残された者
一人の女が彼の背中に短剣を突き立てていた。
彼は振り返り、女を見る。
女は涙を流しながら彼を見つめていた。
女の名を呼びながら、彼はその場に倒れた。
その彼の身を抱きしめながら、女は声を上げて泣き続けている。
それが、かつていた世界で彼が最後に見た光景だった。
今になって考えてみれば、当然の結末なのだろうと思える。
彼女は何度も彼に行いを改める様にと訴えていたが、彼はそれを聞き入れようとはしなかった。
当時の彼は怒りと憎しみに我を忘れてしまっていた。
復讐のみに心を囚われ、妻を……たった一人残った家族を蔑ろにし、その言葉に耳を傾けようとはしなかった。
彼と同じかそれ以上に、彼女も悲しみ苦しんでいただろうに、彼女から目をそらし、自身の内にある激しい憎しみにばかり目を向けていた。
復讐を果たせるなら、それ以外がどうなろうと気にもしていなかった。
この世界に来てからも、その憎しみが消える事は無かった。
二人の子供達……まだ幼かったあの子たちが、自身の目の前で息を引き取った姿を、鮮明に思い出すことが出来た。
思い出すたび、憎悪の感情が湧き上がってきた。
それゆえに、出来る限りそれを思い出さぬように努めていた。
だが何かの拍子にそれを思い出してしまうたび、湧き上がってくる怒りと憎しみの感情を押さえるのに苦労した。
今、彼はそれを思い出していた。
かつては常にその記憶と共にあった感情は、もう湧き上がって来ることは無かった。
いつからそうであったのか……彼が過ちを犯すきっかけとなった激しい感情は消え、ただ淡い悲しみだけが残っていた。
今思えば、クラウスに出会ってからずっと……三百年以上もの間、ほとんど思い出すことも無かったような気がする。
それ以前の彼は、どれ程その感情を抑えようとしても、うまくいかなかった。
クラウスと共に過ごした日々が、それらの感情を消し去ってしまっていた。
クラウスと二人で鍛錬に明け暮れていた日々を思い返してみる。
彼はクラウスを恐れていた。
少しでも気を抜けば、クラウスはすぐに彼に追いつき、追い越して行っただろう。
彼はそれを喜び、そして恐れた。
自身と伍して戦える相手がいることを喜んでいた。
クラウスと打ち合う日々の中で、自身が戦士としてさらに高みへと至れることを喜んでいた。
そして、いつか追い越され、クラウスが自分に興味を失うのではないかということを恐れていた。
クラウスよりも先を行っているからこそ、クラウスにとって価値のある存在となっているのではないか……追い越されてしまったなら、自分はクラウスにとって価値のない存在となってしまうのではないかと、ずっとそんな恐れを抱き続けていた。
かつての彼は英雄として、王として、責任を負い過ぎていた様に思う。
死んでこの世界に来てから……とりわけクラウスと出会ってからは、ただ一人の戦士として在り続けることが出来た。
クラウスと共に、ただひたすらに技を磨き続ける日々。
その日々を楽しみ、そして夢中になっていた。
鍛錬に没頭し、そのことばかりを考えていた。
クラウスの成長を喜び、そして自身の成長を楽しんでいた。
その日々の中で、怒りや憎しみといった感情を忘れてしまっていた。
クラウスと共に過ごしてきた、その日々を思い返す。
こうして振り返って見て、改めて思うのだ。
それは自身にとって、どれほど充実した日々であっただろうかと。
彼は日の昇る方角に目を向けた。
今朝、クラウスが歩き去って行ったその方角を、彼はそのままずっと見つめ続けていた。
その日もまた、いつものように亜人たちが丘の上にやってきた。
アディメイムは一人で彼らを出迎える。
パルヴァーが、彼に挨拶をするために近付いてきた。
「おはようございます、アディメイム。今日はクラウスはいらっしゃらないのですか?」
問われたアディメイムは、日の昇る方角……今朝がたクラウスが旅立って行った方角に視線を向ける。
「あいつは……もういない」
その言葉を聞いたパルヴァーが目を見開き、驚きの声を上げる。
「アディメイム! 今、声を!?」
「ああ。禊は終えた。もう……良いだろうと思ってな」
アディメイムは笑みを浮かべ、答える。
憎しみは消えていた。
いつの間にか、自身でも気づかぬうちに。
あの男と共に過ごした日々が、それを洗い流してくれていた。
彼は驚きの表情を浮かべているパルヴァーに、笑みを浮かべたまま話しかける。
「クラウスは旅に出た。ここに戻ってくることは無いだろう。かつていた世界に帰るのだと、あいつはそう言っていた」
「旅に……ですか?」
「ああ。お前たちのように生きたいのだと言っていたよ」
「私たちのように? 良く分かりませんが……そうですか」
「あいつはお前達に感謝していた。お前たちを見て、その生き方を羨んでもいた。そのような生き方に憧れたのだと……あいつはそう言っていた」
「憧れる? 私たちの生き方にですか?」
パルヴァーは首を傾げていた。
不死の肉体を捨て、限りある人生を生きたいとクラウスは望んでいた。
それを説明したところで、おそらく彼らには理解できないだろう。
だがアディメイムには、クラウスの気持ちはよくわかった。
共に過ごしてきた亜人達を愛おしく思うからこそ、クラウスはそのような願いを持ったのではないか。
アディメイムは脳裏に一人の女の姿を思い浮かべていた。
あの女性は、自らの信奉者達を”我が愛し子”と呼んでいた。
その司る物の故に、彼女を恐れ忌避する者も多かったが、そのような者達すらも、彼女は憐れみ、慈しんでいた。
クラウスもきっと彼女と同じように、弟子たちの事を想っていたのではないだろうか。
アディメイムは再び日の昇る方角に目を向ける。
クラウスは今どのあたりにいるのだろうか?
彼が目指す場所は、すぐにたどり着けるような場所では無いのだろう。
だとしても、いずれは辿り着く筈だ。
どのような障害があるのだとしても、あの男がそんな物につまずくとは思えない。
クラウスは周囲の景色を眺めるのが好きだった。
今はどんな景色を目にしているのだろう?
ここにいる間は、ずっと同じ景色を眺めていた。
三百年ぶりに見る新しい景色を、彼は楽しめているだろうか?
その視線の先に広がる景色を見て考える。
自分もいつか、旅に出てもいいかもしれない。
元の世界には戻れないが、この世界を見て回ることは出来る。
この世界の広さがどれ程なのかはわからないが、どこも同じ景色などということはない筈だ。
そう……自分もいつか旅に出よう。
だがそれは今では無い。
今はまだ、教え子たちと共に過ごし、その成長を見守りたい。
アディメイムは丘の上に集まった弟子たちを見回し、彼らに向かって呼びかけた。
「さあ、はじめようか」
その声を聞いた弟子たちは、皆が驚きの表情を浮かべてこちらを見ていた。
それを見て、アディメイムは笑みを浮かべる。
仕方の無い事なのだろう。
彼らがアディメイムの声を聞いたのは今日が初めてなのだ。
今まで一言も喋ったことの無い者が突然話し出したのだから、驚くのも無理はない。
「どうした、始めるぞ!」
パルヴァーが辺り一帯に響き渡るほどの大声で、亜人たちを一喝する。
「「「はい!」」」
皆が我に返ったように返事を返した。
「ありがとう」
アディメイムはパルヴァーの肩を叩きながら、礼を言う。
「いえ、そんな」
パルヴァーは笑いながら一礼し、他の亜人たちのもとへと歩いていく。
そうして弟子たちは、いつものように鍛錬を始める。
アディメイムは落ちていた木の枝を拾い、かつてクラウス相手にしていたのと同じように、地面に文字を書いてみた。
ついさっきパルヴァーに対して口にした言葉。
地面に書いたその文字を、しばらく眺めてから顔を上げる。
そして、クラウスの去って行った方角に目を向けた。
「お前にも、伝えておけば良かったな」
クラウスと共に過ごした時間が、どれ程自身の心を救ってくれていたか。
一度も伝えることが無かったせいで、彼はそれを知らないまま行ってしまった。
「お前がいたおかげだ」
クラウスと三百年以上もの時を共に過ごした。
その日々を思い出しながら、心の中にある想いを言葉にする。
「ありがとう」
もはや届く事の無い言葉。
その言葉には、旅立った友に対する深い感謝の想いが込められていた。
四章はここまでで終わりとなります。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。




