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【番外編】アルベリクの憂鬱

 しとしとと雨が降りしきる夏のある日。

 アルベリクは執務室の中を忙しなく歩き回っていた。


 同じ場所を行ったり来たりし、大小さまざまなため息を十秒に1回ついている。険しく悩ましげな表情を浮かべ、何かまずい事態に陥っていることは明らかだった。


「はああぁぁ……」


 かれこれ十何度目かのため息を吐き出したとき、すぐ横から呆れた声が聞こえてきた。


「あと何回ため息をつくつもり? あなたの湿っぽい吐息のせいで部屋がジメジメしてるじゃない」

「は、母上、いつのまに……?」


 気づけばアルベリクの母であり皇帝でもあるミレイユが残念そうな目でこちらを見ている。


 アルベリクは反射的にスッと背すじを伸ばしたあと、軽い咳払いをひとつして、何食わない顔をミレイユのほうへと向けた。


「何か御用ですか? あいにく仕事が詰まっていて忙しいのですが」


 執務机の上に投げ出していた書類を適当に手に取り、「今年は卵が高騰してるな……」などとそれらしいことを呟いてみせる。


 しかしミレイユは、そんなアルベリクの姿を眺めながら、「フッ」と片方の口角だけ上げて笑った。


「まったく、何の誤魔化しにもなってないわよ」

「な、何がですか」

「その書類は新しく作る噴水の見積書で、卵とは何の関係もないわ」

「……そ、そんなことはありません。実は今は卵を使うのが最先端の工法で……」


 アルベリクが苦しまぎれの言い訳を重ねると、ミレイユは生温かい眼差しを向けて、にっこりと微笑んだ。


「本当はイネスのことで悩んでるのでしょう? さっきため息と一緒に『もうダメだ……許してくれ、イネス……』って言ってたわよ」

「なっ……!!」


 アルベリクの顔が一気に赤くなる。

 まさかそんなことを口走っていたとは。

 しかも実の母親に聞かれるなんて……。


 額に手を当て、羞恥心にうなだれていると、ミレイユがアルベリクの肩にそっと手を置いた。


「よかったら話を聞くわよ。女心を読み解くのは、あなたにはまだ難しいでしょうから」

「母上……」


 ミレイユの後ろから後光が差して見える。

 まさに窮地に現れた救世主だ。


 アルベリクは救いの女神にふかふかのソファを勧めて席に着くと、早速悩み事を打ち明けた。


「実は、最近イネスに避けられている気がしまして……」

「イネスがあなたを避ける? 無視されるってこと?」

「いえ、あからさまな無視というより、俺となるべく会わないようにしているような……」


 アルベリクがここ数日の出来事を振り返る。


 5日前、イネスに会いたくてお茶の時間を見計らって訪ねたら、侍女に「イネス様は先ほど外出されました」と言われてしまったこと。


 3日前、街でのデートに誘ったら、その日は都合が悪いとやんわり断られてしまったこと。


 そして今朝、イネスが侍女たちと楽しそうにおしゃべりをしているところに混ざろうとしたら、「これから温室に行きますので」と急に解散してしまったこと……。


 思い出すだけで辛くて胸が痛い。


「たぶん、おそらく、いや絶対に俺を避けてますよね。一体なぜ……何かイネスに嫌われることをしてしまったんでしょうか……。それともまさか他に気になる男が……?」


 最悪の事態を想像して、アルベリクの顔がさあっと青ざめる。愛息の悲壮な表情を見て、ミレイユが小さく嘆息した。


「他の男って、誰が心当たりでもあるの?」

「いえ、特にそういうわけではありませんが……。でも、俺たちはまだ結婚しているわけではありませんし、イネスはあのとおり美人なうえに性格も良くて愛らしいですから、あわよくばと狙っている男は大勢いるはずです。その中にもしイネスの優しさにつけ込んで親密になろうとする奴がいたら……」


 アルベリクが架空の間男に怒りを募らせ、グッと拳を握りしめる。


「まあ、そういうことがないとも限らないけど……」


 ミレイユは室内の壁に掛けられたイネスの肖像画に目をやった。


「でも、イネスは浮気なんてする子じゃないわ。そうでしょう?」

「……そのとおりです。イネスはたとえどんな男に口説かれようと、俺を裏切って浮気なんてするような女性じゃない。それは分かってるんです。それなら、やっぱり俺が何かイネスの気に障るようなことを……」

「そうねえ。それが一番可能性が高そうね」


 ミレイユにもうなずかれ、アルベリクがさらに落ち込む。第三者に言われしまうと、もう確実にそうだとしか思えない。


「あなたって気が利かないところがあるから、それで傷付けてしまったんじゃないの?」

「気が……利かない……」

「あと少し強引だったりするのもよくないわね」

「強引……」


 ズバズバと遠慮のないダメ出しに、アルベリクの心がガシガシと削られていく。


「イネスのこと、ちゃんと大事にしてあげてる? 両想いだからって胡座(あぐら)をかいてるんじゃないでしょうね」

「それは……! 俺なりに大事にしているつもりですが……」


 イネスのことをぞんざいに扱ったことなど、彼女への想いに気づいた日から一度たりともない。それは自信を持って言える。


 しかし、イネスにそう思われていないのであれば、ただの自己満足に過ぎない。


「まったく、あなたったら案外打たれ弱いのね。私とエドガールも若い頃はちょっとした喧嘩をしたこともあったけど、すぐ仲直りしたものよ。毎回エドガールのほうが折れてくれてね、私が悪かったとしても、いつも『俺が悪かった』って謝ってくれて。だいたいそれで解決したわ。それからエドガールが『俺の女王様は寛大だ』って言って抱き上げるから、私はそのまま彼の額にキスを……あっ、どこに行くのよアルベリク! せっかく私がアドバイスしているのに」


 突然席を立ってドアへと向かうアルベリクに、ミレイユが憤慨して抗議する。しかしアルベリクは構うことなくドアを開け、ジトっとした目でミレイユを見た。


「親のノロケ話なんて聞いていられません。相談に乗っていただきありがとうございました。では」

「ちょっと! 待ちなさい、アルベリク!」


 アルベリクは引き止めるミレイユを無視すると、執務室を出て寝室へと向かった。


「はあ、なんだか頭痛がするな……」


 ここしばらく、イネスに嫌われたのではないかと心身をすり減らしていたせいだろうか。

 あと、ミレイユに聞きたくもないノロケ話を聞かされたせいかもしれない。


 アルベリクは寝室に着いてすぐ侍従に薬を持ってくるよう命じると、広いベッドの上にどさりと寝そべった。


「……やっぱり俺が謝るべきだよな」


 エドガールはどんなときも自分のせいだと言って謝っていた。アルベリクだって、自分から謝ることに抵抗はない。


「だが、理由も分からないまま謝ったところでイネスは許してくれるだろうか」


 適当に謝罪すればいいと考えているように思われて、かえって気分を悪くさせてしまうのではないだろうか。そうなったらもう取り返しがつかないかもしれない。


「くそ、正解が分からない……」


 頭痛がさらに悪化し始め、その痛みに思わず額に手を当てる。するとノックの音が聞こえたので、アルベリクは目をつぶったまま返事した。


「薬か? 早く持ってきてくれ」


 ドアが開き、急いだ足音が近づいてくる。

 そしてベッド脇のサイドテーブルにトレイを置く音がしたと思ったら、今朝ぶりの愛おしい声が聞こえた。


「アルベリク様、大丈夫ですか……?」

「……イネス?」


 驚いて顔を向けると、心配そうにこちらを見つめるイネスの姿が目に入った。


「どうしてここに……」

「さっきたまたま侍従の方と出くわしたのですが、アルベリク様が体調を崩されたとお聞きして……心配で来てしまいました。頭痛がひどいのですか? 薬をお持ちしましたのでお飲みください」


 イネスがその美しい手で薬を手渡し、アルベリクが口に含んだのを見計らって今度は水の入ったグラスを差し出す。


 アルベリクは促されるまま薬を飲むと、呆然とした顔でイネスを見つめた。


「どうなさったのですか? もしかして寒気が出てきましたか? でしたらすぐに侍医を呼んで……」

「違う」


 イネスが呼び鈴に伸ばした手を、アルベリクが制止する。


「そうではなくて……君が看病に来てくれるのが不思議で。俺を避けていたんじゃないのか?」

「それは……」


 イネスが動揺したように視線を揺らす。

 やはり気のせいではなく、イネスはアルベリクを避けていたのだ。

 そのことにショックを受けたが、アルベリクはイネスの手を握りしめて頭を下げた。


「すまない! きっと俺が君の嫌がることをしてしまったんだろう? それが何なのかは分かっていないが、本当に申し訳ないと思っている。言ってくれたら絶対に直すから、馬鹿な俺に教えてくれないか?」


 イネスはアルベリクを避けていたにもかかわらず、こうしてアルベリクを心配して訪ねてきてくれた。


(だったら俺もウジウジと悩んでばかりいないで、縋りついてでも許しを乞うべきだ)


 アルベリクが真摯な眼差しでイネスの綺麗な金色の瞳を見つめる。


 するとイネスは、ふるふると首を横に振り、心底申し訳なさそうに長い睫毛をそっと伏せた。


「そんな……謝らなければならないのは、わたしのほうです。アルベリク様を避けるような態度を取ってしまって、本当に申し訳ございません。もしかして、それで悩ませてしまって体調を崩されたのですか……? だとしたらお詫びのしようもなく……」

「違う、君のせいじゃない。これはその、母上から父上とのノロケ話を聞かされたから、その拒否反応で……。それより、なぜ君が俺を避けようとしたのか教えてくれないか。君が嫌がることはしないようにしたいんだ」

「それは……アルベリク様にお伝えするのは恥ずかしいのですが……」


 イネスの頬がほんのり朱に染まっていく。

 恥じらう顔が可愛いな、とアルベリクがぼんやり考えていると、イネスは意を決したようにアルベリクを見つめ返した。


「実は……アルベリク様とのスキンシップを他の人に見られるのが恥ずかしかったのです」

「は……? 俺とのスキンシップ?」


 ポカンとした顔でオウム返しするアルベリクに、イネスがこくりとうなずく。


「アルベリク様は何というか……人前でもあまり気にせず、わたしに触れようとなさるでしょう? それがちょっと気まずかったり……」

「君が言っているのは先日の茶会のことか? 令嬢たちの前で手に口づけたから……」

「いえ、そのくらいなら全然構わないのですが、それ以上に……抱き上げたり頬にキスしたりなさるではありませんか……!」


 イネスが真っ赤になって語気を強める。

 指摘されて、アルベリクはそういえば、と思い出した。


 夜会でイネスとダンスをしたあと、イネスが足が疲れたと言うので、早く休ませてあげねばと思い、イネスの羽のように軽い身体を抱き上げて休憩室に連れていったことがあった。


 あとは視察から疲れて帰ってきたときのこと。いつもの王宮の騎士や侍従たちと一緒にイネスも待ち構えて、可愛い笑顔で「おかえりなさいませ」と迎えてくれるものだから、愛おしさが込み上げてきて、ついイネスを抱き寄せて「ただいま」と頬にキスしてしまった。


「夜会で変な噂が立ったり、王宮の人たちにも『いつもお熱いですね』なんて言われてしまって、どうすればいいのか分からなくて……」


 イネスの潤んだ瞳がアルベリクに向けられる。


「す、すまない。そんなことになっていたとは知らなかった。だが、人前でのスキンシップなんて前からしていたことでは……」

「前は復讐作戦の一環だと思っていたから大丈夫でしたが、今はそうではないですし、やっぱりああいうのはちょっと……」

「そうだったのか……」


 アルベリクが反省してうなだれる。

 するとイネスが少し慌てたように付け加えた。

 

「アルベリク様に触れられるのが嫌というのではないのです。それはむしろ嬉しいというか、私もアルベリク様にもっと触れたいと思いますし……」

「イネス……」

「ただ、人前ではもう少し控えめにしていただけるとありがたいです」


 イネスに上目遣いでそう言われ、アルベリクはこくりと深くうなずいた。


「分かった。人前ではなるべく抑える。君に負担はかけたくないから」

「ありがとうございます」

「──だが、今は二人きりだからいいだろう?」

「あっ……」


 アルベリクがイネスの手を引いて、ベッドの上に抱き寄せる。


 鼻先が触れそうなほど顔を寄せ、イネスの陶器のように白く滑らかな頬を優しく撫でると、きらきらと陽光のように輝く金色の瞳がそっと恥ずかしそうに閉じられた。


「イネス、愛している……」


 二人きりの部屋の中で、互いを求め合う唇が何度も重なった。



◇◇◇



 一方その少し前、アルベリクの寝室のドアの前では……。


「なんだ、心配いらなかったんじゃない」


 息子が体調を崩したと聞いて駆けつけたミレイユが、くすりと笑ってドアから離れる。


「早く結婚の準備を始めないといけないわね」


 思いきり盛大な式を挙げてあげなくちゃと、大事な二人のこれからに思いを馳せながら、ミレイユは軽やかな足取りでその場を後にしたのだった。



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