Ⅲ 王の子 -34
暗い部屋で凛は長く息を吐いた。今まで息を止めていたのだろうか?ちゃんと息ができていたかでさえ、定かではない。
急に高鳴ってきた胸を押さえて、凛はしゃがみこんだ。
信が現れた。もう会うことはないだろうと思っていた信が、目の前に現れたのだ。夢かと思った。ぼんやりとした人影は幻覚かと思ったし、信の声も幻聴ではないかと自分を疑った。巫女姫になってしまって、自分がおかしくなったのだと思った。
凛は自分の耳に触れた。
信の声が耳に残っていた。それで……
凛は立ち上がった。
蘭を助けなくてはいけない。
蘭がどうしていなくなったか、凛には大体想像がついた。蘭が私の姿を見ようとここに来たのなら、きっとセレネが察知していたに違いない。
蘭の夢を見た時、セレネはそれを知っていた。セレネはわたしと蘭がつながっていることをよく知っている。すぐれた占い師なだけあって、そうしようと思えば、蘭の行動も読めるのだろう。
蘭が引き出されたのではない、いなくなってしまったのなら、捕まえたのはセレネだ。
凛は隣の部屋を覗いた。アシュランの姿はなかった。自分の部屋で休んでいるのだろう。
凛はゆっくりと扉を開け、廊下に滑り出た。セレネの私室まではそれほど遠くない。
廊下は静まり返っていた。
王たちの泊っている棟は、ここからは離れていた。お付きの者たちが泊る宿舎は内門から横に入った裏庭に、別に建てられている。
その辺りは今日は賑やかだろう。
しかしここは変わらず静かだ。
目的の扉の前に来ると、凛は扉をたたいた。
すぐに、どうぞという声がした。凛は名乗らず部屋に入った。
入ってきた凛を見て、セレネは驚いてみせた。
「これは、巫女姫様。こんな夜分に何かございました?お呼びしてくだされば、こちらから伺いましたのに」
こんな夜中に、セレネは寝着も着ず、普段と同じ格好で座っていた。セレネは凛に椅子を勧めた。自分は椅子から立ちあがり、床に座す。凛は立ったまま構わず言った。
「ここに蘭がいるでしょう」
声を抑えて、セレネを問いただす。
「ラン……というのは、姫様のお姉さまでしたか?なぜ、ラン様が、このようなところに?」
しらばくれるセレネと、おしゃべりする気は凛にはなかった。
凛は答えず、部屋の奥へ行く。
寝室との区切りである布を横に引くと、はたして、寝台の上で意識を失った蘭が横たわっていた。
「蘭」
あわてて、凛は蘭の呼吸を確かめる。蘭の息を感じ、胸の上下を確かめると、凛は寝台のそばに膝をついた。
「蘭……」
この三年で何があったのだろう。短くなった髪をなでながら、凛は目頭が熱くなった。顔も身体も、三年前とは何かが違う。
でも、蘭だ……
「なぜラン様が神殿に来ているとご存じなのです?」
悪びれもせず、セレネは凛の後ろに立って、聞いてきた。
「……同郷の方とは懐かしいお話ができましたか?」
セレネの言葉に、凛は思わず立ち上がり、セレネを見た。
「何のお話をされましたか?貴方様の最近のご様子などを聞かれたのでは?」
聞かれなかった。
凛の頭は沸騰しそうになった。顔が赤くなっていくのを、自分でどうすることもできなかった。
聞かれなかった。信が聞いたのは、蘭のことだけだった。
「視てたの?」
低い声で、凛がセレネに訊く。
「視えたんです」
申し訳なさそうに、セレネが笑った。
凛は窓際に置いてあったガラスの花瓶を手に取ると、花が生けてあるまま、床にたたきつけた。大音量を響かせ、ガラスが四方八方に飛び散る。
セレネは眉を顰め、蘭の方をちらりと見た。
凛は破片を一つ手に取ると、握りしめた。握った手から、血が数滴したたり落ちる。
喚きだしたくなるのを抑えるように、凛が低く言った。
「蘭を元の場所に帰しなさい」
「ラン様は儀式場に侵入しようとした不埒ものですよ。神を冒涜する行いです」
「セレネ」
凛はゆっくり言い聞かせるように言う。
「あなたはわたしが死んだら悲しいでしょう?」
そして、ガラスの破片を自分の首に当てる。
セレネは首を横に振った。
「馬鹿なことはおやめ下さい。あなたは巫女姫ですよ」
「セレネ」
凛は微笑んだ。威圧する凄みのある笑み。
「わたしは蘭が一番大切なの。知っているでしょう?」
そういうと、ガラスの破片を持った手を横にすっと引いた。赤い線が首に走り、血がじわりと滲む。慌てて、セレネが凛の首に手を当てる。
「何てことを!」
悲鳴に近い声を上げるセレネの手を掴んで、凛はもう一度言った。
「蘭を帰して」
「分かりました」
セレネが早口でそう言うのを聞いて、凛はセレネの手を離した。セレネが止血用の布を凛に持たせ、傷口を抑えさせる。そして部屋を飛び出していくのを、凛はぼんやりと見送った。
蘭に目を移す。蘭は騒ぎなど気にかけないように、静かに眠っていた。
さようなら、蘭……
蘭が帰されるまで、きちんと見送りたかったけど、大丈夫だよね?
自分に言っているのか、蘭に言っているのか分からないまま、凛は目を瞑った。




