6-5(17)
彼女は定刻通り午後4時に喫茶店に現れ、小走りで僕に近づき少し
はにかんだ様子で軽く会釈した。
僕は今日が取材最終日という事をあえて意識せず、いつものように
彼女を迎え入れた。
涼しげな表情を浮かべる彼女は早速布バッグから筆記用具とドリルを
取り出すと、それらをテーブル上に並べ始めた。
時おり彼女が送る僕への視線は以前と変わらず愛らしいが、ナオミの
闘病初期を思わせる彼女の容姿についてあえて触れはしなかった。
病に侵されながらも無邪気に微笑む彼女を見ていると、一旦は解凍された
はずの”自責の念”とも言うべき思いが僕の中で再びふつふつと湧き上がる
のを痛感する。
「どうかしたの? 先生」
「あ、いや何でもないよ」「今日はね、いい物持って来たんだ」と僕は
鞄から一冊の旅行雑誌を取り出し彼女に向けた。
「うわぁ~ それってラスベガスの本?」
「そうだよ。これはガイドブックって言ってね。旅行者の手引きみたいなもん
かな。中を見てごらん」と表紙をめくり彼女に差し出した。
「街全体がキラキラしてすっごくキレイだね!」
「実際はもっとこう光に圧倒されるっていうか~ 上手く表現出来ないけど
とにかく凄いんだよ」と僕は両手を駆使しながら懸命にアピールした。
『お待たせしました』〈コト〉〈コト〉
「かおりちゃん、ジュース来たよ」「はい、どうぞ」
「ありがとう、先生」
「かおりちゃんってホントにラスベガスの街が好きなんだね」
「うん、キラキラしてるもん。あとね、なんか懐かしい感じもするし、時々
変な気持ちになる時もあるの」
「変な気持ちって?」
「上手く言えないけど~ 心がね、空っぽになったような淋しい感じかな」
と彼女はようやくストローをグラスに差し、ジュースを吸い上げた。
「あっ! そうそう、この前の話なんだけど、覚えてるかな?」
「この前の話?」
「そう、ちょっといいかな」と僕はテーブル越しに手を伸ばし付箋のついた
ページを開けた。
「このホテルに見覚えない? たとえばこの部屋とか」
「あっ、そういえば夢に出て来た部屋の感じとちょっと似てるかも」と
彼女はガイドブックに顔に近づけ瞬きを数回繰り返した。
「何か覚えてない? このベッドルームで転んじゃったとか、あと、ココで
誰かとお酒の話をしたとかさ」
「誰かって?」
「あっ、いや覚えてないなら別にいいんだけどさ」
「この時はずっと一人で、そう、それでクルクル回る階段で2階に上がって、
それでそこから誰もいない大きなベッドを見てたような……。先生、なんか私
辛くなってきたから、もう思い出すのヤメにしていい?」
「も、もちろんだよ。僕こそごめんね、変な事聞いちゃって」
若干気まずさを感じた僕はすかさず鞄からメモ帳を取り出し、作り笑いを
浮かべながら彼女に問いかけた。
「かおりちゃん、何か欲しい物とか、お願い事ってある?」
「欲しい物って? どうしてそんなこと聞くの」
「だってこれまでかおりちゃんは僕の取材に協力してくれたじゃない。だから
そのお礼にと思って。あまり触れたくなかったんだけど今日は最終日だしね」
と僕は気持ちを切り替えメモ帳を数枚めくった。
「かおりちゃん、どうかした?」
「えっ、だって~」
「遠慮しなくていいよ、何がいい?」
「何でもいいの?」
「うん、何でもいいよ」
「じゃ~ ずっと私の先生でいてくれる?」
「えっ」
「私、先生にこれからも勉強教えてほしいの」
「それはちょっと磯田先生の許可が必要っていうか、かなり難しいかもね」
「私ってバカだからね、勉強しないとみんなに迷惑かけちゃうし。それに
まだ知らない漢字がいっぱいで上手く本読めないし。だからこれからもずっと
私の先生でいて欲しいの」と彼女はまるで懇願するように僕を見つめた。
「確かにかおりちゃんの気持ちはよく分かるよ。でもさ、いま書いてる小説が
完成すると僕はもうココにはいられないんだ。だから残念だけどかおりちゃんの
願いを叶えるのは難しいかな。それにかおりちゃんはバカなんかじゃないよ。
だから僕がいなくてもかおりちゃんならきっと大丈夫だよ!」
僕の断り方が悪かったのか、一気に表情を曇らせた彼女は口を尖らせ視線を
下に移すとその後一切喋らなくなってしまった。
落胆し固まってしまった彼女に僕は気の利いた言葉一つ掛けてあげること
すら出来ず、無情にも取材終了時刻へのカウントダウンを迎える事となった。
「かおりちゃん、そろそろ時間だから何か欲しい物見つかったらココに
連絡して」と僕が胸ポケットから名刺を取り出そうとした瞬間!
甲高い金属音が店内に響き渡った。
〈カッシャ――ン!〉
筆箱の角がグラスが触れたのか突如グラスが倒れると、オレンジジュース
と氷がまるでさざ波のように彼女めがけ押し迫った。
僕はおしぼりを手に取り、ジュースがテーブルからこぼれ落ちるのを
防ごうと瞬時に彼女側へ回り込んだがタイミング的に少し遅かった。
僕はなんとかこぼれるジュースを最小限に食い止めながらもう片方の手で
テーブルの端に置かれたもう一つのおしぼりを掴み取り彼女に手渡した。
「さっ、かおりちゃん、これで拭いて」
「うん」
たっぷり水分を含んだおしぼりでなんとか残されたジュースをテーブルの
中央付近に寄せきった僕は安堵し、ふと彼女に視線を移した。
すると予てから彼女と一定の距離を意図的に保っていた為気付けなかったが、
彼女の首筋に点在する赤いアザのようものに違和感を覚え僕は思い切って
彼女に問いかけた。
「かおりちゃん、首に赤いアザみたいなのあるんだけど、それどうしたの?」
「えっ……」
彼女の尋常ではない慌てぶりを目の当たりにした僕は妙な胸騒ぎを感じ、
なるべく彼女を刺激しないよう優しい口調で問い掛けた。
「かおりちゃん、施設で何かあったの?」
「特に何もないよ」
「でもさ、ちょっと気になるんだよね。何があったのか話してくれないかな。
僕は誰にも話さないよ。秘密は絶対守るからさ」
まるで僕達の空間だけ取り残されたような重い沈黙を経て、ようやく口元を
真一文字結んだ彼女は僕に隣に座るよう無言で手招きした。
そして彼女から告げられたその内容は卑劣極まりなく、僕の想像を遥かに
超えるもので僕は彼女に掛ける言葉さえも失ってしまった。
彼女は常習的な暴力と性的ハラスメントの被害者で、彼女がミスを繰り返す
度、当然の罰として行われていたようだ。
「かおりちゃん、誰かに助けを求めたり、話した事ってある?」
「ないよ。話たってどうにもならないし、私には今の場所しかないんだもん。
しょうがないよ」
「もしもだよ、もしかおりちゃんが生活できる場所が他にあったらどうする?」
「他の場所? あったら嬉しいけど。そんなの」と彼女は作り笑いを浮かべ、
手に持ったおしぼりをテーブルに置いた。
「ねぇ、かおりちゃん」
「何?」
「かおりちゃんがイヤじゃないならさ、僕と一緒に暮らそっか」
「先生と私がいっしょに? 出来っこないよ。だって絶対に磯部先生が反対
するに決まってるよ」
「そうだよね。かおりちゃんがこの事話したら恐らく賛成してくれないと
僕も思うよ。だからさ、先生達には内緒ねっ!」と僕は口元に人差し指を
そっと立てた。
「でもみんなが心配するし~ これってとっても悪い事だよね?」
「そうだよ、とっても悪い事だよ。でもね、社会人の僕がキミを誘ったん
だから、これは全部僕の責任。つまり悪いのはこの僕でかおりちゃんは全然
悪くなんかないよ」と僕は困惑する彼女を安心させると同時に今後僕たちに
降りかかるであろう現実も正直に伝えた。
「ただこれは社会的に絶対許される行為じゃないから、僕たちは人目に付か
ない様ひっそりと暮らさなきゃいけないんだ。誰にも見つからないようにね」
「ひっそりと?」
「そう。ひっそりとね」
困惑する彼女に対し僕は強引には説得せず、全て彼女自身の選択に委ねた。
たとえ彼女の居場所が理不尽かつ劣悪な環境であれ、他人であるこの僕が
彼女に残された僅かな人生を決めるべきではないと感じたからだ。
そして再び重い沈黙の空気が僕たち二人を包む中、遂に彼女は自身で
人生の決断を下した。
〈〈先生、私を連れてって!〉〉
彼女の返事をしっかり受け止めた僕は早々に会計を済ませると、互いに
言葉を一切交わさず足早に喫茶店を後にした。
僕たちは辺りに注意を払いながら地下1階からエレベーターを乗り継ぎ、
彼女が勤める居酒屋がある2階へと向かった。
彼女の知り合いに遭遇する危険度がもっとも高いこのフロアを脇目も振らず
通り過ぎると、僕たちは駅に直結する連絡橋を全速力で一気に駆け抜けた。
〈はぁ、はぁ、はぁ……〉
〈はぁ、はぁ、はぁ……〉
「かおりちゃん、大丈夫?」
「はぁ、はぁ、はぁ、うん、大丈夫」
「もうちょっとだから、がんばろう!」
「うん!」
僕たちは最低料金のキップを握りしめ、とりあえず東京方面に向かうに
列車に飛び乗った。