アサドは手綱を握り直す。
この先にあるのは、王都、目指すのはその郊外リエンテ。
そして『ホープ・ノクシアル』と書かれた、あの紙の主。
丘の上に立ったとき、王都の姿がようやく見えてきた。
瓦の赤が夕陽に染まり、尖塔の影が街に線を引くように伸びている。
石造りの城門と、複雑に入り組んだ路地。
城下の家々は大きな道に沿って斜面を這うように広がり、その上には黒い旗がはためいていた。
(……ここが、ヴァロニアの心臓か)
アサドは馬を止めた。
心なしか、空気が聖地よりも重たく感じられた。
それは湿度ではなく、言葉にならない積み重なった何かの気配。
ウサマも、きっとこの街を見たのだろう。
同じように風を感じ、同じように、ここに何かを求めて来た。
アサドは鞄から、小さく折られた紙片を取り出す。
Hope Noxiale.
Liente Outskirts. Noxiale Estate.
Valonia.
あのとき、静かに渡された連絡先を、アサドが書き写したもの。
これも、何かの為になるかと、筆跡を完璧に真似てある。
いま、それが道標になっている。
(……僕が、ここまで来た理由)
それは誰かに与えられたものではなく、もう自分自身のものだ。
アサドは再び手綱を握り、馬を進めた。
王都の門は、開かれている。
遠く、鐘の音が響きはじめていた。