表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天国の扉 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第2章 金色の獅子
10/80

第10話 最初の門

 馬の歩みに揺られながら、アサドは東の丘をあとにした。

 巡礼の道――誰もが聖地を目指して進むその道を、アサドは逆に進んでいた。

 時折すれ違う巡礼者たちは、金髪の青年を不思議そうに振り返り、中には軽く頭を下げる者もいた。

 ウサマも、この道を通ったのだろうか。

 風はまだ冷たく、春の匂いがわずかに混じる。

 村を越え、畑を抜け、やがて黒髪の人々が住まうヘーンブルグ領に入ったとき、周囲の視線が、少しだけ変わる。

 フードを外した時、皆が金髪のアサドを振り返る。

 黒髪ばかりだった。

 しかし、アサドの中に恐れはなかった。

 ただ、聖地のぬくもりが遠のいていく感覚だけが、胸に広がっていた。


 日暮れには町の宿に泊まり、馬に水と草を与え、食事は簡素なパンと干し肉。

 誰かに話しかけられても、必要以上のことは語らない。

 だが、礼儀は忘れず、きちんと名を名乗った。

 『ノア』と――。


 そして旅の数日後、赤と銀の王国旗が風にたなびく関所が見えてきた。

 アサドは迷いなく馬を進めた。

 旗が揺れる石の塔、乾いた風、旅人の列はまばら。

 その中で、アサドは静かに馬を降りた。

 関所の塔が近づくにつれ、アサドの手のひらがじんわりと汗ばんでいくのを感じていた。

 石造りの門、旅人の列、鋭い視線。

 書類の確認所へ歩くその一歩一歩が、何よりも重く感じられた。

「通行許可証を」

「……はい」

 アサドは革袋から羊皮紙を取り出し、できるだけ自然な手つきで差し出す。

 それは、完璧な許可証だった。

 文面、印影、記載日付、署名。すべてを自分で書いた。

 整備技師補ノア名義――

 かつて政庁で書類整理を手伝っていたとき、控え室で見た本物を、脳裏からそっくり写した。

 多分、ソルに頼れば、本物を発行してくれただろう。でも、それはずるいんじゃないかと思った。

 緊張を隠し、問答にも答える。

 兵士が羊皮紙に目を通している間、アサドは内心でじっと祈る。

 どうか、偽物だとバレませんように。

 するとそのとき、背後から別の衛士がふと小声で囁いた。

「……あの顔……あの、ヴィンセント卿に似てないか?」

「おい、それは禁句だ。ラヴァール家の話はやめておけ」

「それに、生きてたとしても五十近いんだぞ? あの目元、絵にあったよな……」

 アサドは表情を変えなかったが、心の奥が少しざらついた。

 その名前――ヴィンセント。

 昔、ホープ・ノクシアルの心の声からも聞こえてきた名前だ。僕はヴィンセントと言う人に似ているのか……?

 「……通っていい」

 兵士は無造作に許可証を返し、道をあけた。

 アサドは微かに頭を下げ、馬に戻った。

 門を越えたとき、ようやく息を吐く。

 ……通れた。マズかったら、さすがに止められてたはずだ。

 馬の歩みに合わせて、風が頬をなでる。

 聖地を離れて初めての越境。

 それを成し遂げたのは、ソルの助けでも家族の力でもなく、自分の手だった。




 関所を越えた先、道は丘を緩やかに下り、小さな町へと続いていた。

 それは、聖地とはまるで違う景色だった。

 屋根の赤い瓦は斜めに重なり合い、灰色の石壁にはぶどうの蔓が絡まっている。

 小さな窓には布のカーテンが風に揺れ、木製の看板が軒ごとに下がっていた。

 道沿いには屋台が出ていて、甘い焼き菓子の香りや、燻製肉の匂いが漂ってくる。

(……色が濃いな)

 アサドはそう思った。

 建物も、人の声も、服の色も。すべてが少し鮮やかで、重たい。

 聖地の砂地に白い石と金属の調和とは違う。

 ここには、もっと濃い匂いがする。

 通りを行き交う人々は、彼を特別視することはなかった。

 金髪に翠の目という外見は、目立ちはしたが、警戒されるような空気ではない。

(それに、誰も、他人に興味を向けていない)

 それは聖地のような祈りの空気ではなく、もっと実利的な生活のリズムだった。

 アサドは馬の手綱を引いて、ひとまず道沿いの水場で止まる。

 少女が水を汲んでいた。

 目が合うと、少し驚いたように見つめて、それから小さく会釈して去っていった。

 ……ほんの些細な、しかし確かに異国の瞬間だった。

(ここで、ウサマは何を見たんだろう)

 ふと、風が吹いた。

 聖地の風とは違う、少し重たく湿った空気――

 遠く、港の気配すら感じる風だった。

 アサドは手綱を握り直す。

 この先にあるのは、王都、目指すのはその郊外リエンテ。

 そして『ホープ・ノクシアル』と書かれた、あの紙の主。



 丘の上に立ったとき、王都の姿がようやく見えてきた。

 瓦の赤が夕陽に染まり、尖塔の影が街に線を引くように伸びている。

 石造りの城門と、複雑に入り組んだ路地。

 城下の家々は大きな道に沿って斜面を這うように広がり、その上には黒い旗がはためいていた。

(……ここが、ヴァロニアの心臓か)

 アサドは馬を止めた。

 心なしか、空気が聖地よりも重たく感じられた。

 それは湿度ではなく、言葉にならない積み重なった何かの気配。

 ウサマも、きっとこの街を見たのだろう。

 同じように風を感じ、同じように、ここに何かを求めて来た。

 アサドは鞄から、小さく折られた紙片を取り出す。



     Hope Noxiale.

    Liente Outskirts. Noxiale Estate.

              Valonia.



 あのとき、静かに渡された連絡先を、アサドが書き写したもの。

 これも、何かの為になるかと、筆跡を完璧に真似てある。

 いま、それが道標になっている。

(……僕が、ここまで来た理由)

 それは誰かに与えられたものではなく、もう自分自身のものだ。

 アサドは再び手綱を握り、馬を進めた。

 王都の門は、開かれている。

 遠く、鐘の音が響きはじめていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ