Ⅱ 都 -28
神殿の周りに広がる町には、名前がない。太陽神に近しいものには、人間が勝手に名前を付けてはいけないからと言われている。
ゆえに、人々は便宜上、神殿の町とよんでいる。その町を見下ろす形で、神殿はそびえ建っていた
ノックと信は町に着いて早々、仕事の段取りをしに神殿に出かけた。正確には、神殿の入り口横にある管理事務所にである。蘭も行きたかったが、関係者以外が立ち入ることは固く禁じられていた。都には女の石工はいない。ごまかすことは無理そうだった。
「こんな時期じゃあ、難しいかもしれないけど、一応、面会できないかも聞いてみるよ」
信は慰めるように約束してくれた。
だからここで、いい子に待っておくんだよ。
宿で二人に言い含められ、蘭は神妙に頷いた。女の一人歩きが目立つのは、神殿の町でも一緒だ。
しかも聖地だからといって、治安がいいわけでは決してない。巡礼者を狙ったスリなどは、むしろほかの町よりも多いくらいだ。
豊穣の儀式は見に行けると、ノックはラクダの上で蘭に約束してくれた。
豊穣の儀式は、一般の巡礼者も見ることができる。最も、大勢の人が詰めかけるので、巫女の顔も豆粒ほどにしか見えないのだが。
しかし凛のいる神殿の敷地に入れるだけで、蘭は胸が高まった。
二年前のあの日から、もう凛に会うことはないと絶望していた日々を思えば、凛のいる場所に近づけるだけで、奇跡のように感じた。
もし会えたら、と期待する気持ちもないわけではないが、多くを望みすぎると、かえって深い奈落の底に突き落とされるような気がして、自分を戒めた。
……凛と同じ場所にいる。今はそれだけでいい。
豊穣祭まであと一週間。
蘭にとっては長いが、石垣の仕事を任されたノックたちにとっては短い。夜明け前から出かけ、日没まで働いていた。
蘭はその間、部屋を掃除し、洗濯をし、二人のために食事を作った。蘭たちが泊っているところは、神殿で仕事をする技術者たちが宿泊する宿舎で、寝床はあるが、食事などが賄われるわけではない。
蘭の作った夕飯を、ノックは「うまい、うまい」と連呼して平らげた。
「いやぁ、例年だといつも宿の隣の店で、ジャン(スープに麺をいれたもの)を食べて終わりだったからな。蘭を連れてきて、本当に良かった」
信は食べながらも、もうウトウトしている。
食べ終わると、蘭が片付け終わる前に、二人とも眠ってしまっていた。
「で、あなたは、どちらの奥さんなの?」
宿舎の共同洗濯所で、蘭は一緒になった二人のおかみさんに迫られていた。
どうやら宿舎内で、三人のはっきりしない関係に、憶測と噂が花を咲かせているらしい。
「ああ、ええっと……」
言い淀みながら、蘭は頭をフル回転させていた。どちらともそんな関係ではないと言っても、さらに盛り上がって根掘り葉掘り聞かれるということは、さすがに蘭も分かってきた。
「父と弟です」
結果、蘭は一番無難と思われる答えを導き出した。
迫った二人は、明らかにがっかりした顔をしている。あら、でも……と一人は納得していないのか、首を傾げた。
「三人とも全然似ていないわね」
当たり前だ……そう思いながら、蘭はにっこりして答えた。
「よく言われます」
あとはもう、ただひたすらにニコニコしているのみである。
しかしもう一人のおかみさんも食い下がって来た。
「お母さまは?一緒ではないの?お見掛けしないけど」
蘭は悲しそうにうつむき、小さな声で言った。
「母はいま病を患っていて、代わりにわたしが」
嘘を重ねることに、胸が痛まないわけではなかったが、致し方ない。平穏にこの一週間を乗り切るためだ。
たちどころに、二人のおかみさんは、気の毒そうな顔になり、蘭をねぎらって立ち去って行った。
二人の背中を見送りながら、信は兄にしておくべきだったかな、と後悔した。話を合わせるために、今夜、ノックと信に話さなくてはならないだろう。弟と言ってしまったと言ったら、信はすねてしまうかもしれない。
思わずため息をつくと、どこからか「くすっ」と吹き出す声が聞こえて来た。
慌てて見回すが、誰もいない。
蘭は濡れた手を振るって、立ち上がると、洗い場から裏口まで行ってみた。
裏口からは、大通りの裏の路地につながっている。その路地に入っていく人影がちらりと見えた。ほんのちらりとだったが、かぶっていたフードから、金色の髪が見えた気がした。
蘭は一瞬迷ったが、路地に出てみた。少し歩いてみたが、金髪どころか、だれにも会わなかった。
路地は一本道ではなく、何度も分岐している。見つけるのは無理だと早々にあきらめ、蘭は放ってしまった洗濯物を思い出した。後から洗濯に来た人がいたら、迷惑をかけてしまう。
戻ろうとして、蘭ははたと気が付いた。
路地は狭く、建物の陰で昼間でも薄暗い。
しかも入り組んでいて、慣れない者は迷いやすかった。人にばかり注意を向けて、どう曲がったか覚えず歩いた蘭は、方向が分からなくなってしまったのだ。
むやみに来た道を戻ろうとするよりは、大通りに出た方が分かりやすいかもしれない。
そう思って、蘭は明るい光の差しこんでいる道を探した。
昼間の大通りは明るい。そこからの光が路地にまで差し込んでいると踏んだのだ。
果たせるかな、三本目に覗いた路地の先に光が見えた。
足早にそちらに向かおうとした途端、不意に腕を捉まれ、あ、と思う間もなく、口を布で塞がれ、蘭は意識を失った。




