Ⅱ 都 -29
凛は突然の眩暈に襲われ、思わず片膝をついた。
豊穣祭に向けて、巫女たち総出で、神殿を磨き上げていた時である。膝をついた凛の周りに、同僚たちが集まって来た。
凛は呼吸を整えると、笑顔を作って立ち上がろうとした。
しかし、体に力が入らず、立ち上がれない。もがいていると、視界の向こうに、走ってくるセレネが見えた。
セレネが走るなんて、珍しい。そう思っていると、セレネは心配そうに凛を抱き起し、周りの巫女たちに言った。
「この人はわたしが預かります。皆さんは作業に戻ってください」
滅多に姿を見せない占い師の登場に、巫女たちはざわめいた。しかし、しばらくすると、速やかに作業に戻っていった。
セレネはそっと凛を立たせると、凛の部屋に連れて行った。寝床に横たわるように言われたので、凛は大人しく横になった。
それにしても、何故あんなにタイミングよくセレネは現れたのか。セレネはわたしが倒れる前から、走っていたようだった。間に合うように、走っていたのだ。何が私に起こるか知っていた。
「セレネ、あなたは」
呼びかけると、セレネは微笑んで、凛の頭を撫でた。
「ごめんなさい。ランに見つかってしまって、ランを危険な場所に導いてしまった」
「何を言っているの?蘭?」
「でも大丈夫。知り合いに言づけました。助けてくれるはずです」
意味不明なことをセレネが言うので、凛は何をどう問いただせばよいか分からず、口ごもった。しかし聞き捨てならない言葉が出て来た。ラン、キケンナバショ、ミチビイテシマッタ
体を起こしかけた凛を、セレネは片手で押し戻した。片手なのに、あらがえない力だった。
「なにもかも、大丈夫よ。少し、眠りなさい」
次に目が覚めた時は、セレネはいないだろうと確信しながら、凛は眠りに落ちていった。
意識にはまだ霞がかかっているようだった。頭をすぐに動かさない方がいい、と蘭は判断した。あらゆる意味で。
目を閉じたまま、辺りの音に耳をすませる。
椅子がきしむ音、何かを食べる音、グラスに液体を注ぐ音、そして人の話し声。
「こりゃあ、最後にとびきりの商品を捕まえたね」
少し甲高い女の声だ。歳は四、五十代くらいか。頭に響く、耳障りな声だった。
「でしょ。一人でフラフラ歩いていたから、ひょっとしたら、頭がよわいのかもしれないが」
野太い男の声が聞こえ、それにかぶせるように女は笑った。
「そっちのほうが好都合だろうよ。わかりゃしない方が、本人も幸せかもしれん」
それで…と女の声音が変わる。
「手筈は整っているんだろうね」
「はい、もうじき伝令がくるはずです」
どうやら、蘭は人さらいに攫われ、どこかに売り飛ばされるらしい。
とんだ災難だ。いや、人さらいが言うように、フラフラ路地を一人で歩いていた自分が迂闊だった。ノックに、聖地でも治安がいいわけではないと聞いていたのに。
しかも、あまり時間はなさそうだった。
では、蘭は自分の運命を悲嘆し、打ち震えるしかないのか。
否……蘭の太ももにはベルトが巻かれ、ナイフが装着されていた。
針森の村では、狩りをする。弓矢も使うが、うさぎや小動物は、ナイフで直接仕留めることもある。もちろん、蘭も何度も仕留めている。
蘭はこの旅の間中、そのナイフを護身用に身に着けていた。
問題は、人さらいたちがウサギよりすばやくないかどうかである。
まず、蘭は相手の人数と自分との距離を知りたかった。気配では五人の人間が、そう近くないところで食事をしている風だったが、実際見て確認したい。
蘭は薄目を開けてみた。薄目でも、見られていたらアウトだが、二人は話に夢中のようだ。残りの三人は、食事を貪っていた。蘭に注意も向けていない。
位置も人数も予想通り。女が頭で、あとの四人はいわゆるならず者の風体だった。
蘭はそっと足を動かすと、縛られた手でナイフを抜き、床と縄の間にナイフを挟み、縄を刃にこすりつけた。縄が切れて、手が解放される。しかしそのままの体制で蘭は静かに待った。男たちの向こうに見えたあの扉が開いて、蘭を運び出そうと近づいて来た時が、チャンスだ。




