第1話 灰より生まれよ
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霧雨の降る夕暮れだった。
馬車がひとつ、静かに薔薇の館の門をくぐる。幌の内には、かつて王妃と呼ばれた女が乗っていた。今、その名を口にする者はいない。
彼女の名は、リナリー。
重たい外套をまとい、フードの奥から顔はほとんど見えない。だがその背筋は、誰の目にも傲慢なほどにまっすぐで――敗者にしてなお、王家の血を名乗ることをやめない者の誇りがあった。
館の玄関扉が開かれ、一人の男が現れた。
男は女の顔を見ようとはせず、ただ短く命じた。
「……部屋は奥だ。外出も、来客も、すべて禁ずる」
その言葉に、リナリーはふと口元をほころばせた。
「殺さずに幽閉とは……それとも、そなたが私を飼えるとでも?」
「死なせれば『象徴』になるだけだ。民はまだ元王妃のお前に幻想を見ている。二重王国と言う幻想をな」
「幻想の方が、時に現実よりも強いのを知らぬのか?」
その瞬間、男の瞳が微かに揺れた――が、返答はなかった。彼は無言で背を向け、護衛に指示を飛ばす。
「……ヴァロニアも、我らシーランドも氷の王家だ。王はただ一人。嫡流の男子が継ぐべきだ」
リナリーは足を止めた。
「だからこそ、シーランドの王は――そなたではない。ローランの血を引く、アンリだ」
男の背がわずかに強張る。
リナリーはその様子を楽しむように、薄く微笑んだ。
「王位を語るなら、血を語りなさい。氷とはそういうものだろう?」
沈黙のあと、男はゆっくりと振り返った。
「……その子が、果たしてお前を母と呼ぶと思うか?」
その声は冷たく、それでいてどこか脆い響きを孕んでいた。
リナリーは視線を逸らさず、静かに言い返した。
「王は、誰を母と呼ぶかで決まるものではない。……誰が玉座を動かすかで、歴史は選ばれる」
男はそれ以上、何も答えなかった。
ただ、扉の前に立ち、護衛に短く命じた。
「閉じろ。鍵は、私が預かる」
鉄の扉が音を立てて閉じられる。
その瞬間から、リナリーは誰の目にも触れない囚われの王太妃となった。
与えられた部屋は、贅沢でもなく、粗末でもなく。
隣に控えるのは、監視役と思しき氷のような女官と、リナリーが連れてきた年若い侍女。
「これからは、すべてこの部屋でお過ごしください」
女官の声には、感情の波がなかった。
侍女は何も言わない。ただ、リナリーの外套を静かに脱がせ、机に茶を置いた。
リナリーは立ったまま、窓の外を見つめていた。
海から吹く風が、束ねられた金髪を揺らす。
「……炎は燃え尽きたと思っているのか?」
誰にともなく呟いた声は、どこか楽しげで、底知れぬ静謐さを孕んでいた。
「灰の中に残った火種こそ、次の時代を照らすもの。私がこの身を閉じ込めてでも、灯してみせよう――」
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