弱肉強食の共存
高校生時代に書いたものを、一部修正したものです。
「やっと死ねる」
鋭利なサバイバルナイフを眼前に突き付けられてなお、女はそう言った。
少し肌寒さの残る春、時刻はもう12時なろうとしていた。今日は偶然帰りが遅かった。行きたくもない会社の飲み会に誘われ、行きたくもない二次会が始まり、気が付けばこんな時間だ。いつも以上に憂鬱な今日この日、路地裏で命の危機に瀕し、それでいて女は嬉々として笑っていた。
そこには違和感しかない。気持ち悪さといった方が正しいのかもしれない。
ナイフを突きつけた男は、女のそんな様子に動揺を見せることもなく毅然と立っていた。
闇の中で月明かりに照らされて怪しげに浮かび上がるナイフは、幼さの残る男の容姿には不釣り合いで。キラリと獰猛に光るそれは、間違いなく彼女を殺めることだろう。それが可能だと確信できるほどに、このナイフはそのために使われてきた。
しかしそれでもやはり彼女は臆することなく、もしくは安堵の表情さえ浮かべて、確かにそう呟いたのだ。「やっと死ねる」と。その言葉は文字通り「死にたい」、それを意味している。
そして、それは当然に男にも分かった。おかしな女だ、そう思ったと同時に、やっと当たりを引いた、とも思った。彼は巷で噂の通り魔殺人鬼だ。これほどまでに殺しやすい人間が今までいただろうか、自ら命を差し出すなど。それなのに、彼の胸には喜びの他に別の感情があることに気付いた。これはなんだろう。自分は彼女に何を求めているのだろう。
「喜ばしいところなんだけど、まだ死ねない理由があって」
ふいに思い出したように、なんの緊張感もなく女は男にそう言った。まるで買い忘れを思い出したような気軽さだ。
吐いた息が白くなり、息と一緒に言葉も凍った。
「××××××」
彼女が吐き出したのは、男にとってはまさかの言葉だった。自分を殺すための条件を殺人鬼に突きつけたのだ。
馬鹿だな、と男は小さく吹き出した。自分は殺人鬼だ。相手が納得しようがしまいがすべて殺すから殺人鬼なのに、そんな頭のおかしな人間に対して交渉しようなどと正気とは思えない。彼女は交渉のテーブルにもついていない。交渉とは優位な者から提示するものだ。今、優位なのは間違いなく男の方だと誰でも分かる。
だから、男はその条件を呑む必要はなかった。殺すだけなのだから、獲物の言葉など聞くに値はしない。ライオンはウサギの話を聞いたりしない。
それなのに、男はフードを取って笑った。
「いいよ。お姉さんが死ねるまで、待ってあげる」
* * *
あれから早二年、まだ彼女は生きていた。
死にたい、死ねる。そう確信したはずなのに、この二年間を何事もなく生き延びてしまった。死にたいと言いつつもう二十代も後半となり、いつも通りの普遍な生活をただ生きていた。そして、その普遍は彼女にとってひたすらに苦痛だった。
ただ他の人達と一つ違うことがあるとすれば、今も彼女の隣では殺人鬼が彼女を殺しすために居座っているということだ。彼女がそれを望んだから、彼は彼女を殺さずに生かしている。
ライオンくん、彼をそう呼んだ。二年経っても、名前さえ知らない。年齢も、どこから来たのかも、家族はいるのかも何も知らない。それでも、二年の内に知ったこともあった。好きなもの、嫌いなもの、知っていること、知らないこと、知りたいこと。そして、彼女を気遣う一面を持っていること。殺人鬼も所詮は人間に過ぎないということ。
知りたくはなかった。そんなことは知らずに死ねた方が幸せだった。人の心など持たない殺人鬼に、何の慈悲もなく殺される方が良かった。
この二年という時間が彼女を苦しめた。
やっと、死ねるというのに。
* * *
ソファーで体育座りをしてしまうのが彼女の癖だ。
時計が三を指しているのは、外が真っ暗なのと大きく関係している。今がまさに丑三つ時も過ぎた午前三時だからだ。めぼしい番組もないのにテレビをつけ、特に意味もなく電気は消してあった。
机の上には電話の子機。
先ほど弟から十年ぶりくらいの電話があり、彼女は母親の訃報の連絡を受けた。普段ならばとっくに寝ている時間なのに、彼女がこんな時間まで起きている所以だ。
母親が亡くなって、これでようやく両親共に失った。二年前に彼女の父が死んで、母親は弟とそのお嫁さんの三人でそこそこ幸せに生きていたと聞いた。父親は事故だったが、母親は病気だった。元々長くは生きられないと聞いていたし、可能なら幸せに生涯を終えて欲しかった。実家へはほとんど帰っていなかったが、両親を憎んでいた訳でも、避けていた訳でもない。むしろ、ここまで育ててくれたことには恩を感じているし、同時に申し訳ないとも思っていた。だから、こうして母親の最期を見届けられたことは私にとっても幸せだった。
そして、ようやくこの時が来た。
彼女は喜びでか少し震えていた。そして、おそらく自分以上に彼は喜ぶだろうと思っていたのに、彼の姿はここにはない。
「ライオンくん、帰ってこないな」
今日に限って誰かを殺しに出たらしく、彼女が仕事を終えて帰ってきてからは一度も見ていない。
出会った頃、彼は他人の生活に干渉することがひどく苦手だった。彼女も自分の生活に干渉されるのは好まないので、それを丁度良いと思っていた。彼とのはじめに交わした約束の一つだ。互いに互いの生活に干渉しない。
最近ではそんな約束もすっかり忘れたようで、彼はしきりに彼女にかまってもらおうとする。
しかし、今日は違った。どこにいくのか、どんな獲物を狙うのか、どういう心境なのか、なにも言わずに黙って出て行った。それは野生の勘のようなものだったのかもしれない。今日が二人の共同生活の最後の日となることを、どこかで感じ取っていたのかもしれない。
ぎっ。
リビングルームのドアが開いてはじめて、彼女は彼が帰ってきたということに気が付いた。音も気配もなかったのは、彼の癖なのかもしれない。
帰ってきたライオンくんは返り血に濡れていて、まるで獲物を見つけた猛獣のように瞳孔は開いていた。しかし、ハッとしていつもの表情に戻る。屈託のない笑顔、獲物を油断させるために身に着けた彼の特技だ。
「ただいま、ウサギちゃん。起きているなんて珍しいね」
「うん」
いつもと様子が違うのは火を見るよりも明らかだった。どんな時も無表情だった彼女が、薄く微笑んでいる。その表情に、彼は一瞬だけ動揺を見せた。
「さっきね、母が死んだの。私、もう死ねるね」
彼女の言葉に彼は喜ぶはずだった。ずっと彼女を殺したいと願っていた、その願いがついに叶うのだ。
それなのに彼はいつもみたいに、無邪気に喜ぶことはしなかった。いつもなら、とびきりの笑顔になっただろう。今すぐにでも殺そうとしただろう。彼が人を殺すことが好きなのは知っている。
なのに、どうして?
彼の表情は喜びというよりは戸惑いに近い。
「ウサギちゃんはまだ死にたいの?」
「うん、死にたい」
「誰を殺したか分からないような血塗れたナイフで、今すぐ僕に殺されたい?」
「どうせ死ぬだけなんだから、なんだっていいよ」
彼は彼女をウサギちゃんと呼んだ。彼女が彼をライオンくんと呼び出した後、自分がライオンなら狙われた君はウサギだね、そんな風に楽しそうに笑った。今思えば、その時はじめて彼の本当の笑顔を見た気がする。
二年という時間は、二人を繋ぐには十分な時間だった。
だから、彼の感情が読み取れないことは珍しい。彼は何を思っているのだろうか。どうして、躊躇うことがあるのだろうか。
ーーー知っている? 君は喜ぶべきなんだ。そして、私も。
彼女は不思議そうに彼をみつめた。どうしても納得いかないと言う表情の彼。彼は何も言わずにおもむろに彼女の手を掴んだ。彼の手に着いた血がまだ乾ききっていなかったのか、気持ち悪い生暖かさとぬるっとした感触が彼女の脳に伝わる。
嫌悪感はなかった。どうせ、今から死ぬのだから。
顔も知らない誰かの血で濡れることよりも、彼女にとってはやっと死ねるということが嬉しかった。死ぬことだけを願って生きてきたのだから、喜ぶのは当たり前か。さながら、クリスマスイブのこどものようだった。
それに対して、彼はどうだ。一生懸命に頭を回して考えていることは、どうすれば彼女を殺さなくて済むかだ。殺人は一月に一度と決めているから殺せない、そんな言い訳がいくつも脳裏をめぐった。
彼らの出会いは突拍子もないものだったが、一緒に過ごした日々は普遍なものだった。そんなありふれた日常が、彼にとっては知りたかったものだ。
「『君が死ねるまで、一緒にいようか?』」
君はたぶん覚えてないんだろうな、そう呟いた。ウサギちゃんは忘れっぽいから、と。
「忘れる訳ない。貴方がはじめて私に言った言葉だ」
それは意外なことだった。全てのことに無関心だった彼女は、てっきり自分に対しても何の興味も関心もないものだと思っていた。だから、自分の話など覚えていないと。
彼女は自嘲気味に笑う。「殺人鬼と一緒に住んでいるのだから、警戒もするわ」と。言動にはかなり気を付けた。うっかり殺されないように。
「死にたいくせに?」
「そう、死にたいくせに」
後ろから声を掛けた時に必ず肩を跳ねさせていたのはこれが所以だったのか、と彼は笑った。
少しは打ち解けたと思っていても、やっぱり君も僕のことが怖かったんだ。一緒にいると楽しくて、きっと同じ気持ちなのだと思っていた。君の事が知りたくなって、君が喜ぶことをしてあげたいと思った。だから、君も僕のことをそう見てくれているのだと思っていたのに。
それでも、嫌いにはなれなかった。憎しみは一つも生まれない。
二年経ってやっと、なんとなく彼女のことが分かるようになった。彼女はそこそこ友達が多くて、でも彼女にはそれが煩わしかった。彼女は彼氏を欲しがったけれど、誰とも付き合おうとしなかった。人との交流を嫌う癖に、独りを何より怖がっていた。
「ウサギちゃん、僕は存外ウサギちゃんのこと好きだったよ」
何気なく口をついた言葉が本心であることは多い。この場合もそうなのだろう。
彼は人間が嫌いで、でも嫌いだからじゃなくて人間を殺してきた。いつもバラバラにして、色んな所に捨てたからほとんど見つかることはなかった。
しかし、彼女と一緒に暮らすようになって、いつしかあまり人を殺さなくなっていた。人を殺すことは子供のころからしていたから、彼にとっては生活の一部だった。たとえば、食事や睡眠と同じ。特に満たされることもなく、乾きが潤うこともなかった。
――殺すために、人を殺してきた。
はじめは昆虫や小動物で良かった気がする。それが生命活動を停止させる行為であれば、人間でなくても良かった。しかしそれでも、彼は人を殺してきた。
「ライオンくんは殺人鬼だけど、そこに他意はなかった。殺すために人を選んだんだよね?」
彼女はまっすぐに彼を見た。この二年で初めての事だった。
「私はそんな君が割と好きだったと思うよ。社会に腹がたって人を殺す、むしゃくしゃしたらから動物を殺す、そんな人間より君の方がずっと格好良いと思ってる」
「ありがとう。でも、もうやめる。君と出会って、人を好きになっちゃったんだ」
だから、僕にはもう殺せない。
君を好きになれたから。
「ライオンくんは殺さないで生きていけるの?」
「僕は君に生きていて欲しくなったんだよ」
「なんで」
彼女は年上だった。だから、自分より辛いことをいっぱい経験したはずだ。それを知ってしまったから。
もう彼には殺せない。頑張って生きる人間に、気づいてしまったから。
「さようなら」
彼女の手を放す。彼女の熱が自分の手にあることを確認すると、そっと拳を握った。それ以上は何も言わない。ただ一言の別れの言葉を残して、彼はリビングを出た。彼の足音や気配はすでにない。
どこに行ったのか、帰ってくるのか。彼女には分からない。
最近流行りのお笑い芸人が、テレビの中で笑われていた。到底笑えない、と彼女はテレビの電源を消した。意味もなくつけていたテレビだが、消えてしまうとどこか寂しさと味気なさが残る。真っ暗なこの部屋で頼りとなるのは、窓から差し込んだ月明かりだけで、それはあの日と同じ満月だった。
いや、きっと違う満月だ。
もう彼女の隣には彼がいないのだから。
約束を忘れて背後から飛び付いてきたライオンくん、ソファーで体育座りをしているとすぐに駆け寄ってくるライオンくん。彼女は彼と過ごした二年間に思いを馳せた。
なんとなく、味気ない。寂しいとは違う。何か物足りない、少し足りない感じ。
「いってきます、で良かったのに」
死にたいと願ってもう二十年くらいになる。
楽になりたい。もう疲れた。この世界で生きていて、一体何になるのか。
彼女が死にたいを疑って、もう一年くらいになった。
今日もまた死にぞこなってしまった。
【言い訳 (あとがき)】
ライオンと暮らすウサギのお話でした。
人間がもっとも生きていると感じるのは、死に直面している時だと聞きます。
つり橋効果なんてのがあるように、やはり死が近ければ近いほど私達は生きていけるのです。
生きている実感がない、とか。
それだけで贅沢な悩みなんです。
毎日同じことを繰り返し、何にも影響を与えることなくのうのうと生きている。
本当は死んでいるみたいに生きている人ばっかりなんです。
ところで、貴方は生きていますか?