友達の死
並んでいるメロンの一つに、緑色の「甲虫のようなもの」が止まっている。ハエ一匹存在しない、清潔なスーパーマーケットの果物売り場で。
ウソだろう?思う間もなく「甲虫のようなもの」は翅を広げた。のみならず、こちらへ向かって飛翔を始めた。ギョッとして目を閉じる。ブウウウン、すれ違いざま耳元で羽音がする。慌てて振り返る、そこにはもう何物も居ない。開かれた自動ドアが大口を上げているのみである。近くにいた老婆と店員が怪訝そうにこちらの様子を伺っている。何事もなかったかのように、売り場の奥へ侵入していった
昨夜の酒がまだ抜けていなかったのか。昨日の昼、公用車を降り、山中で小用を足した。その際、すぐ傍で樹液を吸っていたオオムラサキが耳元を掠めていった。ブウンブウン、その羽ばたきの何と力強い事!ウワッ、驚きのあまり思わず声が出た。飛び散る小水。その印象が白昼夢となって表れたのかもしれない。
夜。遅番で独り事務室にいると、カが周りを飛び始める。標的は自分一人しかいない。プーンプーン、まとわりついてくる。「アイツは本当にさあ!」。さっきまで上司を批判し、業務を妨害していた同僚みたいに鬱陶しい。「じゃ、今度また飲みに行こうぜ」言いたい事を言ってようやく帰ってくれた。プライベートを費やしてまでグチに付き合わされるのか?まったく暗澹たる思いだ。とはいえ、友達と言えるのは彼しかいないし、外で飲み食いする相手も彼ぐらいなのだった。
昼。休みの昼はラーメンと決まっている。ラーメン店のカウンターで冷を片手にイライラしていた。「休みにゴメン!ちょっと聞きたいんだけど」。ついさっき同僚から電話が来た。わざわざ非番の人間を呼びつけなくても、対処できるような事でいちいち電話してくる。こんなことをするのは彼しかいない。グウと腹が鳴る。イライラは募る。カウンター奥の、赤で塗られた壁にあるものに目が留った。赤色の「甲虫のようなもの」が素早く這いまわっている。本当に?天井までいったらどうするのか?
その様は昨晩、自分の部屋でみかけた虫に似ていた。熱帯夜で、酒を飲んでいると汗が噴き出た。グッタリしていると白壁を黒いものが這うのを見た。ゴキブリである。一気に汗が引く。ゴキブリを注視しながら手元の新聞紙を丸める。黒いものが天井まで行くと、アッという間に飛翔を始めた!驚きのあまり声も出ない。フローリングの床に着地するの狙い、新聞紙を叩きつける!
・・・ゾッとする記憶。「お待たせしました!」目の前に丼が置かれた。思わず目を見開き女将を見る。「あっ、いただきます」小さな声で言う、彼女は困惑の色を浮かべた。すっかり食欲を無くし、赤で塗られた壁に目をやる。もちろん「甲虫のようなもの」の姿は無いのだった。
朝。誰もいない事務室の、机に朝日が当たっているのをジッと見つめる。早番なので誰よりも早く来なければならない。静かなのは何よりだ。ここ二週間ほど同僚と合ってない。彼は今入院中である。
一月前。「また行こうぜ!」、「金貸してくれない?」、「これ違うよ!」、「子供の用事で」、「ああ腰が痛い」プライベートへの侵入だけでなく、業務妨害も甚だしくなってきたある日、とうとう「五月蠅いな、いい加減にしろよ」と凄んだ。それ以降彼は話しかけて来なくなった。ちょっとやり過ぎたかな。それから何日かして、彼は手術のため入院した。元々持病があったという。
さて、業務は朝一が重要である。やる事は山ほどある。と、机の下のクリーム色のタイルの上に、クリーム色の「甲虫のようなもの」が蹲っていた。近寄っても微動だにしない。拾い上げる。既に死骸と化していた。雨風を凌げる事務室に侵入したものの、餌となるものが何もないこの部屋で餓死してしまったのだろう。気の毒に。せめて地面の上で弔ってやろうではないか。
外へ出る。周りはアスファルトの駐車場しかない。地面、土は---、どこにもない。ハッキリとしない、ボンヤリとしたイメージの友情みたいに。フェンスの向こうに小さな草むらを見つけた。そこに放ってやる。草むらから、「何かの昆虫」が飛翔していった。まさか死んだフリだったのか?「甲虫のようなもの」の?。いや、そうとも言えまい。何せ、地球上の昆虫種は全生物種の半数以上である。個体数も他に比べケタ違いだ。この惑星は「昆虫のもの」と言っても差し支えない。後から後から湧いて出てくる。
「また行こうぜ!」、「金貸してくれない?」、「これ違うよ!」、「子供の用事で」、「ああ腰が痛い」一月して同僚は帰ってきた。何事もなかったように、五月蠅い友情は再開した。