Ⅳ 不穏 -12
「あれがピラティウス山だよ」
馬車を操る男が、陽気に言った。
蘭は二年前にも見た、険しい山を黙って見上げた。
信が笑顔で答える。
「壮大な山ですよね。何度見ても、圧倒される」
「お、兄ちゃん。この辺に来たことがあるのかい」
「ええ、何度か、仕事で。ところで、ドムにはあとどれくらいで着きますか」
信は話題を変えた。男はああ、と少し考える。
「あと、一刻くらいかな」
答えてから、男はチラリと振り返り、信と蘭を見た。
「それにしても、神殿ではなくて、ドムに行きたいなんて、変わっているね」
「最近、北から珍しいものが入ってくるとうわさに聞いてね。ちょっと見てみたいんです。よければ仕入れようと思って」
ああ、そりゃあ、と言って、男は困った顔をした。
「確かに珍しい物は沢山あるよ。でも、ほとんどが上に住んでいる連中の専売特許だ。のこのこ行っても、相手にされないぜ」
信は動じずに言った。
「そうですか。まぁ、見るだけでも」
のん気に言うと、男はそれ以上何も言わなかった。親身になるほどの間柄ではなかったと、思い出したのだろうか。
「ところで」
今度は信が口を開いた。
「上の方ってなんですか?」
「行きゃわかるよ」
男はさっきとは打って変わって、ぶっきらぼうに答えた。
男の言う通り、馬車に揺られて一刻ほどたった時、前方の小高い丘が見えてきた。町らしく建物らしきものがたくさん見えるが、場所によってはっきり色分けされているかのようだった。
丘の頂上は白、中腹はクリーム色や茶色を帯び、下の方は薄汚れた鼠色に覆われていた。頂上に向かって、赤い道がまっすぐ伸びていた。
やがて赤い道に馬車がたどり着いた。上っていくと、たちまち人にたかられた。大人も子どももいる。皆一様にぼろきれのような服を着ていて、馬車は走っているのに、轢かれても構わないかのように、馬車にしがみつこうとしたり、窓に手を入れようとしたりする。御者台に登ろうとした少年を、男は黙って蹴り落した。
「ちょっと」
蘭が驚いて思わず声を出すと、男は不愉快そうに言った。
「止まったら、俺たち命はないよ。あいつらまともじゃないから」
馬車はスピードを落とさず走った。蘭が振り返ると、浮浪者たちはあきらめて立ち止まっていた。何人かは地面に転がっていて、呻いている。他の人たちは、うつろな目でこちらをじっと見ていた。
蘭は思わず目をそらした。信を見ると、厳しい顔で前を見ていた。
前方に門が見えてきた。
門の周りは武装した兵隊が何人も立っていた。殺気を孕んだ目で、下でうごめく浮浪者たちを見ている。
だからここまでは上がってこないんだ。
馬車が近付くと、止められることもなく、門が開いた。通り抜けると、すぐさま門が閉じる。
「馬車は無条件で通り抜けられる」
男はぼそりと言うと、大通りの端に馬車を止めた。
クリーム色や茶色の建物が並んでいる。見慣れた街並みだ。
男は町の上の方を指さした。白い高い壁が見える。
「あの壁の向こうは、上流市民の町だ。許可証がないと入れない。一般人には、まず許可がおりない」
今度は下の方を指す。灰色の壁が見えた。
「あの壁の向こうはスラム街だ。絶対行くな。さっきみたいな連中が、うじゃうじゃいる。この区域は中流市民の町だが、下の方に行くほど、治安は悪くなる。気をつけな。特にそっちの姉ちゃんは」
信は礼を言って、お金を払った。
男の言い値よりだいぶ色を付けて払うと、男はにんまりした。
「兄ちゃんたち、どのくらいいるつもり?」
さっきとは口調ががらりと変わった。
「三日くらいかな」
信が答えた。男の魂胆は大体分かる。信もそのつもりで多めに渡した。気分の変化が顕著に態度に出るのは、分かりやすくて、やりやすくもある。それに、何のかんの言って、丁寧に教えてくれる程度には、人が良くて律儀だ。
じゃあ、帰りも、と男は言うと思っていた。
「俺は明後日まで、そこの宿にいる。帰り間に合えば、乗せて帰るよ」
思ったより乗ってこない男に、信は肩透かしを食った気がした。
「明後日まで」
信が確認すると、男は頷いた。
「それ以上はここにいたくない。間に合わなかったら、お前さんたちに何かあったと思って、しっぽ巻いて帰るよ」
男は滞在する宿を告げると、馬車を駆って行ってしまった。
男を見送ってから、信は蘭に言った。
「蘭、何か被って顔を隠しておいた方がいい」
そもそも派手な格好はしていない。蘭は何か言いかけたが、素直に頭から布を被った。




